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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

野良田の戦い(後編)

2019年09月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前回は『浅井三代記』の野良田の戦いを紹介した。今回は『江濃記』を見てみたい。
 宇曽川を挟んで対峙した六角・浅井両軍だったが、午前10時頃から浅井軍の百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀の手勢と衝突。戦いの決着はすぐには着かなかったが、六角軍の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百々軍の横合いから攻め掛かり、内蔵助は一時的に敗北をして軍勢を引いた。そのときに内蔵助は「これは近江南北分け目の合戦、我は先陣を承った。もし浅井家が六角に敗北すれば、後日如何にして人に顔向けできるか。我と思わん者は続けや」と取って返して、小高い丘(どこか不明)で陣を立て直した。そんな百々軍に、蒲生家家臣の結解十郎兵衛が個人戦を挑むが内蔵助の方が取り押さえ、十郎兵衛の首を取る寸前に結解郎党二人が飛び込んできて内蔵助の首を取る。こののち百々軍を討ち油断した六角本陣に浅井賢政が自ら軍を指揮して突っ込んで勝利を収めたのだった。
 つまり『江濃記』では浅井軍が先に川を渡っていることになる。

 これらの物語を参考にして私の解釈。
 先に仕掛けたのは、浅井軍だった。先鋒を任された百々内蔵助が宇曽川に入る。それを六角軍が矢(投石もあった可能性は高い)で攻撃した。北岸の浅井軍も矢などを放ち百々軍を支援したであろう。六角軍は川中と北岸の両面を狙わなければならないため攻撃が散漫となるが浅井軍の矢は南岸の六角軍に集中する。その間に百々軍が渡河に成功した。
 敵が近くなると弓隊が引いて槍隊を繰り出すのが当時の戦であったために六角軍は弓隊と槍隊の前線交代を行うがここに隙が生じてしまう。浅井軍の矢の攻撃が続くなか内蔵助が士気高々に部隊を突っ込ませ六角軍は混乱に陥る。この好機を見定めた賢政は百々軍の後に続いてほとんどの軍勢を突撃させた。しかし混乱は長くは続かず徐々に落ち着きを取り戻し内蔵助は討死する。それでも浅井軍の士気が下がることはなく大きく広がっていた六角軍に対して鋭く尖った刃物で刺すように猛襲する。浅井軍が再び川を渡って引くことに危機を感じていた可能性は否定できない、私見ではあるが日本での『背水の陣』は布陣したときには効果がなく渡河後の戦でこそ意味を持ったのかもしれない。
 まだ戦いの最中でありながら先鋒の奮戦で内蔵助を討ち取ったことが六角軍全体に戦勝ムードを漂わせる。兵たちは勝戦での討死を嫌うため保守的となり早く安全なところに移動しようとした。六角軍の中に孤立する形で肥田城に籠っていた高野瀬隆秀はこの空気の変化を見逃さずに城から兵を出した。
 戦勝気分に浸っていた多くの六角軍は高野瀬軍の襲撃に驚いて逃げだしやがて軍全体が崩壊し義賢は撤退し浅井軍の勝利となったのではないだろうか。
 謎の多い戦ではあるが、この勝利により浅井家は北近江の支配権を獲得するのである。

宇曽川堤から肥田城址を望む
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野良田の戦い(中編)

2019年08月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前回は、宇曽川を挟み北に浅井賢政率いる1万弱、南に六角義賢率いる2万5千(それぞれ兵力は諸説有)が布陣したところまで書いた。この先を伝えるものは軍記ばかりであり一級資料ではないためこの先は物語として読んでいただきたいが、その軍記でも『浅井三代記』と『江濃記』では同じ戦いを扱ったと思えないほどに内容が変わる。このためそれぞれの内容を踏まえながら紹介したいと思う。
 まず、共通(であろう)両軍の参戦武将を記す。

六角軍
先陣、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄・平井定武・和田和泉守
二陣、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣(本陣)、六角義賢・後藤賢豊
 蒲生定秀は蒲生氏郷の祖父であり日野の近江商人を従えて資金力もある。平井定武は浅井賢政が追い返した正室の父。進藤賢盛と後藤賢豊は「六角の両藤」と称される六角氏の名宿老で文武に秀でていた。

