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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(2)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマには大きな功罪がある。通常では注目されない人物をも描くことで世の中に周知される功。その反面、ドラマに登場しなかったために重要性が失われる誤解を招く罪。近年では『麒麟がくる』が後者であり、『真田丸』は前者だった。
 平成29年(2017)の大河ドラマ『おんな城主直虎』も前者に属するドラマであり多くの人物が世の中で知られる存在となる。その代表は小野政次だったが、中野直之と奥山六左衛門も知名度が急上昇した。
 ドラマ以前に奥山六左衛門を知っていたのは熱心な彦根藩研究家か谷崎潤一郎作品の愛読者くらいであったと考えられるため、拙著『井伊家千年紀』の加筆の様になるが奥山家について掘り下げてみたい。
 奥山家は、井伊家から分かれた家であり、井伊家にとって重要な家臣の一家であったと考えられる。ただし彦根藩主となる井伊谷井伊家が常に遠江に広がる井伊領をまとめ続けていたと断定することはできないため、もしかすると奥山家の方が支配権を握っていた可能性も否定はできない。過小評価するとしても井伊谷より北西部の広大な領域を治めていた領主であり井伊谷井伊家も一目置いていた。井伊直虎の父・直盛が当主だった頃、奥山姓の家臣が数名記録されている。特に朝利(親秀とも)と孫一郎の名が知られる。二人の関係は分かっていないが一族であることは想像できる。朝利は今川義元から命を狙われていた井伊直親(亀乃丞)が信濃から帰国する際に娘を娶らせて直親の後ろ盾になった人物である。その他にも小野玄蕃(小野政次の弟説有)・中野直之・鈴木重時(井伊谷三人衆の一人)や後に彦根藩重臣となる西郷正友などに朝利の娘たちが嫁いでいて、朝利の妹は直虎の伯父・新野左馬助の正室でもある。このことからも奥山家の井伊家家中における閨閥の深さや地位の高さがうかがえる。
 孫一郎は桶狭間の戦いで直盛が討たれたときに直盛の遺言を井伊家に報じたとされているがその他の記録はなく、私自身は井伊直親の正当性を主張するための架空の人物ではないかと考えている。桶狭間での奥山一族の被害は大きく、奥山彦一朗・六郎次郎・彦五郎の名を見ることができる。このときに朝利の息子である朝宗も生まれたばかりの男児を残して討死。奥山家でも井伊家同様に家を支える当主を失っていたのだ。
 桶狭間の戦いの約半年後、朝利は小野政次に殺される。玄蕃(桶狭間で討死)の正室を奥山家から迎えているため、小野家にとっても朝利は大きな後ろ盾にもなる人物だった可能性もあるが、井伊家の中で大きすぎる交友関係が今川義元を失ったばかりの今川氏には脅威に見えたのかもしれない。朝利の死によって奥山家に残された当主はまだ生まれたばかりであり確実に力を失速させることとなる。そして実父の死から約二か月後に朝利の娘は井伊直親の嫡男・虎松を生んだのだった。

奥山氏居館跡(浜松市北区引佐町奥山)
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彦根城総構え400年(1)

