彦根城外堀(旧中掘)に架かる橋“京橋(京都に向かって架かっている橋なのでこの名前が付いています)”から城下に出ると夢京橋キャッスルロードという城下町の街並みを再現したストリートがあります。
そんな夢京橋キャッスルロードの中に赤い門のお寺が建っています。そのお寺が“宗安寺”です。
お城のすぐ近くに目立つ門構えで建っているこのお寺はどんな由来があるのでしょうか?
まずは、宗安寺を語る時に絶対欠かせない人物が居ますので、最初にその人物の話からしてみましょう。
木村長門守重成、おそらく彦根には一度も足を踏み入れた事が無い人物ですが、彦根を少し詳しく紹介している本では彦根に関わった人物となっています。
では、木村重成は、なぜ彦根に関わる人物なのか? と言えば、その首塚がある場所が宗安寺だからなのです。
戦国時代を実質的に終らせた戦いは徳川家康が豊臣秀吉の息子・秀頼の居城・大坂城を攻めた1514年の「大坂冬の陣」と翌年の「大坂夏の陣」です。
この時の彦根藩主は今の歴史上では藩主として数えない事になっている井伊直継でした、直継は生まれながら病弱だった為に大坂の冬の陣では、安全な上野国安中(当時、井伊家の飛び地があった)守備を命じられ、大坂には直継の同い年の弟・直孝が井伊家家臣団の指揮をしました。
結局これが原因で冬の陣の後に直孝に彦根藩を譲る事になるのですが、その話はまた後日…
さて、大坂冬の陣は家康が秀頼に嘘の講和を持ち掛けて、大坂城のお堀を埋め立てさせる形で終わりを迎えますが、この講和調印に秀頼の代理で家康の陣に赴いたのが木村重成でした。
この時、まだ20代前半(20歳と23歳の2説あります)だった重成は、節度があり、行動も礼儀にのっとったモノでした、これを見た井伊直孝を始めとする徳川家の武将達は感嘆したと伝えられています。
また当時の武士の誓約書は脇差で左手の親指の腹に切り込みを入れて、流れた血を右手の親指に付けて押印の代わりとする血判状が主流でしたが、大坂冬の陣の時はすでに高齢となっていた家康の血判の血が薄く鮮明には映りませんでした。これを見た重成は家康をとがめて、再び鮮明な血判を求めた逸話があります、並みいる徳川武将の中での重成の度胸は後々まで語り継がれました。
重成は、この日を境に歴史に名を残す名将となったのでした。
翌年、再び大坂城に攻め込んだ徳川家康を苦しめた豊臣方の武将の一人が重成でした。
その重成軍と戦ったのが直孝軍だったのです。両軍は一進一退の激戦を繰り返しましたが、重成軍は総崩れとなりました。
重成自身も井伊家家臣・庵原助左衛門と戦い水田に沈められてしまいました、ここで同じく井伊家家臣・安藤長三郎が現れて、助左衛門の許しを得て重成の首を切って自分の手柄としました。
当時、戦の時に斬った首は大将の所に持っていかれて、首実験と言う首と手柄を確認する作業が行われました。長三郎によって斬られた重成の首も家康の所に持っていかれて首実検が行なわれます、家康や徳川家の武将達が感慨深く首を見ていると、何処からとも無く素晴らしい香りが漂ってきました。
家康がその香りの元を確かめさせると、何と重成の髪の毛から発せられていたのでした。これは、夫の死を覚悟した重成の妻が、重成出陣の直前まで兜にお香を炊き込めて送り出したモノだったのです。
こうして重成は3度目の賞賛を受け、その首は安藤長三郎によって彦根に持ち帰って安藤家の菩提寺・宗安寺の祖先の墓と並べて五輪の塔を建てて祀ったのでした。
しかし、江戸時代は敵方の将・木村重成の墓とは公にできず、安藤家の祖先の墓とし、明治維新以降にこの事を公表したそうです。
こういう伝説がある木村重成ですから、今では特に女性に人気が高く、毎年多くの参拝客が訪れるそうです。
では宗安寺は木村重成の首塚だけが有名なのかと言えばそうではありません。
例えば、ベルドーロ添いに建っている入り口は、“赤門”と呼ばれる立派な門が建っていますが、これは佐和山城の正門から移築しています。