浅井軍
先陣、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣(本陣)、浅井長政・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某
 磯野員昌は後に佐和山城で織田信長と戦う猛将。赤尾清綱は賢政の傅役を務めている。 

 両軍の戦いはどちらかが宇曽川を渡らなければ始まらない。私たちの考えでは戦うために出陣しているのであれば必ずどちらかがしびれを切らすと思ってしまうが、武将たちは現代人が思う以上に戦いを好んではいないため対峙するだけでお互いが兵を引くこともある。この場合六角軍は宇曽川までの勢力を確定させたことになり、浅井軍は六角軍の侵攻を足止めしたことになるため両軍にとって大きな損害がない決着となる。だが翌年にはまた六角軍が北進するかもしれず宇曽川南岸に位置する肥田城を守れなかったという傷を賢政が負うことになる。こう考えると義賢は引き分けでも良い戦であり、賢政にとっては負けられない戦だった。
 『浅井三代記』によると、浅井軍が到着前に肥田城が六角軍に降伏。翌日賢政は宇曽川より二里北に陣取って、六角軍も川を挟んで対峙する。正午を過ぎた頃に六角軍の和田和泉守が正面の磯野員昌の陣に攻めるべく川に一文字に討ち入る。員昌は「川を越えて来た軍を迎え討つ方が有利」と思い、待ち構え北岸に上がってきた和田軍に攻めかかる。これの状況を見ていた義賢は、進藤・平井・後藤らに渡川を命じた。対する賢政も本陣の旗本を突撃させ半時ほど激戦が続いたのちに、員昌らが横槍を突いて六角軍が崩れ南岸に逃げたため賢政は勢いに乗って自ら川を越えて肥田城を奪還した。と記されていて、六角軍が宇曽川を渡ったと残しているのだ。
 次回は『江濃記』の野良田の戦いを紹介し比較したいと思う。

宇曽川南岸より撮影。奥の山が荒神山
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野良田の戦い(前編)

2019年07月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前回まで肥田城水攻めを紹介し、肥田城主高野瀬秀隆が城に籠って六角義賢の攻撃から城を守りきったと紹介した。
 しかし、この一度きりの戦いで六角氏の勢力が損なわれたわけではなく、翌永禄3年(1560)に義賢は再び総力を結集して北上を始めた。水攻め時に雨による堤防決壊での撤退を反省したのか梅雨が終わり、台風が襲ってくる前の雨が少ない八月を選んでいる。
 今回も城に籠る高野瀬軍だったが、早々と小谷城に援軍要請を行っており、小谷城主浅井賢政も自ら軍勢を率いて肥田城救援に駆け付けた。これにより宇曽川を挟んで六角軍と浅井軍が直接対決を行う様相を示したのである。両軍の兵力には諸説あるが2万5千以上ともされる六角軍に対し、浅井軍は1万に満たなかったといわれている。この数字には誇張が見えるがそれでも数の上では浅井軍が圧倒的に不利であったことは間違いない。そして賢政はこの戦いが初陣であり武将としての器量について誰もはかれなかったのであった。
 少し話が逸れるが、古代中国の漢楚戦争(項羽と劉邦の戦い)に『背水の陣』という物がある。名将と称される韓信が行った起死回生の策で、それまでの兵法を無視して川を背に布陣することで軍は前にしか進むことができず兵は決死の戦いで通常以上の力を発揮する策である。日本では南北朝時代に用いられたことで『太平記』に記され戦国武将の教養の中に組み込まれていた。
 永禄三年の出陣に際し六角軍は愛知川を背負う形で背水の陣を敷いた。川にはもう一つの用兵の常識がある。敵の目前で先に川を渡った方は身動きが取れないままに攻撃を受けて不利になるというものである。このため川を挟んだ戦いでは膠着状態に陥りやすい。そして平地の戦いでは兵力差がそのまま結果に結びつく可能性が大きい。
 大将が初陣であること、圧倒的な兵力差、六角軍の兵法。このすべてが確実に六角軍の勝利を示唆していた。それでも賢政は宇曽川にまで兵を進め、川を挟んで両軍が睨み合って陣を構えたのであった。
 後に「野良田の戦い」や「宇曽川の戦い」と呼ばれる六角義賢と浅井賢政の直接対決が行なわれた正確な日付は伝わっていないが八月であったとの時期を考えるならば、六角軍は愛知川を背にしているとはいえども水量は比較的少なく簡単に渡ることができるため背水の陣のような前にしか進めないという覚悟は兵たちに生まれない。そもそも中国のような船でしか渡れない(琵琶湖よりも幅が広い)大河を背にするからこその策だった。六角軍はこの時点で大将が求めるほどの覚悟を兵が持っていなかったことになる。そして兵力差と敵大将の未熟さに油断したのかもしれない。
 一方の浅井軍は、どの状況から見ても勝てる要素がないために全軍決死の覚悟を持ち士気が上がっていた。これが歴史の大逆転を生むのである。

