彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月6日、高台院死去

2010年09月06日 | 何の日?
寛永元年(1624)9月6日、豊臣秀吉の正室・高台院(寧)が亡くなりました。享年76歳(かどうかは分からない…)

寧は、“おね”“ねね”“ね”“ねい”など様々な呼び方があり定まっておらず、NHK大河ドラマでは、小和田哲男先生は“おね”とされていますので、小和田先生が時代考証をされる時は“おね”ですが、『功名が辻』の時だけは原作者の司馬遼太郎さんのご家族が「作品で使っている物を変えて欲しくない」とのお話があり“ねね”が使われています。

管理人は、その辺りの専門家ではないので何とも言えませんが、“おね”の場合の“お”は御という意味も含まれているでしょうから、それを抜くと“ね”の一文字はちょっと読み難いので、他人が呼ぶ時(ほとんどないですが)は“おね”で、自称は“ねい”辺りが気持ちいいかな?って思ってます(笑)


さて、そんなお寧の生涯は、一人の男に出会ったことからはじまります。お寧の父親の杉原定利が仕えていた織田信長の家の足軽とも下男とも分からないような藤吉郎という男との出会いでした。

二人の出会いは“野合”とも言われています。

野合とは何かといえば、まぁ日本のおおらかな時代の性習慣といえばいいでしょうか…、フリーで色んな男女の出会いがあった一つですね。

こういうことを書くと、色々問題になりそうですが、お祭りというのはそういう相手の名前も解らないような一度限りの出会いの場であり(ねぶた祭などもその流れ…)、それらの野合や夜這いは、戦前近くまで残っていた日本の当たり前の文化でした。

そして、日本では江戸時代に入るまで特定の身分の者以外は“家”という考え方は無く、こういった野合で生まれる子どもは領主の財産であり、野合ですから両親が同じ領主の下にいるとも限らないので、そういった場合は領主間での財産争いに発展する可能性があったので、分国法が出来上がる時期になると、「男の子は父親の主の財産、女の子は母親の主の財産」という取り決めも出てきました。


…と、予想以上に戦国期の日本の性事情を語りましたが(笑)

本来なら、一夜限りの出会いで終わるはずの情事が、なぜかお互いに惚れ合うようになりました。こうして藤吉郎の元にお寧が嫁ぐことになったのですが、お寧の母が反対したために(これは、家のある杉原家から家のない藤吉郎に嫁ぐから当たり前の感覚)お寧は叔母での嫁ぎ先の浅野長勝の養女となってから嫁ぎました。

この一連の流れから考える管理人の勝手な予想では、もしかしたら藤吉郎の上司が浅野長勝で、この方法が一番色んな問題を解決できるやり方だったのかもしれませんね。


さて、こんなお寧と藤吉郎には、子どもが生まれなかった為に秀吉は後で2人の女性との間に3人の男の子を作る事になります。

この為に世間では「お寧は子どもができない身体だったのではないか?」との憶測があります。これについて一部の資料では反対意見もあります。

二人が結婚してすぐにお寧は妊娠したのですが、生活がギリギリだったために、藤吉郎はお寧に頭を下げてしぶしぶ灸でお寧を流産させました。この事が数度続いて、藤吉郎が出世して余裕ができた頃には、お寧は子どもが産めない身体になっていたという話です。

江戸時代になって、碁の席で語られた物が今に記録として伝わっているので、史料としての価値があるとは言い切れませんが、一つの説として面白味はあると思います。


そんな貧しい生活を助け続けたお寧は、秀吉の死後に徳川家康に味方して、淀の方が我が物顔で居る豊臣家を潰したとの話もあります。しかし最近の研究では高台院(お寧)と淀の方は秀吉の正室として同じ立場であり、秀吉の死後も淀の方と協力して豊臣家の為に尽くしていた史料が多く指摘されています。

大坂の淀の方、京の高台院がそれぞれに動いていたと考えられているのです。しかし大坂の陣で大坂城が無くなり残った豊臣家までを滅亡させないようにする事が、高台院の亡くなるまでの仕事だったのかもしれませんね。

お寧の死後、その家は木下利次によって近江木下家として残り、数家の木下家と共に豊臣姓を明治まで残すのです。
この近江木下家は、旗本寄合(高禄の無役の旗本)3000石を所領にしていたのですが、それは野洲郡と栗太郡辺りだったと言われています。
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