永禄2年(1559)、肥田城水攻め
翌永禄3年、野良田の戦い
2年に及ぶ六角軍の出兵を防いで浅井賢政が勝利を収めたことは近江戦国史における重要事項となった。また足利将軍家にも影響を及ぼしていた六角氏の敗北によって、通説では浅井氏の北近江支配の安定化と六角氏の弱体化が確実なものになったとされている。
しかし、『浅井三代記』によると、「六角氏は永禄4年(永禄6年とも)に三度北近江に向けて軍を出す」と記されている。六角軍が短期間の内に三度に渡って出陣するほど浅井氏が邪魔だったことはよく理解できるが、それでも二度の負戦を経験しながら出陣した大きな理由は、賢政が野良田の戦いが終わったあと、美濃国(岐阜県)の斎藤龍興の要請に応じて美濃に出陣したことに端を発する。
尾張国(愛知県西部)を統一し、野良田の戦いの3か月前に今川義元を討って全国に名を轟かせた織田信長が美濃攻略を進めていた。特に西美濃の有力者であった稲葉一鉄らの美濃三人衆を味方に引き入れた辺りから斎藤家中が混乱し、浅井賢政に援軍を要請した。
賢政はこの求めに応じて美濃に出陣し美濃三人衆を牽制するが、その隙を見逃さなかった六角義賢が小谷城に向けて出陣する。六角軍は一万、永原・三雲・目賀田・和田・進藤・後藤・吉田などの六角家重臣が参戦していた。今回は肥田城も大きな戦闘を行わずに降伏している。そして東山道沿いの高宮城も簡単に攻略して佐和山城まで迫っていた。佐和山城を守っていたのは百々内蔵助だったが、この戦いで討死している。
ここで前稿を読まれた方は混乱されたかもしれない。内蔵助は『江濃記』では野良田の戦いで先陣を切って宇曽川を渡り奮戦し討死した人物として登場した。同名の人物が『浅井三代記』では佐和山城で討死する。二人が同一人物なのか百々一族の別人なのかは議論が分かれるがそれはまた別の機会に紹介したい。ただ近江百々一族からは幕末土佐藩で土佐の井伊直弼とも称された吉田東洋を排出する一族でもあり興味深い。
さて、六角軍が佐和山城を攻めるときは、荒神山に陣を置いて戦況を眺めるのが通例であり現在の荒神山古墳が陣城址でもある。その荒神山で佐和山城落城を見届けた義賢は本陣を佐和山城へ移し、今度は自ら指揮して東山道を北へ進軍しようとしたのではないだろうか。しかし(予想ではあるが)義賢が佐和山城に入る前に摺針峠に浅井軍の猛将磯野員昌の旗が立った。美濃で異変を聞いた浅井軍が即座に引き返して六角軍の意表を突いた。義賢が佐和山城に入るか、二度の敗北がなければ違った結果だったかもしれないが、突然浅井軍に行く手を阻まれた六角軍は混乱し佐和山城を捨てて逃げ、賢政は勢力圏を取り戻す。この敗北により六角氏の北進はなくなり浅井氏の勢力を無視できなくなった織田信長が同盟を持ちかけてくるのである。
六角氏の本陣、荒神山城址(荒神山古墳)
翌永禄3年、野良田の戦い
2年に及ぶ六角軍の出兵を防いで浅井賢政が勝利を収めたことは近江戦国史における重要事項となった。また足利将軍家にも影響を及ぼしていた六角氏の敗北によって、通説では浅井氏の北近江支配の安定化と六角氏の弱体化が確実なものになったとされている。
しかし、『浅井三代記』によると、「六角氏は永禄4年(永禄6年とも)に三度北近江に向けて軍を出す」と記されている。六角軍が短期間の内に三度に渡って出陣するほど浅井氏が邪魔だったことはよく理解できるが、それでも二度の負戦を経験しながら出陣した大きな理由は、賢政が野良田の戦いが終わったあと、美濃国(岐阜県)の斎藤龍興の要請に応じて美濃に出陣したことに端を発する。
尾張国(愛知県西部)を統一し、野良田の戦いの3か月前に今川義元を討って全国に名を轟かせた織田信長が美濃攻略を進めていた。特に西美濃の有力者であった稲葉一鉄らの美濃三人衆を味方に引き入れた辺りから斎藤家中が混乱し、浅井賢政に援軍を要請した。
賢政はこの求めに応じて美濃に出陣し美濃三人衆を牽制するが、その隙を見逃さなかった六角義賢が小谷城に向けて出陣する。六角軍は一万、永原・三雲・目賀田・和田・進藤・後藤・吉田などの六角家重臣が参戦していた。今回は肥田城も大きな戦闘を行わずに降伏している。そして東山道沿いの高宮城も簡単に攻略して佐和山城まで迫っていた。佐和山城を守っていたのは百々内蔵助だったが、この戦いで討死している。
ここで前稿を読まれた方は混乱されたかもしれない。内蔵助は『江濃記』では野良田の戦いで先陣を切って宇曽川を渡り奮戦し討死した人物として登場した。同名の人物が『浅井三代記』では佐和山城で討死する。二人が同一人物なのか百々一族の別人なのかは議論が分かれるがそれはまた別の機会に紹介したい。ただ近江百々一族からは幕末土佐藩で土佐の井伊直弼とも称された吉田東洋を排出する一族でもあり興味深い。
さて、六角軍が佐和山城を攻めるときは、荒神山に陣を置いて戦況を眺めるのが通例であり現在の荒神山古墳が陣城址でもある。その荒神山で佐和山城落城を見届けた義賢は本陣を佐和山城へ移し、今度は自ら指揮して東山道を北へ進軍しようとしたのではないだろうか。しかし(予想ではあるが)義賢が佐和山城に入る前に摺針峠に浅井軍の猛将磯野員昌の旗が立った。美濃で異変を聞いた浅井軍が即座に引き返して六角軍の意表を突いた。義賢が佐和山城に入るか、二度の敗北がなければ違った結果だったかもしれないが、突然浅井軍に行く手を阻まれた六角軍は混乱し佐和山城を捨てて逃げ、賢政は勢力圏を取り戻す。この敗北により六角氏の北進はなくなり浅井氏の勢力を無視できなくなった織田信長が同盟を持ちかけてくるのである。
六角氏の本陣、荒神山城址(荒神山古墳)