彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

4月21日、井伊弥千代の婚礼

2007年04月21日 | 何の日?
↓2月に“テーマ展『雛と雛道具』”
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/d5ccd039bcb451abdbea78a755171599
でも書きましたが、安政5(1858)年4月21日、井伊直弼の次女・弥千代が高松藩主の世子・松平聰に嫁ぎました。
聰25歳、弥千代13歳。

前回と少し違う視点からこのお話をもう一度復習してみましょう。

弥千代は、直弼の次女ですが、その上の子どもは早く亡くなっていたために実質的には長女のように育ったのです。
長女さんの宿命は、上に頼る人が居ない事・・・
「お姉ちゃんなんだから!」って言われたお姉ちゃんもたくさんおられるのではないですか?

そんな長女さんがちょっと年上の男性を「お兄ちゃん」と頼るのはごくごく自然の事ですよね、それが初恋になる事もありますね。
弥千代が初恋だったかどうかは解りませんが、年上の頼りになる男性が聰だったのでしょうね。

これは、女の子として甘えさせてくれる存在だったのかも知れません。

13歳で嫁いだ(ただし、数え年なので今の小学6年生くらい)弥千代は、きっと幸せだったでしょう。
でも、15歳の時に父・直弼が暗殺され、17歳で彦根に政変が起こり父の側近として自分に優しくしてくれた長野主膳や宇津木六之丞が斬首になります。
こうして多くの血が流れた彦根を思って弥千代が心を暗くした事が想像できますね。


そして、弟にあたる井伊家十四代藩主・井伊直憲はまだ少年のあどけなさが抜けないうちから井伊家の家格復帰のために奔走する姿も伝え聞いては心を痛めたのかも知れません。

そして18歳の時、高松藩重臣・松崎渋右衛門が聰に「これから朝廷と友好を結ぼうとするなら奥方様の存在ははばかられます」と詰め寄りました。
聰は「自分は大老のした事も正しいと思う、ましてや夫婦の絆を切る事は人倫に劣る、離縁はしない」と言い返します。
しかし、ついには離縁せざるを得なくなったのです、文久3(1863)年4月9日の事でした。
涙を流す事もなく作法に従って聰に深々と頭を下げて高松藩江戸屋敷を出る弥千代の姿が目に浮かぶようです。

彦根に戻った弥千代は男装して馬術や長刀の稽古に熱中したそうです。その姿は聰のことを忘れるためのようにも感じられて、周囲の涙を誘いました。

その6年後、松崎渋右衛門が14人の暴徒に惨殺されます。
“聰と弥千代を生木を裂くように離縁させ、その功で水戸藩から褒美を貰った事”がこの惨殺の一番の罪状だったようです。
この報せも弥千代の心を痛めた事でしょう。


離縁から9年後の明治5(1872)年、皇族の有栖川宮 熾仁親王は側近を呼んで「聞けば井伊弥千代さんは再嫁もせずに居るとか。また聰君も独り身で居るとか・・・明治になり最早勤皇も左幕も無いだろう、離婚の原因も消えたのだから、もう一度二人が幸せに過ごせるようにできないか?」と言ったのです。
こうして、聰は喜んで弥千代を迎えたのでした。
たぶん、自分にしか見せなかったであろう甘えん坊の弥千代を自分が守り続ける事を誓ったはずです。

この後、弥千代は昭和2年で82歳まで亡くなるまで、穏やかな日々を過ごしたようです。
コメント
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