本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築した物で、赤門と並んで彦根近郊の歴史的な建物を上手に生かした価値のある建築物と言えます。
他にも、豊臣秀頼の母親・淀の方が持念仏としていた“本尊阿弥陀如来立像”もあり、これは鎌倉時代に作られた物である事が解かっていますし、ここが朝鮮通信使の正使達の宿だったことが関係すると予測される「李朝高官肖像画」が残っています。
朝鮮通信使は、朝鮮から日本にやってくる使者で、総勢500人ぐらいの大人数が九州の対馬から江戸まで旅をしました。
市内では、巡礼街道を別称で朝鮮人街道と呼ぶくらいに私達の身近に残ってるお話なので、何度も通信使一行が通っていたようなイメージがありますが、実は江戸時代264年の内で13回(内1回は京都まで)しか行なわれないモノだったのです。
その為、珍しさからでしょうか? 街道は見物客で一杯だったという話も伝わっています。良くも悪くも日本人は好奇心旺盛なんですね。
明治4年、政府はそれまで行なわれていた地方分権型の“藩”という制度を廃止して、中央集権制度を目的とした“県”を設置する「廃藩置県」が行なわれ、彦根藩は“彦根県”に改称し、すぐに“長浜県”に吸収され、やがて長浜県が“犬上県”に改名されました。
この犬上県の県庁が設置されたのが宗安寺だったそうですが、半年ほどで現在の滋賀県の形となり県庁は大津へ移る事となります。
宗安寺は1338年に室町幕府初代将軍・足利尊氏が上野国(群馬県)で「安国寺」という寺名を与えた寺が始まりとされ、桃山時代に領主だった井伊直政の正室の保護を受け、井伊家が佐和山に移った時に今の位置に移転してきました、以来、犬上県庁としての機能を終えるまで、江戸時代から明治初頭にかけての彦根の歴史に関わる多くの出来事を見てきたお寺と言えるのではないでしょうか。
その中には、徳川家康の位牌を祀った小さな祠もあり、庭園も詫び寂びの心を感じられる趣があります。
大坂の名将の面影と共に歴史の名残を感じてみて下さいね。
そんな夢京橋キャッスルロードの中に赤い門のお寺が建っています。そのお寺が“宗安寺”です。
お城のすぐ近くに目立つ門構えで建っているこのお寺はどんな由来があるのでしょうか?
まずは、宗安寺を語る時に絶対欠かせない人物が居ますので、最初にその人物の話からしてみましょう。
木村長門守重成、おそらく彦根には一度も足を踏み入れた事が無い人物ですが、彦根を少し詳しく紹介している本では彦根に関わった人物となっています。
では、木村重成は、なぜ彦根に関わる人物なのか? と言えば、その首塚がある場所が宗安寺だからなのです。
戦国時代を実質的に終らせた戦いは徳川家康が豊臣秀吉の息子・秀頼の居城・大坂城を攻めた1514年の「大坂冬の陣」と翌年の「大坂夏の陣」です。
この時の彦根藩主は今の歴史上では藩主として数えない事になっている井伊直継でした、直継は生まれながら病弱だった為に大坂の冬の陣では、安全な上野国安中(当時、井伊家の飛び地があった)守備を命じられ、大坂には直継の同い年の弟・直孝が井伊家家臣団の指揮をしました。
結局これが原因で冬の陣の後に直孝に彦根藩を譲る事になるのですが、その話はまた後日…
さて、大坂冬の陣は家康が秀頼に嘘の講和を持ち掛けて、大坂城のお堀を埋め立てさせる形で終わりを迎えますが、この講和調印に秀頼の代理で家康の陣に赴いたのが木村重成でした。
この時、まだ20代前半(20歳と23歳の2説あります)だった重成は、節度があり、行動も礼儀にのっとったモノでした、これを見た井伊直孝を始めとする徳川家の武将達は感嘆したと伝えられています。
また当時の武士の誓約書は脇差で左手の親指の腹に切り込みを入れて、流れた血を右手の親指に付けて押印の代わりとする血判状が主流でしたが、大坂冬の陣の時はすでに高齢となっていた家康の血判の血が薄く鮮明には映りませんでした。これを見た重成は家康をとがめて、再び鮮明な血判を求めた逸話があります、並みいる徳川武将の中での重成の度胸は後々まで語り継がれました。