野良田古戦場
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肥田城水攻め(後編)

2019年06月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 高い堤防に囲まれて、水が容赦なく襲いやがて建物の中にいても床下の水に悩まされるようになり櫓などの高い所に人々が集まって外を見ながら怨嗟の声を上げる……。多くの方は水攻めに対しこのようなイメージを持っているのではないだろうか?
 関東で唯一であり日本最後の水攻めとなった忍城水攻めを描いた映画『のぼうの城』でも一気に水が迫る迫力ある映像が流されていた。現実的にこのような水攻めを行おうとすれば水圧に耐えられる堤防を築くだけで莫大な経費が掛かる。羽柴秀吉の備中高松城水攻めは俗に「安土城天主の2倍の金が掛かった」といわれている。長さを考えると肥田城を囲った堤防は高松城よりも長い。少し後の時期になるが織田信長が観音寺城を攻めたとき、六角義賢は日野に逃れ蒲生賢秀(氏郷の父)に庇護される理由として義賢が賢秀に借金をしていて、六角氏が滅びると回収できなくなるためだったといわれている。この逸話は六角氏に潤沢な財産がなかったことを示唆しているのだ。
 肥田城のような平地の小城は総力戦で攻めれば半日もかからずに落とせたはずであるが、時間と経費をかけてまで水攻めにする必要性は本当にあったのであろうか?
 地質を考えれば、関東は粘りがある土壌であり関西は砂を多く含んでいて水攻めは関東にこそ適している。しかし日本で6回行われた水攻めの内4回は西日本で行われている。特筆すべきは東日本での2回も含めてすべてが関西経済に影響した人物が行っていることである。つまり水攻めは経済的に余裕がなければ行えない戦術なのだ。その上で肥田城と忍城は失敗に終わり、有名な高松城も結果的には本能寺の変による和睦であったため水攻めの戦果とは言い難く、完全な勝率は五割でしかない。こう考えると水攻めは出費の割に成果が上がらない戦となってしまう。悪く言えばイベントとして行われるにすぎないのだ。
 これらを踏まえると、時間も資金も無い六角軍が水攻めを選択するとは考えられず、ともすればこの戦そのものが伝承であったのではないのかとも論じたい。しかし肥田城址周辺には実際に土塁が残っていて国鉄を敷くときにその土を使ったといわれており、物証が残る戦いであった。そうであるならば六角軍が水攻めにしなければならなかった理由が存在するはずである。
 平成21年、聖泉大学において『肥田城水攻め450年シンポジウム』が行われた際、この疑問に一つの投げかけがあった。「肥田城の土塁は元々城側が築いたものであり、守城策として水を引き入れたのではないか?」というものである。この説はその場で否定されることにはなるが、これに代わる合理的な説もまだ出てきてはいない。
 肥田城水攻めは、多くの謎に包まれながら私たちに近江戦国史の奥深さを伝えてくれているのである。

江戸期の肥田の堤防
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肥田城水攻め(中編)

