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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大津蔵屋敷

2020年07月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 有名な話がある。
 足利義昭の要請を受けて上洛し、義昭の征夷大将軍就任を支援した織田信長に義昭は副将軍か管領の役職を与えようとした。しかし信長はこれを辞し替わりに堺・大津・草津を領することを願い義昭は許可を与えた。
 これは、信長が商業を重視していた経済感覚を示すものとして知られている。
 京都が政治の中心であった時代、納税は現物納付が主であった。そのとき東日本からの物資は大津から逢坂の関を越えて京都に入る。大げさに記すなら日本の物流の半分が大津を通過していたこととなる。今の日本の税収が60兆円を超えていると考えると、現在の感覚ならば1年間で30兆円以上が大津を通ったのだ。その上で京都は消費都市であり生産・集約拠点ではないため大津に留まる物資も多く存在した。そして天智天皇が唐からの侵攻を恐れて大津京を置いたように防衛面でも優れた拠点ともされている。このように複数に重なった立地条件を背景に、豊臣秀吉政権下で大津城築城と城下町としての「大津百町」の町割りにより都市機能が充実し、徳川家康も重視し関ヶ原の戦いの後に大津城を廃城にして代官所を置き近くに膳所城を築城した。江戸幕府直轄地として大津の琵琶湖岸に十九藩の蔵屋敷が置かれ国許から運ばれた年貢米を貯蔵する蔵が並んでいたのである。
 そんな蔵屋敷の中で特に目立つ存在だったのが彦根藩大津蔵屋敷(佐和山蔵・彦根蔵)だった。現在の京阪浜大津駅の近くNTT西日本滋賀支店周辺となる。近くの大津港辺りが江戸期の大津代官所(大津城本丸跡)となる大津の中心に配置されている。豊臣政権下で石田三成の蔵屋敷だった場所がそのまま井伊家に与えられたと言われている。現存している彦根藩大津蔵屋敷の絵図を見ると北が琵琶湖に接し西と東も船入れ地として琵琶湖の水が入り込んでいる南に少し進めば東海道という最高の物流拠点である。本来ならば大津では大津百町の米商人が取引を行い、荷の積み出しは「大津百艘船」が行う決まりとなっていたが彦根藩蔵屋敷では蔵の周囲の湖面に面した場所に「他屋」と呼ばれる松原三湊と繋がる井伊家御用商人が長屋を並べて9万俵ともいわれる彦根藩の米を独占的に取扱って問題となっていた。他屋の船が大津から客を乗せて彦根まで運ぶ出来事をきっかけに大津百艘船と他屋が利権をかけて争う訴訟にまでこじれた。その後も何度も両者の間では争い事が起こるがほとんどの場合は大津側の訴えが認められ井伊家が仲介に入ることで和解する。しかし享保2年(1717)に松原三湊が直接大津百艘船を訴え、松原三湊が彦根藩大津蔵屋敷と直接運航する権利を得ることとなり大きな利益が大津から彦根に移ってしまうのであった。
 そんな彦根藩大津蔵屋敷の中に寛政12年(1800)勧請の稲荷社が建っていたことが絵図でも確認されている。現在は少しだけ場所を移したが蔵屋敷跡地に当たる場所で彦田稲荷神社として残され当時の面影を垣間見ることができる。


彦田稲荷神社(大津市浜大津一丁目)
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建社会の納税(後編)