2021年04月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 元和8年(1622)彦根城築城第二期工事が終了する。これにより彦根城は城下町を含めて現在に近い町割りが完成した。
 2007年、実際よりも1年ずれる形で『国宝・彦根城築城400祭』が開催されてから15年が経過する来年(2022)こそが本当の意味で彦根城が完成した『彦根城総構え400年』になり城郭のみが注目されていた15年前よりもより広く多岐に渡る身近な視点も含めた彦根藩領を発掘する機会にならなければならない。個人的にはこの場を借りて私的発信を行いたいと思っているのでお付き合い願いたい。
 基本的な話から始めるが、彦根城築城の黎明期は大きく二度の工期に分けられる。
 元号が慶長であった頃の第一期工事は、現在の内堀の内側である第一郭の建造であった。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を開幕し、大坂城の豊臣秀頼を包囲するために軍事拠点を設置する必要が生じた。このため家康はその生涯において初めての新城築城をも指示することになる。残念ながら家康最初の築城という価値は膳所城に譲ることになるが彦根城も江戸幕府が近隣諸大名に命じて造らせた天下普請の城となる。このため立地を含めた決定事項は江戸幕府主体で進められ幕府から山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門の3名の奉行も派遣された。このうち佐久間は豊臣政権下で伏見城築城の普請奉行を務め、豊臣秀吉から豊臣姓を許された人物でもあり家康の彦根城築城に対する力の入れ方が伺える。いつ戦が始まるかわからない緊張感を抱えたままの突貫工事が進み、井伊家の城でありながら井伊家が自由にできる要素はほとんどなかった。
 大坂の陣ののち、元号が元和と改められ平和の時代がやってきた「元和偃武(げんなえんぶ)」が宣言されると城のあり方が変わってくる。それまでは軍事拠点であった施設が、封建社会の中で秩序を保つための象徴となったのだ。統治の拠点となった城には政庁が置かれ施政者の屋敷が必要となり人が集まる、人が集まる場所には生活必需品が求められ商売も活性化し城下町が形成される。最初は思い思いに集まっていた人々によって坩堝(るつぼ)と化した町を整備する必要性も生じるようになった。結果的に彦根城も拡張工事を行わなければならなくなり武家屋敷や町人たちの住まいも含んだ第二期工事が行われたのだ。
 元和の第二期工事は、慶長の工事と異なり彦根藩内で藩士たちが主体となって計画される事業であった。井伊家家臣団が自らの城を自らの意思で作り上げる本当の意味での井伊家の城となる一大事業であり、井伊家の城作りは全国の武家にも注目されたのではないだろうか?
 そんな責任を負う元和の彦根城築城工での総奉行に任じられたのは、井伊家の親戚である奥山六左衛門朝忠であった。


彦根城研究の先駆け『彦根山由来記』(昭和44年再版分)
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渋沢栄一の義姪になった彦根人

2021年03月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 渋沢栄一の義兄である尾高惇忠の意に沿って富岡製糸場の女工たちを教育した人物が遠城繁子であることを前稿で紹介したが、もう少し深く掘り下げて考えると、惇忠が女工募集を行って3年後に突然やって来た繁子の行動も、繁子や夫・謙道について惇忠が知っていることも、都合が良すぎる感が否めない。
 惇忠と繁子の間を結ぶ糸は何であったのか? その答えは平成30年に彦根城博物館で行われた企画展『彦根製糸場―近代化の先駆け―』の図録に「女工募集にあたっていた韮塚直次郎の妻峰が彦根出身であったという縁があり、二人は彦根で女工を募集し」と紹介されている。
 江戸後期の尾高家は多くの事業を行う豪農として使用人を使っていた。『青天を衝け』での登場は見込めないかもしれないが、惇忠の7歳年上の使用人が韮塚直次郎で、尾高家の離れで生まれた直次郎は幼い惇忠や栄一とも交流があった。やがて才能が認められ独立した直次郎は、尾高家の協力の下で豪農として大きな財産を築いていく。ちょうど井伊直弼が大老に就任したころ、深谷宿で飯盛り女として働いていた美寧(みね・峰)と直次郎が出会った。美寧の事情を聴くと、彦根藩士羽守清十郎の娘だったが婚約から逃げ出して苦労の末に深谷宿まで来たとのことだった。直次郎は美寧を気に入り、尾高家から独立したときに迎えていた妻と子に全財産を与えて離縁、惇忠に相談して美寧を尾高家の養女にしてから妻として迎えたのだった。形式的に美寧は渋沢栄一の義姪ということになる。
 美寧の父とされている羽守清十郎という名は深谷市で伝わっているため、彦根で該当する人物を探してみた。私がこの話を訊いたのは『青天を衝け』の制作発表が行われてすぐのことでありあまり情報はなかったが、彦根藩において「羽守」ではなく同じ「はもり」と読むであろう「羽森」という苗字を善利組四丁目で見つけた。ここに記された羽森彦次が清十郎なのか、別に該当の人物が居るのかは現段階でまだ調査はできていないが彦根藩に関わる女性が尾高家の養女として韮塚家に嫁いだという縁は間違いないのではないだろうか。だからこそ惇忠は遠城謙道のことを知っていて、繁子が訪問してきたときに大いに喜んだのだと推測できるのだ。
 明治維新後、直次郎は富岡製糸場の礎石運搬や煉瓦製造などの資材調達を任されるが、ほとんどの日本人が目にしたこともないような西洋建物の建築であり作り方も分らない煉瓦を焼きセメントの代用品を探すなどの苦労があり、その傍らには常に美寧の協力があったとされている。直次郎が関わった富岡製糸場に彦根からの女工を多く紹介したことは、美寧の内助の功の一つだったのかもしれない。 
 美寧の墓は、富岡製糸場の近くに直次郎が生前に建立した物と深谷の二か所で確認できるが、どちらも直次郎と美寧の名が並んで刻まれている。

