彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大名カルチャー講座『井伊直政の政治手腕』

2007年04月16日 | 講演
4月15日に彦根城博物館で400年祭記念特別講座として『井伊直政の政治手腕』が開かれました。

資料から読み解かれた新事実をお話されてましたので少しだけご紹介します。

豊臣秀吉が亡くなった年の12月には、井伊直政は徳川家康の外務大臣のような事をしていて、黒田長政と盟約を結んでいました。
そんな黒田長政を含んだ七将が、前田利家が亡くなった時に石田三成を襲撃する事件を起こします。

この三成襲撃事件は、三成が伏見の家康の屋敷に逃げ込んで家康の庇護を受けたというのが通説になっていますが、実は三成は伏見の自分の屋敷に逃げ込んで、その周りを七将たちが囲んでいたのを、家康が仲裁を行ったそうです。
この時に七将の所に交渉に行ったのが直政だったのです。


また、関ヶ原の戦いで、外様は東海道を進み、譜代は中山道を進む事になり美濃で合流してから石田三成と戦う予定でした。
そして、外様の目付が直政・譜代の目付が榊原康政でした。
しかし、出発前に直政が病になったので急遽、本多忠勝が僅かな手勢を引き連れて(本多家本隊は中山道組の中に居ました)直政の代わりを務め、直政は少し遅れて東海道を進んで外様軍に合流しました。
関ヶ原の戦いで本多忠勝が家康本陣近くに居たのは、手勢の殆どが中山道に居たからだったんです。

そして、外様軍は家康の予想を越える速さで進んだために、勢いを止める事ができず、外様軍が譜代軍を待つ事なく関ヶ原の戦いへと突入したのでした。
譜代軍の切捨てを進言したのも直政だったそうです。

しかし、譜代が居なければ関ヶ原は徳川の戦にならないため、福島正則に決まっていた先陣を、正則が激怒しない程度の少数ですっぱ抜き、一番槍の名誉のみは徳川家にもたらしたのでした。

関ヶ原の戦い後の政治交渉は、西国が井伊直政・東国は榊原康政が窓口になっていて、康政は何度かちょいミスがあったそうですが、直政は完璧にこなしたとか・・・

そう言った功績を踏まえて、『寛政重修諸家譜』では井伊直政を「誠に開国(幕府を開く事)の元勲なり」と称えたそうです。
後に井伊直弼が“開国の元勲”と呼ばれるのは、この事を踏まえた上での事だそうですよ。


詳しく知りたい方は、彦根城博物館で販売されている『研究紀要』第18号に書かれているそうです。『研究紀要』は興味がある内容の時だけ買う様にしているのですが、とても役に立ちますのでお薦めですよ。