彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

その後の高野瀬家と肥田城

2019年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2019年は肥田城水攻め460年であったため1年をかけて関連する歴史の流れを紹介した。最後に高野瀬家と肥田城を追ってまとめとしたい。
 浅井長政が織田信長に滅ぼされたのち、高野瀬秀隆・景隆父子が信長に仕えた記録が残っている。想像の域は出ないが、信長の浅井攻め戦略の一つとして周囲の国人と共に調略されて織田家に味方したと考えられる。しかし当時の織田家は休む間がないほどに戦い続けていたため、高野瀬父子も柴田勝家に従って一向一揆との戦いで越前に出陣し、安居で父子揃って討死した。こうして高野瀬家直系は絶え、信長は蜂谷頼隆を肥田城主に任じ、天正5年(1577)9月27日には信長の嫡男信忠が肥田城に宿泊している。頼隆は天正九年に岸和田城に居城が替わる。
 天正11年になり、羽柴秀吉が長谷川秀一に肥田城主を命じている。二年後には秀一も越前東郷城に居城が替わるため、蜂谷・長谷川両時期において肥田が城主不在の飛び地扱いであり、城は領地運営のための出張期間でしかなかった時期もあったことが伺える。そして長谷川秀一を最後に肥田城主は存在せず、廃城となり跡地は荒れ地だったと考えられているが、江戸期に入り彦根藩が新田開発と崇徳寺再興をすすめて行く。崇徳寺は高野瀬家の菩提寺であり、現在は肥田城水攻めの貴重な資料館でもある。
 肥田が開発されていた頃、中了喜という人物が、部屋住みだった井伊直澄に仕えるが切米という知行を持たない身分だった。しかし直澄が兄たちの不幸が続き3代藩主となり、了喜の子宗長は士分となり彦根藩士としての身分を得る。宗長は晩年に中家が高野瀬家の血筋であることを藩に届け出て以降は高野瀬姓を使うようになった。彦根藩士としての高野瀬家は多少の増減はあるものの150石ほどの知行を得て藩士としての役割を代々受け継いでいた。
 八代となる高野瀬喜介宗忠は、安中家からの養子で130石と家督を継ぐ。記録を見ていると時々酒で失敗する以外は平凡に役目を勤めた人物であったが『侍中由緒帳』にこんな一文がある。
「安政七庚申年三月三日、於江戸、彦根御家老中江御用筋被仰付、御役大久保小膳同道、立帰り罷登御用相勤候」安政7年3月3日は桜田門外の変の日。江戸に居た宗忠は彦根の重臣たちへ事件を伝えるために大久保小膳と一緒に彦根に向かっているのだ。『忠臣蔵』でも知られる通り藩の存亡に関わる報を最初に伝える早駕籠は命賭けの仕事であるため複数の藩士が同役を担う。このとき江戸と彦根は三日半で情報が届いたと言われているが、その時間だけ宗忠たちは激しく揺れる駕籠に不眠不休で乗っていたことになる。大久保小膳は埋木舎や井伊直弼の記録を守り通した藩士として彦根で知られた人物でもあり、事件の一報を伝えた人物であることも一部では知られているが、その同行者として高野瀬家が歴史の脇で少しだけ顔を出しているのである。

歴代肥田城主の菩提寺・崇徳寺
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