韮塚直次郎と美寧の墓(深谷市明戸 阿弥陀寺 韮塚家墓所)
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渋沢栄一の義兄を助けた彦根人

2021年02月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2021年2月スタートという異例の形で大河ドラマ『青天を衝け』の放送が始まった。日本資本主義の父とも称される渋沢栄一なので、全国に関連する事業や企業などがあるため滋賀県内でも渋沢栄一の足跡に触れることがある。
 その反面、幕末には尊王攘夷を志し高崎城を奪う計画を立てながら、一橋慶喜に仕えるという井伊直弼と敵対する立場(栄一が慶喜に仕えたのは桜田門外の変の後なので直接の対立はない)にいた人物でもあるため彦根藩に関わりがないような人物に見えてしまうかもしれない。だが栄一の身内にまで目を広げると明治彦根に大きく関わってくる。その身内とは栄一にとって7歳年上の義兄(妻の兄)尾高惇忠(新五郎)である。
 惇忠は、栄一と共に高崎城攻めを計画した人物でもある。この企てが江戸幕府に漏れたあとには奇妙な縁で栄一が一橋家に仕える。すると惇忠も幕府に近い人物となり、戊辰戦争では箱館まで転戦したのだった。明治維新後に栄一の懇願で富岡製糸場初代工場長となり娘・勇を最初の女工にして父娘が助け合い生糸生産による日本近代化を進めているのだ。
 日本の生糸は開国により海外に多く流出。その品質の良さを高く評価されていたが、それが大量生産の必要性を生み、品質低下に繋がっていた。このため海外からの信用を取り戻す高品質の生糸を大量生産するという大きな目標が提示されることになる。富岡製糸場は生産に器械を導入することで生産性を上げようとしたのだが、そのために必要な人材には器械知識を理解できる教養が必要となった。そして国内だけではなく国外からも注目されるため働く人々の気品も求められたのである。そのような厳しい条件でありながら明治維新後の日本では赤ワインを見て「西洋人は女性の生き血を飲んでいる」と思われ、西洋人が指導に入る器械や工場が避けられていた。
 明治5年(1872)から女工募集はされていたが難航する。人材確保に悩んでいた惇忠の許を明治八年に訪ねた人物が遠城繁子だった。繁子は旧彦根藩士・遠城謙道の妻でこのとき39歳。夫・謙道は15年前に桜田門外の変で主君井伊直弼が横死したことをきっかけに出家し豪徳寺の直弼の墓守となり、忠義を讃えられていた。その陰には貧しい生活に耐えながら二男五女を育てる繁子の存在が大きかった。
 繁子が二人の娘と共に富岡製糸場を訪れたとき惇忠は「遠城一家の忠節を聞き、繁子の来るを喜び直に擢して女工取締の任を託す」(『遠城謙道傳』繁子略歴より)と、繁子に女工たちの教育を任せたと伝えられている。繁子もこれに応えてこのあと彦根藩域より多くの女性を富岡製糸場に迎えて当初から求められていた教養や気品を身に付ける教育も行われるようになる。繁子は9年間働いたのち東京で99歳の長寿を全うする。そして繁子に育てられた女工たちのなかからは、彦根製糸場で活躍し滋賀県近代化に尽力した者も少なくない。