2019年05月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 永禄2年(1559)4月3日から始まった肥田城水攻めの詳しい経緯を知る手掛かりはほとんど残されていない。数少ない情報から考察すると、堤防を築き宇曽川と愛知川の水を流し込んだ六角軍は城を囲んだまま安食に本陣を置く。そのまま戦いを仕掛けることはなくこう着状態となる。水を留めるということは大きな水圧が堤防にかかることになる。現代の堤防でも想定外の流水による決壊があるならば、土を固めるだけの時代では強度もたかが知れていると考えた方が良い。
 水を留めることで堤防にかかる水圧。そして水はだんだんと土の中に染み込んでゆき、堤防は気が付かない間に弱くなってゆく。そこに雨が降り水嵩が増せば弱くなった堤防は一気に決壊するのだ。
この現象が肥田城でも起こった。
 水攻め開始から2か月を迎えようとする直前、5月28日に城を囲んでいた堤防の一部が決壊する。こうなると水は外に流れ出し囲っていただけの六角軍の方に被害が出たのだった。
 こののち、六角軍は観音寺城に兵を引いたと言われている。常識的に考えると肥田城を水で囲って城兵を動けなくし最低限の兵力を残したうえで進軍を行ったとの流れになるが同時期に六角軍によって宇曽川以北の城が攻められたと確定される記録を探すのは難しい。
 また例え堤防が決壊したとしても1万5千の兵で攻めれば肥田城のような小城は一昼夜を待たずに落城するが、堤防決壊後に肥田城はそのまま高野瀬氏の城として残っている。また堤防が決壊した地域に「廿八」との地名を付け(小字として残っている)後々まで言い伝えられることになる。
 残された記録を読むだけならば、六角軍は総力を持って観音寺城を出兵し、小さな城を囲み碌な戦いも行わずに二か月で兵を戻した。永禄2年の軍事行動はそれだけになってしまう。
 ここで一点誤解を招かないようにするならば、私たちが考えている城攻めの終焉は、城に攻城軍がなだれ込み建物に火が放たれ城主一族や主だった家臣が城を枕に討死か自害する場面ではないだろうか?
 ドラマなどで描かれるこの場面は、実際にはほとんどない。攻め側に大きな影響を残す城主か最後まで開城に抵抗する城以外にはありえないとも言える。城主や重臣を務めるような武将は当時でも貴重な人材である。そのような人材が城攻めの度に失われては人材不足に陥ってしまう。城攻めは攻め手が大きな力を示して守り手を降伏させて終わるのがほとんどであった。万が一城攻めになったとしても城を囲い経済封鎖をおこなうこと、もしくは城の周囲の領民たちの家や田畑が荒らされることで領主に対する信頼を失墜させることで攻め手の勝利と宣言することができた。その意味では肥田城水攻めの段階で六角軍が勝利したのかもしれないが、六角義賢が満足する勝利ではなかったはずである。

肥田城水攻め堤防址
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肥田城水攻め(前編)

2019年04月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 六角氏と京極氏の境目の城として時には攻撃を受けながらも、高野瀬氏は肥田城で着実に基盤を築いてゆく。そして宇曽川の水運を利用した発展を遂げ肥田城周辺には城下町も形成されていた。
 戦国時代、北近江の京極氏は浅井亮政に実権を奪われ保護下に入る。亮政の子久政は六角義賢に従うことで北近江の安定を図り息子に六角氏重臣平井定武の娘を迎えさせて義賢から名を貰い「賢政」と名乗らせるほどだった。しかし賢政はそんな父親のやり方に反発して妻を平井家に追い返し六角氏からの独立を宣言する。義賢は都での覇権を巡って摂津国(大阪府北中部)の三好長慶とドロ沼の戦いを繰り返している最中であり、賢政に怒りながらもすぐに北近江に出兵することができなかった。その隙をついて賢政は六角氏との境目を治める国人たちを調略した。
 永禄2年(1559)肥田城主高野瀬秀隆は目加田氏や八田氏と共にまだ初陣も済ませていない浅井賢政を支持して六角氏から離れることを宣言し肥田城に立て籠もった。
 肥田城は美濃国主斎藤義龍に賞賛されたこともある城であり、平城でありながら堅固な軍事施設であったことは間違いない。しかしあくまで国人の居館を兼ねた城でありどれほど多く見積もっても兵が千人も居たとは思えないが、そんな肥田城に対して六角義賢自身が嫡男義治(義弼)と共に1万5千の兵で出陣し肥田城を囲んだと言われている。当主親子が総力を引連れて出陣したとなると肥田城や周辺の国人たちの城を落とすためだけとは考えられず一気に小谷城まで攻め浅井賢政を降伏させる作戦であり北近江の不安定さを早く収めて都に向かうための総力戦だったと推測される。そうならば小城である肥田城など大軍で一斉に攻めれば簡単に落ちたに違いない。そもそも斎藤義龍が称賛した堅固さは宇曽川を利用した北からの攻撃に対する防御であり六角氏のように南から攻める場合には肥田城の堅固さにも疑問符を付けざるを得ない。しかし六角軍はここで予想外の城攻めを始める。
 「肥田城水攻め」と後の世に伝えられる城攻めを発案した人物が誰であるのかは記録に残っていないが、六角義賢はその策を採用し実行させたのが現在の定説である。
 永禄2年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていた)の水を引き込んで水攻めとした。彦根藩士源義陳が寛政4年(1792)に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記している。実際には七六年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った若江城水攻めが日本最初の水攻めであるが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初であり、羽柴秀吉の備中高松城水攻めより23年前の出来事だったのだ。
 そして2019年は、肥田城水攻めから460年になる。