重成は、この日を境に歴史に名を残す名将となったのでした。
翌年、再び大坂城に攻め込んだ徳川家康を苦しめた豊臣方の武将の一人が重成でした。
その重成軍と戦ったのが直孝軍だったのです。両軍は一進一退の激戦を繰り返しましたが、重成軍は総崩れとなりました。
重成自身も井伊家家臣・庵原助左衛門と戦い水田に沈められてしまいました、ここで同じく井伊家家臣・安藤長三郎が現れて、助左衛門の許しを得て重成の首を切って自分の手柄としました。
当時、戦の時に斬った首は大将の所に持っていかれて、首実験と言う首と手柄を確認する作業が行われました。長三郎によって斬られた重成の首も家康の所に持っていかれて首実検が行なわれます、家康や徳川家の武将達が感慨深く首を見ていると、何処からとも無く素晴らしい香りが漂ってきました。
家康がその香りの元を確かめさせると、何と重成の髪の毛から発せられていたのでした。これは、夫の死を覚悟した重成の妻が、重成出陣の直前まで兜にお香を炊き込めて送り出したモノだったのです。
こうして重成は3度目の賞賛を受け、その首は安藤長三郎によって彦根に持ち帰って安藤家の菩提寺・宗安寺の祖先の墓と並べて五輪の塔を建てて祀ったのでした。
しかし、江戸時代は敵方の将・木村重成の墓とは公にできず、安藤家の祖先の墓とし、明治維新以降にこの事を公表したそうです。
こういう伝説がある木村重成ですから、今では特に女性に人気が高く、毎年多くの参拝客が訪れるそうです。
では宗安寺は木村重成の首塚だけが有名なのかと言えばそうではありません。
例えば、ベルドーロ添いに建っている入り口は、“赤門”と呼ばれる立派な門が建っていますが、これは佐和山城の正門から移築しています。
本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築した物で、赤門と並んで彦根近郊の歴史的な建物を上手に生かした価値のある建築物と言えます。
他にも、豊臣秀頼の母親・淀の方が持念仏としていた“本尊阿弥陀如来立像”もあり、これは鎌倉時代に作られた物である事が解かっていますし、ここが朝鮮通信使の正使達の宿だったことが関係すると予測される「李朝高官肖像画」が残っています。
朝鮮通信使は、朝鮮から日本にやってくる使者で、総勢500人ぐらいの大人数が九州の対馬から江戸まで旅をしました。
市内では、巡礼街道を別称で朝鮮人街道と呼ぶくらいに私達の身近に残ってるお話なので、何度も通信使一行が通っていたようなイメージがありますが、実は江戸時代264年の内で13回(内1回は京都まで)しか行なわれないモノだったのです。
その為、珍しさからでしょうか? 街道は見物客で一杯だったという話も伝わっています。良くも悪くも日本人は好奇心旺盛なんですね。
明治4年、政府はそれまで行なわれていた地方分権型の“藩”という制度を廃止して、中央集権制度を目的とした“県”を設置する「廃藩置県」が行なわれ、彦根藩は“彦根県”に改称し、すぐに“長浜県”に吸収され、やがて長浜県が“犬上県”に改名されました。
この犬上県の県庁が設置されたのが宗安寺だったそうですが、半年ほどで現在の滋賀県の形となり県庁は大津へ移る事となります。
宗安寺は1338年に室町幕府初代将軍・足利尊氏が上野国(群馬県)で「安国寺」という寺名を与えた寺が始まりとされ、桃山時代に領主だった井伊直政の正室の保護を受け、井伊家が佐和山に移った時に今の位置に移転してきました、以来、犬上県庁としての機能を終えるまで、江戸時代から明治初頭にかけての彦根の歴史に関わる多くの出来事を見てきたお寺と言えるのではないでしょうか。
その中には、徳川家康の位牌を祀った小さな祠もあり、庭園も詫び寂びの心を感じられる趣があります。
大坂の名将の面影と共に歴史の名残を感じてみて下さいね。