『遠城謙道傳』繁子略歴一部(遠城保太郎 / 一鳳社金山印刷所)
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井伊直政公生誕460年

2021年01月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 永禄四年(1561)2月19日、彦根藩祖井伊直政が井伊谷で産声を上げた。つまり2021年は直政公生誕460年となる。
 直政が誕生した頃の井伊家については大河ドラマ『おんな城主直虎』で語られ、私も『井伊家千年紀』に記しているため既にご存じの事柄ばかりになるかもしれないが、この機会に改めて井伊家を見直してみたい。
 平安時代から井伊谷(静岡県浜松市)を中心に拠点を広げていた井伊家は、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子である宗良親王を匿い南朝方として戦う。このときに井伊家と激しく戦った北朝の武将が今川範国で、以降井伊家と今川氏は何代も続く対立関係にあったが戦国時代に入り今川氏の勢力拡大によりついに井伊家も今川氏の軍門に降ることとなった。しかし駿府を居城としていた今川氏にとって、三河との国境に近い井伊谷を拠点にしていた井伊家は不気味な存在でもあり常に警戒されていたため、井伊家でも一族の娘を今川義元の側室として人質に出し、今川氏の血縁である新野氏から妻を迎えその兄を井伊家重臣にするなどの対策も行っていた。
 だが直政の祖父直満は北条氏と結んで今川氏を東西から挟み撃ちにする企てを立て義元に処罰された。直満の子亀之丞は足掛け11年(実質9年)の逃亡生活を経験し元服して「直親」と名乗り井伊谷に戻ってきた。
 直親の帰郷に際し、一族である奥山朝利の娘を妻として迎えている。これは直親にとって有力な後ろ盾になる存在であった。直満が罰せられる前の亀之丞には直盛の娘(次郎法師直虎)との婚約があったとされているが、謀反人の息子となった直親は強力な味方をアピールして身の安全を確保しなければならず、次郎法師の婚礼は不可能であったと考えざるを得ないのである。
 井伊谷は直盛による落ち着いた領国運営が長期的に続き、ゆっくりと直親へと世代交代する予定だった。しかし直親が戻ってから5年、桶狭間の戦いにより今川義元・井伊直盛が共に討死。今川氏を継いだ氏真は直親を謀反人の子として猜疑の目で見るようになっていく。
 桶狭間の戦いのときには直親の妻が懐妊していたが、これを直盛が知っていたかどうかはわからない。けれども直盛の死と因縁がついて期待された子になった可能性は高い。しかし直盛討死の半年後には直親の後ろ盾だった奥山朝利が殺害されてしまう。期待されながらも常に危機が近くに迫っていた直親の子として井伊直政が誕生したのだった。翌年十二月には直親も暗殺されたため、直政は父と1年10か月しか人生を共にできず、その後も幼くして多くの苦難を経験することとなる。
 直親が頼りにした奥山家は、直親を守ることはできなかったが、朝利の孫である六左衛門は直政の家臣として多くの戦に参戦し、直政没後は彦根城築城二期工事の総奉行として彦根城下町も基礎を完成させている。

井伊直政公出世地の碑(井伊谷龍潭寺)
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明智光秀に仕えた彦根藩士(後編)