2020年06月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本史を俯瞰すると海外では考えられない日本人独特の好みがある。それは「世襲」と呼ばれる代々の血や名誉の繋がりである。
 海外でも世襲は存在するが、どちらかといえば権力者が主張するものであり一般人がそれを完全に是とはしていない。
 しかし、日本では平安時代初期に財力を失った天皇が千年を超えた現在でも国民の象徴として残り、歴史上の有名人の子孫はそれだけで一目置かれる。政治・文化・宗教などさまざまな分野において世襲が通用している。
 封建社会では今よりも世襲が強い時代であり、世襲には独自の責任が付加されたが個々の判断で簡単に捨てられるものでもない。民衆は生活を保護してもらうために年貢を支払い、権力者がその一部を私用に使うのは謝礼のようなものであると解釈しているが、受ける側はそれに甘んじてはならず、先祖から続き自らも受けた恩恵を守り、子孫に伝えていかねばならなかったのである。そして武士たちは常に質素倹約を強いられるほど慎ましい生活であった。年貢の多くは開墾や治水などの公共工事によるインフラ整備、自然災害・飢饉などに備えた備蓄、軍事にも使用されていたのだ。
 昔の時代劇などでは民衆を苦しめる悪代官を正義の味方が斬る物語が定番だったが、戦国時代以降の日本で定番の悪代官は数えるほどしか存在しない。民衆を苦しめると年貢が減り権力者自身が困ることになるからだ。悪代官など支配者側の失敗は、家禄減俸や重ければ死罪など目に見える形での罰として裁かれた。
 さて、日本の封建社会においては地方分権の上に中央政府が置かれていたため、地方によって政策が違い地域に即したものであった。また責任範囲が限られていたため緊急時における救民活動の動きも早かった。江戸時代では各藩に物資を備蓄する蔵が点在し緊急時にここから囲米・囲籾と呼ばれる食糧や金銭が配られたのである。
 彦根藩では、井伊直孝の時に京で彦根藩領出身の生活困窮者17人が保護されたことを恥として直孝は家臣を叱責し領内改革に着手した。また井伊直幸の頃に城下で起きた大火の救済として、世子直富が父の許可を得るより早く自らの判断で彦根城の蔵を開いて救援物資を配るなどの政策もある。
 各藩は緊急事態で財政が逼迫すると年貢の値上げよりも先に藩士たちの俸給を藩が借受ける形でカットした。その額も半分や8割など状況によって信じられないような高額の対策が行われた。年貢や税を徴収する者は、それほど大きな責任を背負っていたのであり、それは先祖代々の身分と責任の世襲であることが社会の仕組みとして完成していたのだ。
 もちろん全ての者が自らの身分を顧みていたわけではなく、身分に胡坐をかいた者の多さが明治維新に繋がっていくが、迅速な救民、責任を持って状況を打破する施政者は期待できない。悪代官に近いような人物が横行するのは明治以降であると断言できるのである。

彦根城梅園
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封建社会の納税(前編)