肥田城跡の碑
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高野瀬氏

2019年03月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 近江は日本史上もっとも長い期間重要な経済大国だった。それは政治の中心が関西であったためであり、その関西圏から東国へ向かう場合には近江を通過しなければならなかったからだ。細かい話は別の機会に紹介するが江戸時代より前は日本の経済の半分は近江を通過している。
 その近江でも交通の要となるのは琵琶湖の水運と東山道(中山道)だった。東山道に接する領内には全国規模の経済が通ることになった。このため領主たちは街道に関所を設けて通行税を徴収するようになる。一件の金額はそれほど多額ではないが往来が激しいほど多くの収入を得るようになり、その利権を巡っての争いも多発するようになった。
 そのような中で平将門の首が落ちた歌詰橋に近い地域を治め東山道の下枝に関所を作って関銭50文(通行料約500円)を徴収していたのが高野瀬氏だった。佐々木氏の末裔、または藤原秀郷の末裔とされている一族が現在の豊郷町高野瀬に館を構えて高野瀬氏を名乗る。やがて宇曽川の水運も抑えるようになり川沿い南岸の肥田に出城を築き城下町も形成し北にも越川城を築城して一族の久木氏が城主を務めた。また一説には前回紹介した平流城も高野瀬氏が治めた時期があったともいわれ、宇曽川流域の広い地域を支配していた様子が伺える。
 高野瀬氏が高野瀬に落ち着いたのは鎌倉時代後期とされている。しかし、肥田町の金毘羅神社に養和元年(1181)肥田城主高野瀬備前守が宇曽川の安全のために城内に金毘羅宮を勧進したとある。鎌倉時代に入る直前には肥田城が築城され高野瀬氏が城主をしていたことになり、平安時代末期には高野瀬氏は高野瀬から肥田を領していたことになる。
 また明との貿易を行い紙や瓜の生産も行っており、瓜は天皇に献上されていたともいわれている。琵琶湖から宇曽川を上り肥田で荷揚げした物資が高野瀬から東山道に運ばれ、またその逆の経路を通るための道は肥田街道と呼ばれていたらしい。高野瀬氏は確実に有力な国人領主であった。
 しかし、応仁の乱により高野瀬氏に陰りが見える。近江では北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)が激しい戦いを繰り返し、境目に近い高野瀬氏も戦いに巻き込まれる。高野瀬氏は六角氏に味方していたが、六角氏の敵は京極氏だけではなく都の覇権争いにも加わっており、細川氏とも戦い足利将軍家から攻められ、居城観音寺城を放棄することもあった。すると京極氏が南下し高野瀬氏は危機に陥る。
 このような情勢の中で高野瀬備中守(頼定?)は川瀬氏ら近隣の国人領主と共に六角氏に反旗を翻すが、この反乱は六角氏が肥田城を攻め備中守が陳謝することで終息する。六角氏にとって肥田城はそれほど落としやすい城という認識しかなかったのかもしれない。そして高野瀬氏は六角氏に命じられるままに京極氏やその後を継いだ浅井氏と戦い疲弊し続けるのだった。

高野瀬城趾の碑(犬上郡豊郷町高野瀬640)
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将門伝説と平流山