2020年12月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 木俣守勝は九歳で徳川家康に出仕するがこれは幼すぎるわけではない。当時に武士たちは元服前から主に自らの子を預け教育や人間関係の構築を任せている。こうすることで主従関係が穏便に保たれたとも考えられる。しかし守勝は19歳で徳川家を出奔した。
 守勝が徳川家を出奔した理由に定説はない。一般的には家族との確執と言われていて高殿円さんは守勝を主人公とした小説『主君』(文春文庫)の中で異母一家との不和を描いていた。確かに守勝の人生を見てみると家族の絆には恵まれておらず後には妻方(井伊直虎の従姉妹)の甥守安を養子に迎えているため木俣家の血を残すこともできてはいない。しかし家族に原因があるような出奔を家康が簡単に認めるとは思えない。むしろ守勝出奔は家康の策ではないかと考えてしまう。
 前稿で書いた通り家康の父・松平広忠は今川義元からどんな仕打ちを受けても裏切らない律儀者だった。その広忠や周囲の三河武士を見ると徳川(松平)家は義理堅く見え家康もその評価に甘んじているが、家康自身は今川義元・織田信長。豊臣秀吉が亡くなるとその子たちを簡単に見限っている。これらの行動は事前に情報を集めて準備しなければ行えるものではなく情報の収集源はできるだけ当事者に近くなければ意味がない。そう考えるならば信頼する家臣を派遣するのが一番ではないだろうか? 守勝は明智光秀に仕えるようになる。蛇足だが守勝出奔の後に井伊万千代が家康に仕えているため二人の出会いは少し先まで待たねばならない。
 光秀に仕えるようになった守勝は、懸命に光秀のために戦った。天正5年(1577)信長に二度目の反旗を翻した松永久秀討伐のために久秀の居城である信貴山城に近い大和片岡城を攻めた光秀軍において守勝は先駆けを行った。片岡城落城後に五日間の在城の後で光秀は信貴山城攻めに参戦するがここにも守勝は従軍したと考えられる。翌年には播磨攻め中の羽柴秀吉への援軍として播磨に入った明智軍に守勝も参戦。別所一族の神吉頼定が籠る神吉城を攻めた。この城はなだらかな高台に築城されていて城攻めは困難を極め、結局は謀略によって落城するが、守勝は可児才蔵と先駆けを争い光秀から感状を受けている。その翌年には石山本願寺攻めでの活躍が信長の耳にも入り、信長に拝謁し50石を与えられるなどの活躍を見せ、本能寺の変の前年に家康が信長に懇願し守勝を徳川家に帰参させたのだった。
 光秀との関係の深さや徳川家に帰参したタイミングの良さから近年では、本能寺の変で光秀と家康を繋いだ人物が守勝ではないかとも言われるようになっている。私見としては守勝の帰参が、信長が朝廷を威嚇した御馬揃えよりも前であるため、本能寺の変を念頭に置いた光秀・家康の繋ぎ役が守勝であるような都合がいい話はあり得ないと考えている。ただ、光秀亡きあとその人脈を守勝が取り込んで利用したことは間違いないのだ。

神吉城祉の神吉頼定の墓(兵庫県加古川市東神吉町 常楽寺)
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明智光秀に仕えた彦根藩士(中編)