2020年05月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 私たちはなぜ税金を支払っているのか?
 生まれたときから当たり前のように納税義務があり、その税率も勝手に決められていると感じてしまう。もちろん民主主義においては税金も国民の代表が民意で決めたという建前は成り立っているが、どうしても一方的に決まったようなイメージが付き纏う。
 税金の始まりは弥生時代辺りと考えられる。縄文時代は全員で協力して狩りなどを行わなければならないため、ムラの指導者の下で食料などは平等に分配されていた。しかし農耕が広がると個々の実力が重視されるようになり能力によって貧富の差が生まれてしまったのだ。富んだ者に救いを求める行為が主従関係を作り権力へと変化してゆく。権力者はより大きな権力と富を欲して争いが生じるようになり組織となる。組織が統合され国になり運営する必要性から階級が生まれ、階級の下に属する者は、もっと下を求めて運営に関与しない者を差別するようになる。本来は豊かな者に救いを求めた行為がいつの間にか権力者を集団が支える構造へと変わったのだ。ただし権力者は民衆から献上品を受け取る代わりに民衆を守る義務をより明確に担うようになる。簡単にいえば税金は民衆を守るための積立信託のようなものであり、権力者は民衆のために公共工事や福祉充実・外敵や自然災害の備えを行う責任を負う関係が築かれていったのだ。
 しかし、大和朝廷が国をまとめると税金の徴収が当たり前となる。平安時代になるとその甘味を狙った藤原氏が荘園制を確立させ土地や民衆の私有財産化を行い、この時点で完全な地方分権である独自の封建制度を合法化してしまったのだった。
 やがて権力の中心が貴族から武士に変わるが、民たちは自分たちを保護してくれる相手に年貢という形で納税を行っていた。地方分権であるため税率は領主によって大きく変わる。しかし無理な徴収を行うと民が反発し別の領主を望むようになるため戦国時代になると無理な徴収を行った大名家は他家に攻められ滅亡した。
 江戸時代は徳川幕府が全国の大名に目を光らせているが基本的には地方分権である。大名それぞれの判断で領内の年貢を徴収するが、一部でも幕府に納める制度はなく18世紀初めには幕府の財政は逼迫していた。幕府に対しての各大名の出費は強いて記すならば幕閣に参画する経費が個々の負担であったことと幕府が命じる公共事業も大名負担であったこと。強大な江戸幕府ですら地方分権の兆でしかなかったのだ。
 彦根藩などの譜代大名は政治に参画するため継続的な経費が必要になる。一方、全ての大名には薩摩藩の宝暦治水(木曽三川治水工事)などの特別な公共事業で一時的に多額な経費を要求された。各藩の財政は潤沢なものではないが、年貢を徴収している以上はそれを蓄えて、救民を行うのも当然の義務であったのだ。封建社会の納税とはそれほど重みがあるものだったと言える。


彦根藩の年貢集積地の一つ松原御蔵跡(現・滋賀大グランド)
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文久と明治のコレラ

2020年04月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 安政5年(1858)から流行したコレラは翌年に一度収束の兆しを見せる。しかし三年後の文久二年に再び江戸で大流行した。テレビドラマにもなった村上もとかさんの漫画『JIN―仁―』(集英社)の早い段階のストーリーとしてコレラとの闘いが描かれているが、この物語に登場するコレラは文久2年のもので、両国橋に棺桶が百棺通るたび(百人の死者が確認されるとの意味)に橋の欄干を洗ったが何度洗っても追いつかなかったとの伝承が残るほどの規模だった。文久2年といえば寺田屋事件や生麦事件を薩摩藩が起こし、土佐勤皇党が京の実権を握ったときである。
 また彦根藩では長野主膳らが処刑される彦根の獄も起こっていて江戸庶民が注目されることはない。このため彦根藩が文久のコレラに関わることはほとんどないが、安政のコレラ同様に全国に広がっただけではなくその死者の数は安政の比ではなかったとも言われている。
 そして明治維新。明治10年(1877)西南戦争の前線でコレラが発生。兵士たちを通して全国に拡大する。その後も明治十年代に何度も感染を引き起こす。明治12年の滋賀県での感染記録によれば医療施設仮設のため寺社などの公的接収・患者家族の一週間外出禁止・発生市区町村の住民の旅行禁止と交通手段の閉鎖・生活困窮者への援助金支給などが行われた。それでも半年の間に県内だけで六百人近くの人が亡くなっているのだ。
 1883年にロベルト・コッホがコレラ菌を発見し治療法が見つかったことと、水がきれいであることがコレラ予防になることが判明し、日本の水道が近代化されてコレラ発症は極端に減っていく。特に近代水道の整備において必要となるバルブについては、仏具の錺金具職人だった門野留吉が信州の製糸工場を経営する知人から蒸気ボイラーのカランを注文されたことから事業を広げ彦根バルブが作られるようになり地場産業の一つとなる。彦根がコレラ抑制に活躍しているのである。
 こうして、幕末から明治にかけて世界中を震え上がらせたコレラはパンデミックの可能性が低い病気へと変わったが、世界史上はこののちも何度も深刻な病が流行し人類と闘い続けることとなる。

