慶長5年9月19日、長束正家が自害しました。
(以前の記事で五大老と五奉行が間違って伝わっていると書きましたが、これより先はややこしいので通説通りに書いて行きます)
長束正家は、豊臣政権では、石田三成や増田長盛と共に近江出身の五奉行の一人でした。
近江出身者の多くは豊臣政権下において官僚的な役割を持って仕えます。
正家も元々は丹羽長秀に財政担当として仕えた人物でしたが、その才能によって丹羽家が豊かになった為に、秀吉が1万石で丹羽長秀から譲り受けた人物だったのです。
天下の財政を差配することに才能を発揮した正家は、まずは太閤検地を献策して成功させ、秀吉の巨万の富を築かせる一歩を作ります。その後には聚楽第・伏見城などの築城にかかる財政も担当して成功させました。
こうして、水口(水口岡山城)に5万石を与えられます。
また蒲生氏郷が伊勢松阪に転封になったとは、日野1万石も加増されました。
やがて秀吉の死…
正家は当初は増田長盛と共に家康に味方していました。この為に、落城前の伏見城に入って鳥居元忠と会ったという話も伝わっています。
しかし、大坂から東海道経由で江戸に向かう徳川家康が、水口の近くの石部で命を狙われる計画が発覚します。この計画の発案者は、石田三成の重臣・島左近と言われていますが、ここに正家も加担していると見られてしまい、仕方なく正家は石田三成の軍に加わることとなったのです。
関ヶ原の合戦当日。
正家は1500の兵を率いて南宮山にある毛利秀元の陣の麓に布陣します。しかし毛利家の参謀だった吉川広家が動かないまま長束軍も動けず、結局戦わないままに戦いが終わり軍を引いたのです。
その帰りに瀬田城主の山岡景隆の軍に出会いました。
景隆は本能寺の変の時に瀬田の唐橋を焼いて明智光秀の近江侵攻を遅らせた武将として有名ですが、その弟は伏見城で戦死していたのです。東軍に味方するそぶりを見せながら伏見城攻めに加わる事になった正家に対し、弟の仇とも言わんばかりに襲いかかり、正家は命からがら水口まで落ちのびました。
しかし水口城は既に敵に占領され、正家の妻は自害していました。
城にも入れず日野まで逃げた正家は、池田長吉と亀井滋政の兵に囲まれ、ついに中西孫左衛門という人物の屋敷に池田と亀井を迎え入れて庭先に2枚の畳を敷き、弟と共に自害して果てたのです。
この時に池田亀井の両将に対して「石田三成に味方した事が、勘定方の自分の最大の誤算だった」と言ったと言われています。
首は、三成らと共に京で晒されました。
そして墓が中西屋敷近くの安乗寺に作られたのです。
(30~40年ほど前の写真にはこの石垣らしき場所の上に墓石が確認できますが、今はありませんでした)
この後、水口城からは黄金五千枚を始めとする多くの財宝が出てきて、蓄財家としての長束正家を皮肉るような悪口が伝わるようになり、貧しい城と財産を残さなかった石田三成と比較されるようになります。
どちらが正しいのかは今も続く問題ですが、管理人はこのエピソードは、同じ近江出身の五奉行でもまったく正反対の結果を残した石田三成と長束正家に相応しい話のように思えてなりません。
(以前の記事で五大老と五奉行が間違って伝わっていると書きましたが、これより先はややこしいので通説通りに書いて行きます)
長束正家は、豊臣政権では、石田三成や増田長盛と共に近江出身の五奉行の一人でした。
近江出身者の多くは豊臣政権下において官僚的な役割を持って仕えます。
正家も元々は丹羽長秀に財政担当として仕えた人物でしたが、その才能によって丹羽家が豊かになった為に、秀吉が1万石で丹羽長秀から譲り受けた人物だったのです。
天下の財政を差配することに才能を発揮した正家は、まずは太閤検地を献策して成功させ、秀吉の巨万の富を築かせる一歩を作ります。その後には聚楽第・伏見城などの築城にかかる財政も担当して成功させました。
こうして、水口(水口岡山城)に5万石を与えられます。
また蒲生氏郷が伊勢松阪に転封になったとは、日野1万石も加増されました。
やがて秀吉の死…
正家は当初は増田長盛と共に家康に味方していました。この為に、落城前の伏見城に入って鳥居元忠と会ったという話も伝わっています。
しかし、大坂から東海道経由で江戸に向かう徳川家康が、水口の近くの石部で命を狙われる計画が発覚します。この計画の発案者は、石田三成の重臣・島左近と言われていますが、ここに正家も加担していると見られてしまい、仕方なく正家は石田三成の軍に加わることとなったのです。
関ヶ原の合戦当日。
正家は1500の兵を率いて南宮山にある毛利秀元の陣の麓に布陣します。しかし毛利家の参謀だった吉川広家が動かないまま長束軍も動けず、結局戦わないままに戦いが終わり軍を引いたのです。
その帰りに瀬田城主の山岡景隆の軍に出会いました。
景隆は本能寺の変の時に瀬田の唐橋を焼いて明智光秀の近江侵攻を遅らせた武将として有名ですが、その弟は伏見城で戦死していたのです。東軍に味方するそぶりを見せながら伏見城攻めに加わる事になった正家に対し、弟の仇とも言わんばかりに襲いかかり、正家は命からがら水口まで落ちのびました。
しかし水口城は既に敵に占領され、正家の妻は自害していました。
城にも入れず日野まで逃げた正家は、池田長吉と亀井滋政の兵に囲まれ、ついに中西孫左衛門という人物の屋敷に池田と亀井を迎え入れて庭先に2枚の畳を敷き、弟と共に自害して果てたのです。
この時に池田亀井の両将に対して「石田三成に味方した事が、勘定方の自分の最大の誤算だった」と言ったと言われています。
首は、三成らと共に京で晒されました。
そして墓が中西屋敷近くの安乗寺に作られたのです。
(30~40年ほど前の写真にはこの石垣らしき場所の上に墓石が確認できますが、今はありませんでした)
この後、水口城からは黄金五千枚を始めとする多くの財宝が出てきて、蓄財家としての長束正家を皮肉るような悪口が伝わるようになり、貧しい城と財産を残さなかった石田三成と比較されるようになります。
どちらが正しいのかは今も続く問題ですが、管理人はこのエピソードは、同じ近江出身の五奉行でもまったく正反対の結果を残した石田三成と長束正家に相応しい話のように思えてなりません。