2020年11月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 徳川家康の祖父・松平清康は名将だったと伝わっている。混乱が絶えなかった西三河を統一し、今川氏輝(義元の兄)や織田信秀(信長の父)と対等に渡り合える人物だった。しかし二十五歳の若さで家臣の阿部正豊に暗殺される(守山崩れ)。余談ではあるが、清康を刺した刀は村正の一派である千子正重であり、この後も家康の周辺に関わる悲劇には村正が関わるため、妖刀村正の伝説が面白おかしく語られる。楠木正成の子孫が打つ千子正重が同じ南朝方の武将である新田義貞の子孫を称する徳川氏に祟るのは物語としても矛盾が生じると考えている。
 さて清康の子・仙千代はまだ十歳であり清康の叔父・松平信定に保護される。しかし織田信秀と好を通じて清康に反発していた信定を信用していなかった仙千代の傅役である阿部定吉(正豊の父)は、仙千代を連れて信定の元から脱出し、清康の妹婿吉良持広を頼った。吉良氏は伊勢国神戸(鈴鹿市)にも所領を持っていたため、仙千代と定吉ら主従を神戸の龍光寺に匿ったのだった。
 龍光寺は、近くの神戸城を居城としている神戸氏が、この時期より一世紀ほど前に称光天皇からの勅命で建立した格式高い寺院で、ここに匿われるということは、ある程度の安全だけではなくその人物の身許も保証されたのではないかと考えられる。そうならば神戸氏にとって仙千代は客分として遇する対象であったのではないだろうか。
 仙千代と神戸氏についてどのような交流があったのかを詳しく知ることはできないが、この時期に神戸氏に仕えていた木俣守時が仙千代に仕えるようになる。楠城主川俣氏の一族でありながら神戸氏に仕え、その上で身許が保証されているとはいえ国を追われた子どもを主とする決意をした守時の行動には疑問を感じざるを得ない。ただ仙千代を不憫に思っていた吉良持広は、吉良氏の同族である今川氏輝に声をかけて仙千代の後ろ盾とし、松平信定との戦いの準備を始めていた。仙千代は伊勢を出る前に元服し松平広忠と名乗る。大大名今川氏の支援を得て国入りする広忠に従って行けば、三河で木俣氏の家名を残せる可能性が低くないと守時が考えたのかもしれない。また守時がそう思えるほどに広忠の人柄に特筆すべきものがあった可能性はある、低く評価しても広忠は息子徳川家康よりも律儀者であったことは確実なのだ。
 さて、広忠は十一歳で元服し守時らを伴い伊勢国を出て駿河国に向かったが道中で氏輝の急死の報を聞く、やがて花倉の乱を経て今川義元が当主となると義元の庇護を受けて三河へと帰国した。以降、広忠はどんな無理難題を課せられようとも義元を裏切らず忠誠をつくし続ける。そして守時も広忠と共に岡崎城に入り城下に居を構え、広忠が暗殺され幼い家康を他の三河武士と共に支える。永録七年(一五六四)三河統一直前の家康に守時の子・守勝が九歳で出仕したのだ。

神戸城祉(かんべじょうし・三重県鈴鹿市)
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明智光秀に仕えた彦根藩士(前編)