 3月に『幕末のパンデミック』と題してコレラによって井伊直弼の思惑が外れてしまったことを紹介した時点で、4月は文久と明治のコレラと終焉を紹介する予定ではあった。だが先月、私はこの記事が皆様の手許に届く頃にはパンデミックも終息しつつあると予想していた。その予想に反して安政・文久のコレラ同様に数年単位での流行も懸念されつつある。
 新型コロナの感染はなお拡大している。原因を追究し批判するのは今稿のテーマとは異なるため論じることは避けるが、過去に学び新しい糧とする「温故知新」という言葉を真摯に噛みしめなければならないと思っている。


門野留吉翁頌徳碑 / 明性寺(彦根市本町3丁目3-56 )
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幕末のパンデミック

2020年03月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスはWHOから「パンデミックと言える」との見解が出されるまでになった。実際に日本国内の様々な活動自粛や世界の感染者の推移を見ても世界的流行であることは間違いない。そして全世界と簡単に繋がっていける現在においては新型あるいは強力な感染症が世界に広がったときに島国である日本でも水際で予防することは困難なのだ。そんな日々のニュースを見ていて、ふっと幕末日本を混乱させた病の流行が頭を過ったので紹介したいと思う。
 嘉永6年(1853)黒船来航に始まった列強諸国との付き合いは、翌年の『日米和親条約』締結をはじめとする諸外国との和親条約締結そして安政5年(1858)の『日米修好通商条約』などの列強との修好通商条約締結で歴史上は日本の開国となった。現在は「鎖国」という制度を疑問視する声も多く挙がっていてその考え方の中では「開国」という言葉の意味合も変わってしまうがそれは別の機会があれば書きたい。
 開国による海外との繋がりも先に良いものが広がれば幕末日本の外国人に対する攘夷感情はもっと軽いものになっていたのかもしれないが、日本人は先に幾つもの苦難を経験することになった。その一つは経済的苦痛だがこれは本稿とは別の話となる。問題は安政五年から始まったコレラの大流行だった。
 実は日本におけるコレラの流行は開国前の文政5年(1822)にも見受けられる。朝鮮半島から九州を経て西日本から東海地方に広がったとされるが詳しい経緯はわかっていない。安政五年のコレラは前年に米艦ミシシッピー号の水兵が清(中国)で感染し長崎で嘔吐したことから日本国内に持ち込まれ一気に拡散することとなる。コレラに感染すると嘔吐と下痢が続き、やがて脱水症状と塩分低下を引き起こして血行障害や血圧低下から死亡へと至るもので、的確な治療を行わなければ患者の3分の2が死亡するとも言われている。しかし空気感染や軽度の接触での感染はなく、患者との濃厚接触や感染地の不衛生さが問題とされるものだった。文政五年の流行では幕府の統治機能が予想外の功を奏し箱根の関での病人の通行を禁止したことから箱根以東にコレラの侵入は阻止され江戸を守る水際対策が成功したが、安政五年は『日米修好通商条約』締結直前に長崎に持ち込まれ国内流通の寄港地にも拡散したことから締結後には江戸でも流行した。コレラは感染するところりと死ぬことから「虎狼狸(コロリ)」とも呼ばれ民衆心理の不安を煽り、攘夷の宣伝材料ともなり、大老に就任したばかりの井伊直弼政権への批判にもなる。京都では直弼と長野主膳が進めていた公武合体の候補・富貴宮(孝明天皇の第二皇女)死去、安政の大獄で最初に捕える筈だった梁川星巌が逮捕三日前に亡くなるなど井伊政権にも悪い影響を与えることとなるのだった。


長野主膳も利用した京都の彦根藩邸跡(木屋町通三条下ル)

