文久3年(1863)12月29日、第二回遣欧使節団が横浜を出港しました。
この使節団の大きな目的は横浜港の閉鎖を談判することだったので、横浜鎖港談判使節団とも呼ばれています。
正使は池田長発で、12月29日にフランス軍艦ル・モンジュ号で出航。上海・インド経由でスエズに到着。
ここからは陸路でカイロを目指します。この道中でエジプトの三大ピラミッドやスフィンクスを見学したことで、スフィンクスと侍が一緒に写る写真が撮影され歴史上に残ったのです。

カイロから地中海を経由してパリに到着したのは3月でした。
ここでナポレオン三世に謁見し、横浜港閉鎖の談判は失敗します。もともと孝明天皇の無理を通そうとすることに対する、やるだけやりましたというパフォーマンスで派遣された使節ですので失敗前提だったのです。
しかし、これ以外にも長州藩の関門海峡での砲撃に対する賠償金支払いや関税に対する不利な要求をのみ込んだパリ条約を締結することとなり、孝明天皇の無理は日本をますます追い詰める結果になったのです。
この使節団の大きな目的は横浜港の閉鎖を談判することだったので、横浜鎖港談判使節団とも呼ばれています。
正使は池田長発で、12月29日にフランス軍艦ル・モンジュ号で出航。上海・インド経由でスエズに到着。
ここからは陸路でカイロを目指します。この道中でエジプトの三大ピラミッドやスフィンクスを見学したことで、スフィンクスと侍が一緒に写る写真が撮影され歴史上に残ったのです。

カイロから地中海を経由してパリに到着したのは3月でした。
ここでナポレオン三世に謁見し、横浜港閉鎖の談判は失敗します。もともと孝明天皇の無理を通そうとすることに対する、やるだけやりましたというパフォーマンスで派遣された使節ですので失敗前提だったのです。
しかし、これ以外にも長州藩の関門海峡での砲撃に対する賠償金支払いや関税に対する不利な要求をのみ込んだパリ条約を締結することとなり、孝明天皇の無理は日本をますます追い詰める結果になったのです。