2020年10月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていると、今までのドラマではあまり描かれなかった人物や出来事が濃く描かれる傾向が強いため、個人的に登場を期待している人物がいる。それは木俣守勝である。
 守勝は『おんな城主直虎』の最終回で、徳川家康から井伊直政に預けられた武将の一人として登場する人物だが、その前に明智光秀に仕えていた時期があるのだ。
 まずは木俣氏のことから考察したい。先祖は楠木正成だと言われている。楠木氏は江戸時代初期に徳川光圀(水戸黄門)が編集を始めた『大日本史』において南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に忠誠を尽した武士の鑑として称され、その考え方を踏襲した明治政府の影響で忠臣としてのイメージが現代まで残っている。しかし、室町時代は足利尊氏が立てた北朝に逆らった逆臣との評価が一般的であり子孫たちは楠木姓を捨て別姓を名乗るようになる。
 楠木正成が討死したあと、息子たちが南朝を盛りたてていたが、その中の一人楠木正儀が北朝に帰順し五十六年続いた南北朝の争乱を終わらせることになる。この正儀の子孫が木俣氏であるとされている。ここから複数の説が存在するが大きく二つの説を紹介したい。
 一つは楠木正秀という人物が河内国大饗村(おおあえ・おあえ:大坂狭山市)に住み「大饗」姓を称した一族から分かれたというもので、正秀の子が守清を名乗り代々「守」の字を繋いでいるとしている。大饗氏を継いだ人物が正盛を名乗っているため「盛」と同音異字の「守」を使ったのかもしれない。余談だが、正盛の子孫である大饗正虎は足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉の右筆を務めるくらいの書家であったため、朝廷に願い出て楠木正成の名誉を回復させ楠木姓に戻し楠木正虎(楠長韻)として名を残している。
 もう一つの説は、北朝に降った正儀の後で南朝の総大将となった楠木正勝という人物を祖とするもので、正勝は南北朝合一後も南朝の武将として戦い続け討死、息子の正顕(正盛)が伊勢国司北畠氏に仕えるようになり、正顕の子・正威が北畠氏の命で楠城主(四日市市)となるが、楠城は正威の弟・正重(刀匠村正の弟子、千子正重派の祖)が継ぎ、正威の息子・正資の子孫が「木俣」氏を名乗ったとされている。楠城主の家系は一時期楠木姓を捨てて「川俣」姓を称していたが、正虎に続いて楠木姓に戻している。木俣というのは「楠木」と「川俣」から一字ずつ採ったという話もある。
 正勝と正秀は兄弟と言われているが、ややこしい話として、正勝は実は討死せず怪我を負って逃れ、正秀を名乗ったという話まで残っている。その証拠ともいえるかのように正勝と正秀の子がどちらも正盛を名乗っているのである。そうすると今稿で書いたすべてが意味のないことになる。ただし木俣氏が戦国時代に伊勢に居たことは確実と思われる。

楠城址(くすじょうし:三重県四日市市)
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北条仲時の墓

2020年09月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2019年辺りから南北朝時代が注目を浴びているらしい。それに合せるように2020年の日曜日の朝には約30年前の大河ドラマ『太平記』が再放送されていた。このドラマは、それまで日本史の三大悪人の一人(諸説あり)とされていた足利尊氏の再評価が行われたことでも特筆すべき内容だったが、鎌倉幕府が滅びるまでの経緯を丁寧に描いた作品としても大きく評価されている。
 彦根藩を調べていても南北朝時代は避けて通れないほど井伊家に大きく関わっていて、彦根藩の行動理念の基になる理由付けになっているため、私も「井伊家千年の歴史」を連載しているときは『井伊家傳記』と『太平記』を読み込み矛盾のない繋がりを探し続けた。
 また近江は、南北朝時代も当然のように重要拠点となり幾つもの関連地が伝承されている。この連載でも長浜市安楽寺の紹介で足利尊氏との関わりを紹介している。
 さて、そんな近江と『太平記』の関わりで特に有名な史跡は米原市番場の蓮華寺ではないだろうか?
 足利高氏(鎌倉幕府滅亡後に尊氏に改名)は幕府の命で京に上洛し亀岡市の篠村八幡宮で討幕を宣言して一気に鎌倉幕府京都守護の拠点である六波羅探題を攻め落とす。六波羅探題の責任者は北条時益と北条仲時の二人だったが、足利軍の急襲に驚いて対応ができないまま光厳天皇・花園上皇を連れて鎌倉に向かって落ち延びることとなる。
 時益は京から出る前に討死、仲時は東山道を進んで行った。この道中を見る限り仲時に隠れる様子はなく、観音正寺に宿泊したとの言伝えもあることから悲壮感は感じられない。しかし不破の関の直前で佐々木高氏(道誉)が陣を構えていると知った時点で近江を抜けることができないと悟り、天皇・上皇の安全を見定めた後に蓮華寺本堂前において家臣らを含めた432人が自害して果てたと言われている。こうして仲時らの墓所は蓮華寺内に建立されているが、仲時の最も古い墓石はここにはない。
 江戸時代、井伊家当主が馬上のまま蓮華寺の墓に参った夜、仲時が夢枕に立ち「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と怒ったため、墓石が向かいの山に移されたとの伝承があるのだ。墓石の移転は享保年間と言われているため藩主は井伊直定ではないかと推測される。歴代彦根藩主を考証すると個人的に「直定公ならやりそう」と思っているが、史料から直定が移転させたかを確定することはできない。しかし、どの藩主が命じたにしても仲時の墓は蓮華寺と向かい合うように建立されていて悪意を持った移転ではないと信じたい。
 仲時の墓を移転させた山は、現在「六はら山」と呼ばれている。仲時の墓石直下の山裾には稜威直孝彦命(井伊直孝)を祀った溝尻神社(昭和49年に直孝神社と改称)が建立されている。実質的な彦根藩祖とも言える直孝の上に仲時が供養されていることに根拠のない妄想を膨らませてしまう。