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井伊直滋を供養する寺・法雲院

2020年02月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根城時報鐘を現在の位置に移転させた井伊直滋は、藩主世子の座を捨てて百済寺で出家する。しかし彦根藩でも重要な人物であった直滋は百済寺山門から脇にそれた地に屋敷が与えられることとなる。
 その屋敷には書院や長屋も立ち、直滋に従った家臣たちにはそれぞれに屋敷も与えられていた。『愛東の歴史』(東近江市愛東の歴史編集委員会)に掲載された地図によると、医師として堀道意・下間玄悦の2名が居た他に、大久保・池田・中野・青木・吉田といった彦根藩士の中でも重臣クラスに連なる家の一族と思われる人物たちが各々の屋敷を与えられていた。その中には澤村軍兵衛が含まれている。この人物がどのように繋がるのかを詳しく調べられていないが、彦根藩士澤村家からは儒学者澤村琴所や桜田門外の変で犠牲になった澤村軍八なども排出している。
 そんな澤村軍兵衛が、直滋の死後も生前と同じように直滋に忠誠を尽した。これは空想の域を出ないが彦根藩世子であり歌人でもあった直滋は都の公家との交流も深かったと思われる。この当時、歌人の代表と言えば後水井上皇から古今伝授を受けた3人の人物である。その内の一人が烏丸資慶だった。
 資慶と直滋には何らかの形の繋がりがあり、その交流の間で動き回った人物が軍兵衛であったようで、直滋が亡くなったあと百ヶ日忌に合わせるように資慶が烏丸家の所領である太秦に祖父光廣と直滋を供養する法雲院(光廣の法号)を建立した。烏丸家は足利義政の治世には政権を動かした「三魔」(「ま」の付く3人の実力者のこと)の一人烏丸資任の血筋。烏丸光廣は細川幽斎から古今伝授を受けた歌人であり能書家でもある。その烏丸家と直滋を一緒に供養させようとて奔走した軍兵衛も歴史に埋もれた偉人である可能性が高いが、直滋の家臣であることに徹した。
 法雲院建立後、軍兵衛(法雲院では郡兵衛とも記す)は、妻と共に法雲院近くに住まい、生涯直滋の菩提を弔ったと伝わっていて、墓は直滋の供養塔の隣に遠慮しながら付き添っている。
 直滋の没年である寛文元年(1661)建立の法雲院は古都京都では比較的新しい寺院に属するかもしれないが、烏丸家や井伊直滋賀のみではなく、光廣の次男の家である勘解由小路家(現在の日本で一番長い姓)など烏丸家に縁が深い家の菩提寺でもあったため寺院としての重要性は高まって行く。一時期は本山である永源寺と朝廷の取次も担っていたのだった。
 さて、そんな法雲院は、太秦映画村や広隆寺の近い。近江では馴染みの深い小堀遠州作庭の庭、烏丸家に関わる遺物など歴史的に貴重な史料も多い。また井伊直滋や澤村軍兵衛の位牌も残っている。拝観には予約が必要だが、京都に行く目的のメインにしても充分な価値がある場所でもある。