2019年02月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 平将門の首は歌詰橋近くに埋葬されたとの伝承があり、現在は山塚古墳と呼ばれている。
 しかし関東から近江まで首だけになって飛んでくるような将門の怨念がそのまま塚の中で大人しくなるはずはなかった。昭和48年に発刊された『日本の首塚』(遠藤秀男 雄山閣出版)には愛知郡千枝村の将門首塚伝説として「空をとんできた首が落下したので祀ってやった。ところが後で塚からぬけ出して宇留川を流れ、里人にひろわれて平流山上に葬られた。この山塚に祈ると武器類を貸してくれたと伝えている」と記されている。
 宇曽川が氾濫したときにチャンスとばかりに将門の首が川に飛び込んで、激しい流れに力尽き荒神山近くに流れ着いた。一説には平将門が流れてきたからこの辺りを平流と呼ぶようになったともいわれている。実際に明治の古地図(『彦根 明治古地図一』彦根市)でもこの辺りには平流の地名が残っている。
 さて、そんな将門の首が葬られた平流山とはどこだったのだろうか?
 地名が残っている場所から考えて荒神山であり荒神山神社をその候補地に指摘する声も聞かれる。場合によっては荒神そのものが将門を指すという考え方もある。しかし先ほども挙げた明治の古地図を見ると塚村と呼ばれる地域が長命寺領で彦根藩領ではなかったために空白地になっているが、その場所は前方後円墳のような形をしている。そしてこの地には本当に巨大な前方後円墳があり旧稲村神社鎮座地であったことが説明されている。つまり平流と呼ばれる地域に密接した場所に古墳と神社があったことになる。
 今はすでに掘削されて整地されてしまったこの古墳こそが将門の首が葬られた第二の地だと私は考えている。そして『日本の首塚』に書かれたもう一つのキーワードである「祈ると武器類を貸してくれる」との伝説についても考証したい。それは将門が最初に祀られた山塚古墳に関わる話である。
 佐々木氏が近江の守護であった頃に武具工平松家を山塚古墳がある石橋(字名)に住まわせた。平松家は村田と姓を改めて佐々木氏の具足師を務めていた。その後は織田信長や豊臣秀吉からも同じ仕事が与えられ、江戸時代になりこの地が彦根藩領になるとそのまま井伊氏の具足師も務めることになり明治まで山塚古墳周辺を村田家が管理していたのだった。 宇曽川という一川(いちが)を通じて将門に関わる二か所の古墳があり、その片方を具足師が管理していたことが武器類を貸すという伝説に発展していったのかもしれない。
 ただし、この二か所の古墳を繋ぐのは宇曽川だけではない。川という水運と、東山道という陸運を利用して京の天皇にも瓜を献上するという形で繋がりを持つ国人領主高野瀬氏が大きく関わっていたのではないか、とも考えられるのだ。

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歌詰橋と将門伝説

2019年01月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 中山道の宇曽川に架かる橋は「歌詰橋」と呼ばれ、その名前の由来はよく知られたものであるが改めて紹介したい。
 天慶3年(940)、平将門は関東で新皇を自称し京都の朝廷から独立した国家を作ろうと挙兵した(平将門の乱)が、藤原秀郷に討たれた。秀郷は京に凱旋するため東山道(後の中山道)を進んでいると将門の首が追いかけてきて宇曽川の辺りで秀郷に勝負を挑んできた。秀郷は首だけになった将門に対して冷静に和歌の勝負を提案するが、将門の首はこれに答えられず力尽きた。秀郷は近くに将門の首を葬った。それ以来将門の首が歌に詰まった橋としてこの橋を「歌詰橋」と呼ぶようになった。
 と、いうものである。将門の首はこれ以外にも日本各地あちらこちらに飛んで行ってはその場に落ちて祀られることになる。特に有名な場所は皇居近く大手町の首塚で、この地の伝承では京で晒された首が胴体を求めて関東まで飛んで行った途中で力尽きて落ちた場所とされている。しかし、この時点で歌詰橋と大手町の首に大きな矛盾が生じてしまう。歌詰橋の伝承では首は関東から追いかけてきて宇曽川まで飛んで近くに葬られるが、大手町の首はいったん京まで運ばれた後で関東まで飛んで行く。他の地域の将門伝説を調べてみても一本線に繋がる伝承が見えてこないのである。
 井伊家に関わるお話として、井伊直虎の許婚だった井伊直親が今川氏真の招聘に応じ駿府へ向かう途中、掛川城下において朝比奈泰朝に殺害される。このとき、直親と共に殺害された人々が19人だったと言われていてこの辺りには「十九首」という地名が今も残っているが、掛川市では「平将門以下19名が討たれた場所」として紹介されているのだ。私は、掛川藩に直親の孫井伊直勝(彦根城を築城した直継)とその子直好が入っていることから直親が亡くなった地を荒らされないためにわざと将門伝説に置き換えてこの地の保護をしたのではないかと考えている。日本史の中で怨霊や怪談話が流行った時代は数えるほどしかないが人間は漠然とした恐怖をどの時代でも抱えている。その中でも平将門の怨霊は時代の古さに加え中央政権に反発した武将としても民衆に対する知名度が高く、現在よりも非科学的な現象が当たり前だった時代に怨霊による土地の保護は効果があったのではないだろうか? 大手町も江戸時代は大老四家の一つ酒井家の屋敷であり、それだけでも土地の重要性は無視できない。
 すべての伝承を調べたわけではないが、将門伝説の場所には掛川の十九首のように作為的な伝承を感じずにはいられない。その観点で歌詰橋を調べると、一説には将門の首を葬ったと伝わっている塚が古墳であるとの指摘もあり将門伝説を利用しそうな話がない訳でもない、そしてこの首はのちに目覚めて新たな伝承を残すのである。

