彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大名カルチャー講座『江戸時代彦根の社会』

2007年04月23日 | 講演
4月22日に彦根城博物館で400年祭記念特別講座として『江戸時代彦根の社会』が開かれました。

今回はそんな講座の中のお話の一部をご紹介しましょう。


まず、彦根藩の藩領は、近江国内に最大時で北は栃ノ木峠(福井県との県境)から南は日野町までの広大な地域でした。
近江は約77万石(だったはず・・・うる覚えです・汗)だったと言われていますが、その内の約28万石は彦根藩領でしたので現在の彦根市だけでは収まらないような地域の話と言う事になります。

ちなみに近江国内で約28万石と言うのは、
彦根藩は35万石と言われていますが、5万石(5万俵とも・・・)は幕府からの預かり米が現在梅林となっている場所に保管されていて、知行としては30万石でした。
その30万石の内、約2万石(1万7000石とも・・・)は飛び地である下野国佐野に、約4000石が世田谷にあったからなんです。
この佐野と世田谷の飛び地は、藩主の江戸滞在費用を捻出するための領地でした。
この制度は京で買い物をするための費用としても、遠隔地の有力大名が近江国内に「在京賄料」と言う形で飛び地を持っていたので、近江国内には信じられないほどの領主が点在していたんですよ(余談)。


さて、そんな近江で最大の知行地を有した井伊家は、まず彦根に城を築きます。
江戸時代というのは全国に地方都市ができた時でした。
今ではありえないような所でも発展する事があったのですが、それは城の影響が強かったといわれています。
城ができると、家臣の武士たちが住みます。
でも武士は非生産者ですので、生産物の調達が必要となり町人が住みます。すると城下町が形成されるようになるのです。
譜代大名筆頭・井伊家の城下町となるとその規模も大きく、江戸中期には城下町に4万人の人が住んでいたそうです。
同じ地域の現在の彦根市民の人口から考えても同じか、今の方が少ないくらいじゃないか?
というお話ですので、日本全体の人口がもっと少なかった当時と比較すれば大都市だったことが窺えますね。


また、近江国は室町時代には村の形成がしっかりとなされていて、村にまつわる古文書も残っているくらいに自治組織が発達した地域でもありました。
この自治の中には武力的な自治も含まれていますので実戦を経験しているような武装勢力も配備されていて、決して侮れないモノでした。
豊臣秀吉の刀狩令で武力解除はされたものの、その精神は強く残っていたのです。
ですから、井伊家の支配においても甘い考えではダメだった事が予想できます。
村を治めるには、“土地”と“人”の両方を上手に治めなければいけなかったんですよね。

井伊家では、こう言った支配を下級武士や上級町人にまかせ、しかもその任期は20年以上になる事も多く、世襲制に近い感じで引き継がれていったそうです。
つまり、知行地支配については、お偉いさんよりも現場の方がよく知っていたと言う事です。常にベテランが当たる訳ですから上手な治め方ですよね。
しかし、幕末になってこの事の弊害が表面化しました。
当時は、民衆が今よりも自己主張をした時代で、今より訴訟事が多かったのですが、その訴訟に対する判決が私的判断で行われるようになったのです。
直弼が藩主だった時には、これが問題視されたと言います。
だって、下級武士が賄賂とかでお偉いさんよりも羽振りがよくて良い暮らしをしていたのですから(苦笑)
直弼は藩政改革を行おうとしたのですが、上手くいかなかったようですよ。
いつの時代も、こんな問題はあるんですね~


最後に、彦根藩の苦悩について・・・
彦根藩は譜代大名筆頭として幕政に深く関わっていたために出費も多大な物がありました。
他の藩では新地開拓などで収入を増やしてこれにあてたりしたのですが、彦根藩領はその殆どが江戸期より前に開拓されていたために江戸期を通じて増収は殆どなかったのです。
こうした出費の拡大は家臣にも及び、借金が増えるようになります。
それは、商人による差し押さえを生み、武士の家計を商人や町人が管理しているという結果にもなったのでした。
武士って、私たちの想像以上に肩身が狭い想いをしていたようですよ。
コメント
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