井伊直滋と澤村軍兵衛の位牌
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幻の三代藩主・井伊直滋

2020年01月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 私の個人的な習慣として、大晦日の夜に彦根城時報鐘で除夜の鐘を撞きに行く。この音色は玄宮園の虫の音と共に『日本の音風景百選』にも選ばれている。鐘を撞いたあと城下に戻ってからまだ誰かが鳴らしている美しい響きは、自然と1年の行いを浄化させてもらえる気持にもなる。
 さて、彦根城築城のとき鐘は現在の鐘の丸に在ったとされている。誰かが意識を持って現在の場所に移動させたものなのだ。この移転を指示した人物が二代藩主井伊直孝の嫡男直滋と言われている。
 直滋は、鐘の丸に設置されていた鐘の音が割れて聞こえることが気になり、時報鐘の場所に移動させるように命じる。すると清んだ音が城下に響くようになった。と、言われている。今よりも低い位置に在った鐘が岩に反響して微妙な音の不協和音を作っていたらしいが、ほとんどの家臣が実際に移転されたあとに音を聞くまで気付かない程度だったとも伝えられていることから、直滋はとても繊細、悪く言えば神経質とも言える人物だったのかもしれない。実際、直滋は歌人としても名を残しているため繊細さは持っていたはずである。
 彦根藩が直滋に影響を受けているのは時報鐘だけではない。江戸に建つ藩邸の内で桜田門近くの上屋敷や現在は明治神宮となっている場所にあった下屋敷は、3代将軍徳川家光から直滋に対して贈られた場所であった。それは家光が直滋を気に入っていた証であり、直滋自身もそんな家光に対して忠誠を尽くそうとした。俗説では家光が直滋に百万石を与えようとしたとの話もある(出典不明)。ただし権力者が大きな功績のない特定の者を重視することは政治的汚点にしかならず、幕閣の重要名運営者であった直孝は家光と直滋の関係を危険視するようになる。家光の暴挙を抑えるために、自身が彦根藩主であり続けることで直滋を世に出さない方法を選んだのだった。こうして将軍に愛されながらも世子のまま30代後半を迎え、やがて家光が亡くなってしまう。その後、直滋の正室(直孝の兄・井伊直勝の娘)が亡くなった直後に寛永寺で出家しようとするが彦根藩士に連れ戻され失敗、2年後に百済寺に入って出家している。こうして3代藩主になれなかった直滋は百済寺に屋敷を与えられて藩士子弟に守られ(監視され)ながら余生を過ごすこととなる。直孝は藩主在任のまま没するが、その遺言には「彦根で騒動が起こり、直滋が加勢を申し出ても城に入れるな」「直滋が生活の救援を求めてきても応じるな」(共に筆者意訳)と伝えられている。そんな直滋自身は百済寺で直孝三回忌直前に亡くなっている。平成30年永源寺で直滋が子どもの頃に作成したと思われる赤備えの甲冑が発見されその名を耳にすることもあったが甲冑すら彦根城内に保管されなかった人物なのだ。しかし時報鐘の音色を聴く恩恵を受けることによって彦根城下は長い時間を経て直滋と音風景が繋がっていくのかもしれない。

井伊直滋の墓・百済寺
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その後の高野瀬家と肥田城

2019年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2019年は肥田城水攻め460年であったため1年をかけて関連する歴史の流れを紹介した。最後に高野瀬家と肥田城を追ってまとめとしたい。
 浅井長政が織田信長に滅ぼされたのち、高野瀬秀隆・景隆父子が信長に仕えた記録が残っている。想像の域は出ないが、信長の浅井攻め戦略の一つとして周囲の国人と共に調略されて織田家に味方したと考えられる。しかし当時の織田家は休む間がないほどに戦い続けていたため、高野瀬父子も柴田勝家に従って一向一揆との戦いで越前に出陣し、安居で父子揃って討死した。こうして高野瀬家直系は絶え、信長は蜂谷頼隆を肥田城主に任じ、天正5年(1577)9月27日には信長の嫡男信忠が肥田城に宿泊している。頼隆は天正九年に岸和田城に居城が替わる。
 天正11年になり、羽柴秀吉が長谷川秀一に肥田城主を命じている。二年後には秀一も越前東郷城に居城が替わるため、蜂谷・長谷川両時期において肥田が城主不在の飛び地扱いであり、城は領地運営のための出張期間でしかなかった時期もあったことが伺える。そして長谷川秀一を最後に肥田城主は存在せず、廃城となり跡地は荒れ地だったと考えられているが、江戸期に入り彦根藩が新田開発と崇徳寺再興をすすめて行く。崇徳寺は高野瀬家の菩提寺であり、現在は肥田城水攻めの貴重な資料館でもある。
 肥田が開発されていた頃、中了喜という人物が、部屋住みだった井伊直澄に仕えるが切米という知行を持たない身分だった。しかし直澄が兄たちの不幸が続き3代藩主となり、了喜の子宗長は士分となり彦根藩士としての身分を得る。宗長は晩年に中家が高野瀬家の血筋であることを藩に届け出て以降は高野瀬姓を使うようになった。彦根藩士としての高野瀬家は多少の増減はあるものの150石ほどの知行を得て藩士としての役割を代々受け継いでいた。
 八代となる高野瀬喜介宗忠は、安中家からの養子で130石と家督を継ぐ。記録を見ていると時々酒で失敗する以外は平凡に役目を勤めた人物であったが『侍中由緒帳』にこんな一文がある。
「安政七庚申年三月三日、於江戸、彦根御家老中江御用筋被仰付、御役大久保小膳同道、立帰り罷登御用相勤候」安政7年3月3日は桜田門外の変の日。江戸に居た宗忠は彦根の重臣たちへ事件を伝えるために大久保小膳と一緒に彦根に向かっているのだ。『忠臣蔵』でも知られる通り藩の存亡に関わる報を最初に伝える早駕籠は命賭けの仕事であるため複数の藩士が同役を担う。このとき江戸と彦根は三日半で情報が届いたと言われているが、その時間だけ宗忠たちは激しく揺れる駕籠に不眠不休で乗っていたことになる。大久保小膳は埋木舎や井伊直弼の記録を守り通した藩士として彦根で知られた人物でもあり、事件の一報を伝えた人物であることも一部では知られているが、その同行者として高野瀬家が歴史の脇で少しだけ顔を出しているのである。