六はら山山頂付近の北条仲時の墓
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大坂蔵屋敷

2020年08月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 戦乱の時代、街道を整備して物流を活性化させることは戦になればそのまま敵が素早く領内を進軍できることに直結し敬遠された。
 「幕府」というものは、朝廷から一時的に独自で政治を行うことを許された出張軍事機関(仮政府)との意味があるため、江戸幕府は軍事政権としての動きが優先される。このため五街道をはじめとする道の整備を行いながらも関所を設置し、軍勢が進み難い悪路であることを各地で強いた。
 物流には不向きで限界がある陸路から海路への方針転換が江戸前期において経済活動の鍵となるが、戦国時代までの船は紀伊半島と能登半島を越えることが大きな課題でもあった。江戸時代は船の規模に規制をかけられる時代でもあったが造船技術の進歩や、近江商人が主体となる「北廻り航路」と河村瑞賢による「西廻り航路」により安全な航路と寄港地が開かれる。こうして陸路物流は衰退し草津や大津に物資を留める必要性が薄れた。海路により陸路よりも早く大量に運ばれる物資の集約地が海に近く町中に多くの水路がある大坂となり商業的重要性が増すこととなる。
 そして江戸時代後期頃から各藩では地域ごとの特産品が作られるようになり藩の財政を支える戦略になろうとしていた。こうして各藩が大坂中之島周辺に蔵屋敷を置き、米や特産品を売買する拠点とするようになるが、彦根藩はやや先走りしてしまう。
 文化元年(1804)松原三湊から琵琶湖を渡り大津に物資が集積されることを無駄と考えた藩は西村助之丞に大坂屋敷地の買付・普請、留守居役を命じた。同時に大津に寄らずに瀬田川から淀川を経て大坂まで物資を輸送する航路を開こうとするが京都町奉行から叱責され、助之丞が責任を負って謹慎となる。
 しかし文化年間(1804~1818)の内には大坂蔵屋敷が機能するようになる。ただし大坂は幕府直轄地であるため蔵屋敷は藩領ではなく商人から間借りする形となった。発掘された佐賀藩大坂蔵屋敷の例で見るなら川から水を引き入れる船入があり川(彦根藩の場合は土佐堀川)から敷地内に直接入ることになる。船入の周囲は大きな広場になっており、ここで荷揚げされた米などが天日干しされてから蔵に貯蔵されたと考えられている。そして取引は米札で行われていた。そんな蔵屋敷が130近く並んでいたが各藩の武士は10人未満であったと推定されている。
 彦根藩大坂蔵屋敷は、淀屋橋より一本東栴檀木橋南側の大坂過書町(北浜)にあり現在は資生堂のビルが建っている。この地が歴史の大きな渦に巻き込まれることはなかったが、近所には緒方洪庵の適塾がある。
 隣は盛岡藩大坂蔵屋敷があり、映画化もされた浅田次郎さんの『壬生義士伝』の主人公・吉村貫一郎が悲劇的な自害を遂げた地でもあるのだ(ただし吉村の死は戦死で斬れない刀での自害はフィクションとされている)。


彦根藩大坂蔵屋敷跡地(現・資生堂)
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