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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

越前大野訪問記

2009年09月08日 | 史跡
越前大野藩4万石の居城・大野城を訪問しました。

大野藩は土井家が藩主を務めていますが、これは江戸時代初期の大老であった土井利勝(徳川家康の隠し子との噂がある人物)の四男利房の家系です。

寛政3年(1791)そんな大野土井家に婿養子に入ったのが、井伊直幸(彦根藩10代藩主・大老)の十男・利義(としのり)でした。
利義は、土井利貞の四女と婚約をしますが6年後にこの正室が亡くなってしまうので岡部長備(岸和田藩主)の娘を後妻に迎えます。

この事により、大野藩は土井家の血から井伊家の血に引き継がれるのです。

利義は文化2年(1805)11月に利貞の隠居によって土井家の家督を相続したのです28歳でした。
3年後、藩内で大きな飢饉があった為にお救い小屋を設置したとの記録があります。利義の兄である井伊直富にも彦根城下での大火災の際に彦根城の修築より民への救済を優先し金蔵・米蔵を開いたとの話がありますので、この業績は井伊家で培われた物なのでしょうか?

大野で訊ねると、利義は記録としてあまり研究されていないそうですが文武両道であったとの事です。特に漢詩が得意だったとも言われています。
利義が井伊家より来た事によって後の土井利忠(利義の嫡男)による藩政改革が行われる地盤ができ、この藩政改革は諸藩の見本となる物で北陸の各藩から大野藩に学びにくる藩士が多く居たとの事です。
また、明治に廃れてしまったが、江戸期の大野藩は茶道が盛んでこれも利義が彦根藩から来た事による影響ではないか?との事でした。

そんな利義ですが、在任6年で関宿藩久世家より迎えた養子・利器に藩主の座を譲って隠居したのです。
隠居後に利忠が誕生し、文政元年(1818)年5月17日に利器が亡くなったので11月に利忠が藩主となります。
ちなみに利義は、利器が亡くなってから半月ほど後の6月4日に、嫡男が藩主になる姿を見ずに没します。

この関係を見ると
彦根藩は、
井伊直幸―直中―直弼 
大野藩は
(井伊直幸)―利義―利忠
との関わりがあり、井伊直弼と土井利忠は血の繋がった従兄弟同士(利忠が4年年上)になりますが、直弼が幕政に参加している頃の利忠は大野藩の藩政改革と蝦夷地開拓事業に従事していて、蘭学にも力を入れたいた利忠が従兄弟の幕政に協力した形跡は見られないのです。


大野城は、明治に廃城となっていて昭和43年に復興されましたが、その形は絵図面とは違う物となっています。


利義の嫡男の土井利忠は名君として祀られていますし、大野城には像もあります。


そして越前大野で他に有名な歴史遺構として朝倉義景の墓があります。
マンガ『センゴク』第13巻117ページにも描かれている墓です。
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