歴代肥田城主の菩提寺・崇徳寺
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織田信長と浅井長政の同盟

2019年11月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 浅井賢政が元服したとき、六角家重臣平井定武の娘を妻として迎え、六角義賢の一文字を与えられて「賢政」と名乗るようになったが、これは平井家と同じ身分であると国内外に知らしめることでもあった。賢政はこの屈辱に耐えることができずすぐに離縁して反六角の旗を鮮明にしたと言われている。それが度重なる戦の勝利により六角家から完全な独立を果たし「賢」の名を捨てて「長政」と改名した。この改名の正確な時期は分かっておらず、「長」の字は織田信長に影響されて名乗ったという説が当たり前のように語られたりもしている。
 しかし、浅井家は北近江の守護大名京極家を支援する国人領主の一人であり、平井家と同等の身分だった。長政の祖父亮政が小谷城という堅固な山城を築城し京極家を保護し手中に納めてはいたが、建前上の北近江領主は京極家だったのだ。つまり肥田城水攻めや野良田の戦いは、表面上は六角家と京極家の守護大名同士の戦いであり浅井家は京極家の武将として軍の差配を預かったということになる。肥田城水攻めの前に、肥田城主高野瀬家らの国人領主が初陣前の浅井賢政に味方したことを疑問に感じていたが、浅井家にではなく京極家に期待するところがあったのかもしれない。
 賢政がこれに応えその勢いのまま成長し「長政」と改名して六角家だけではなく京極家からの独立をも宣言したこととなる。これにいち早く注目したのが織田信長だった。美濃斎藤家という共通の敵を持つ両家の縁を繋ぐために信長は妹お市を長政の後妻にと申し入れた。長政もこれを受け入れ両家の婚姻による同盟が成立する。この同盟も詳しい時期は不明だが信長が美濃を制した永禄10年(1567)までにあったとされている。
 翌永禄11年9月8日、信長が高宮城で長政と対面、これ以降は高宮城や佐和山城を信長がよく利用することとなる信長は次期将軍候補として迎えた足利義昭を擁立して上洛するために、長政の協力が必要であり、信長の要請に反発した六角家と戦うためのキーパーソンでもあった。
 長政という妹婿を得て、信長は西に向かって快進撃を続けた。しかしこれは浅井家にとって決して喜ばしいことばかりではない。信長の勢力圏が西に広がると、いずれ浅井領が信長に囲まれることになる。その上でいつ信長に攻め込まれるかもわからないのが戦国の世であった。この危機感は長政にくすぶり続けたのではないかと考える。
 この反面、信長は人を信じると一途な性格であり、この時期に今川家や武田家に対する東の壁でしかなかった徳川家康以上に信頼された信長の同盟者が長政だった。家康が信長の本当の同盟者になるのは長政が信長を裏切った『金ヶ崎の退き口』以降であると言っても過言ではないのだ。そんな浅井家の興亡もいずれ機会を見て紹介してゆこうと思う。