歌詰橋の碑
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明治維新の彦根藩

2018年12月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 第二次長州征伐は彦根藩にとって大敗を喫する戦だったが幕府にとっても将軍徳川家茂の死で停戦せざるを得なくなる汚点となった。歴史は大きく動き1年後には大政奉還が行われるが、その間に彦根藩も大きく動いた。
 まずは井伊直弼存命中には、直弼との意見の違いから江戸藩邸で軟禁状態に置かれていた勤皇派の岡本半介(後の黄石)が藩政を握る。そして一気に軍制改革を進め井伊の赤備えは消滅した。半介は藩医の谷鉄臣を重く用いて藩政改革を進めて行くが、同じ勤皇派でも半介が徳川慶喜の意向に沿った勤皇を主張するのに対し、鉄臣は岩倉具視らが考える倒幕を支持するようになり岡本と谷はすれ違うようになる。
 これは幕末から維新にかけて各地で起こった対立と同じ構図ではあるが、彦根藩では粛清ではなく話し合いによって谷が率いる下級藩士のグループ「至誠組」が中心となるようになった。王政復古の大号令ののち、彦根藩の藩論が勤皇でまとまったことを知った岩倉具視が大久保利通に報せ、大久保はすぐに鹿児島に伝えていて、その政治的影響の強さを物語っている。
 慶応4年1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いでは彦根藩は新政府の命で大津警護の任に就いた。直前まで徳川軍の中核を担っていた井伊家を新政府が完全に信用できずに用心して主戦場から遠ざけたとも考えられるが新政府軍の勝利に貢献したことは間違いなく、そのまま桑名まで兵を進め桑名城開城に立ち会っている。
 同じ時期、金剛輪寺では相楽総三らが赤報隊を結成する。のちに偽官軍と呼ばれて処刑される運命にある赤報隊も結成時は官軍として遇されていたため彦根藩でも領内通行を許可しており、赤報隊が偽官軍と呼ばれ処刑される原因となる年貢半減の高札が最初に掲げられたのは中山道高宮宿となる。
 鳥羽伏見の戦い以降、彦根藩の活躍は目覚ましい。この頃江戸で作られた瓦版には明治天皇を奉じて新政府軍となった大名に薩摩・長州・土佐に続いて彦根と阿波(蜂須賀家)が記されている。のちに薩長土肥と呼ばれる肥前(鍋島家)よりも早くに新政府に味方した大名として井伊家が認識されていたのだ。戊辰戦争での彦根藩は関東から東北まで転戦し、流山では新撰組局長近藤勇を捕え、会津戦争では板垣退助隊で戦った。また分家である与板藩(井伊直勝系)も周囲を敵に囲まれながら北越戦争を戦い抜いた。
 彦根では「直弼が嫌われていたため明治維新後の旧彦根藩士は冷遇された」と言われる事が多いが、大久保利通や大隈重信との繋がりが強く、大久保の尽力で日下部鳴鶴が明治天皇の前で書を書き、大隈によって彦根城取壊しが中止される。
 また西村捨三や大東義徹・石黒務など現在にも功績が残っている政治家も排出しているのだ。明治維新から150年が過ぎた今だからこそ、桜田門外以降の彦根藩を見直せるチャンスなのかもしれない。

桑名城開城時に焼かれた辰巳櫓址

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