織田信長と浅井長政の対面の地・高宮城跡
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永禄の佐和山城の戦い

2019年10月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 永禄2年(1559)、肥田城水攻め
 翌永禄3年、野良田の戦い

 2年に及ぶ六角軍の出兵を防いで浅井賢政が勝利を収めたことは近江戦国史における重要事項となった。また足利将軍家にも影響を及ぼしていた六角氏の敗北によって、通説では浅井氏の北近江支配の安定化と六角氏の弱体化が確実なものになったとされている。
 しかし、『浅井三代記』によると、「六角氏は永禄4年(永禄6年とも)に三度北近江に向けて軍を出す」と記されている。六角軍が短期間の内に三度に渡って出陣するほど浅井氏が邪魔だったことはよく理解できるが、それでも二度の負戦を経験しながら出陣した大きな理由は、賢政が野良田の戦いが終わったあと、美濃国(岐阜県)の斎藤龍興の要請に応じて美濃に出陣したことに端を発する。
 尾張国(愛知県西部)を統一し、野良田の戦いの3か月前に今川義元を討って全国に名を轟かせた織田信長が美濃攻略を進めていた。特に西美濃の有力者であった稲葉一鉄らの美濃三人衆を味方に引き入れた辺りから斎藤家中が混乱し、浅井賢政に援軍を要請した。
 賢政はこの求めに応じて美濃に出陣し美濃三人衆を牽制するが、その隙を見逃さなかった六角義賢が小谷城に向けて出陣する。六角軍は一万、永原・三雲・目賀田・和田・進藤・後藤・吉田などの六角家重臣が参戦していた。今回は肥田城も大きな戦闘を行わずに降伏している。そして東山道沿いの高宮城も簡単に攻略して佐和山城まで迫っていた。佐和山城を守っていたのは百々内蔵助だったが、この戦いで討死している。
 ここで前稿を読まれた方は混乱されたかもしれない。内蔵助は『江濃記』では野良田の戦いで先陣を切って宇曽川を渡り奮戦し討死した人物として登場した。同名の人物が『浅井三代記』では佐和山城で討死する。二人が同一人物なのか百々一族の別人なのかは議論が分かれるがそれはまた別の機会に紹介したい。ただ近江百々一族からは幕末土佐藩で土佐の井伊直弼とも称された吉田東洋を排出する一族でもあり興味深い。
 さて、六角軍が佐和山城を攻めるときは、荒神山に陣を置いて戦況を眺めるのが通例であり現在の荒神山古墳が陣城址でもある。その荒神山で佐和山城落城を見届けた義賢は本陣を佐和山城へ移し、今度は自ら指揮して東山道を北へ進軍しようとしたのではないだろうか。しかし(予想ではあるが)義賢が佐和山城に入る前に摺針峠に浅井軍の猛将磯野員昌の旗が立った。美濃で異変を聞いた浅井軍が即座に引き返して六角軍の意表を突いた。義賢が佐和山城に入るか、二度の敗北がなければ違った結果だったかもしれないが、突然浅井軍に行く手を阻まれた六角軍は混乱し佐和山城を捨てて逃げ、賢政は勢力圏を取り戻す。この敗北により六角氏の北進はなくなり浅井氏の勢力を無視できなくなった織田信長が同盟を持ちかけてくるのである。

六角氏の本陣、荒神山城址(荒神山古墳)
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