ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

紅葉始まる

2016-09-14 07:56:10 | Weblog

 秋深む木々にうっすら色のつく

そろそろとうつろい変はる初紅葉

 

 行きつきの歯科医院の二階の待合室から覗いた失敗の写真ですが、あたりの櫻の木々が薄っすらと色着き始めた。季節のうつろいを確実に感じ取る。木々の紅葉が進み、木枯らしが吹いて、葉が落ちれば、北信州に雪の季節がやってくる。足が悪い私は、雪が訪れて寒くなるまでの後2ヶ月半の間、歩行訓練で杖なしで歩けるようになることが目的で日々努力はしているつもりであるが、このところ、希望が持てるようになってきたことを感じとなり、朝を迎えることが小さな楽しみとなっている。


旬の魚鱸(スズキ)食べる

2016-09-13 09:21:48 | Weblog

 古稀男旬を味わふ鱸食ぶ

釣糸の弛みて悔やむ鱸釣

 

 鱸(スズキ)のあらいは白身の代表で歯ごたえと、そう上甘みもあり最高である。今、旬がまったなかの初鱸を堪能した。

       

 

 

弟が市場から、今が旬の跳ね上がりそうな新鮮な鱸(スズキ)を仕入れてきてくれた。以前から良い鱸が競りに掛かったら買ってきてくれと頼んでおいた。このごろは鱸の漁獲量が少ないのか和食ブームのせいなのか競値が上がっていると聞く。確かに高値には驚いた。刺身にしても、塩焼き、照り焼きでも最高であるため、他を倹約しても旬の鱸だけは食べることにしている。二句目の「釣糸の弛みて悔やむ鱸釣」は、若い時代から海釣りの好きな弟の苦い経験話を句に詠いました。 「逃げた魚は大きいと聞きますが、海釣りをやったことがない私は釣り糸の弛みとはどういうものなのか少しは想像出来ますが良く分からでいる。また、参考ですが、鰤スズキは鰤(ブリ)や鯔(ボラ)と同じように、幼魚から成魚までの間に何回か名を変えるため、出世魚として喜ばれる。鱸は地方によって呼び名が違いますが、この辺では、セイゴ(2年魚25cm前後)フッコ(2~3年魚で30~40cm)で関西では「ハネ」と呼ばれている。最後にスズキとなり(4年魚で60~70cm)1mにもなるものもある。その上にハラブトと呼び、冬の産卵期を向かえた大物腹太と言われていますが、この辺ではスズキの大物と言っている。

 


木島平やまびこがの丘公園のダリヤ園

2016-09-12 07:38:14 | Weblog

 ダリヤ魅に身も心とも奪われし

ダリヤ園少女しっとりりけり

 

 

 

隣の木島平にやまびこの丘公園内にダリア園がある。ここは、5,000平方メートルの敷地内には260種、約20,000本の中南米・中国産のダリアが咲き誇んでいる。私もこの「やまびこの丘公園へ一緒に行きましたが、公園には入らず休憩室で静かに『飯田龍太」の俳句鑑賞読本に目をとおしていた。場所が場所だけにどうも集中できなかった。婆とお母さんと、末孫の「あーちゃん」とで公園内のダイヤ園を楽しんで来たようだった。お兄ちゃん二人は、そらぞれ、バスケとサッカーの試合をお父さんの運転で出かけたようだった。今日は二人とも強豪との戦いのようなので、成績は上がらないだろうと勝手に思う爺であった。身につかなかったが、「俳句鑑賞読本」にこんな「はしがき」があった。

実作はしないが、新聞や雑誌に投稿された俳句に対する選者の短評は興味をもって読むというひとが増えているようである。「なるほどそういう意味合いの句か」と合点するときもあるし、「いや、それはおかしい。この句は、こう解すべきではないか」と思う場合もああるだろう。いわば自問自答のかたちで、素早く結論がうまれるところに、実作の有無にかかわりない短詩型の面白だがある。しかし、実作するひととしからざるひととの間には、作品に対する問合いのとりかたが微妙につがうように思われる。あるいは、眺めるだけの釣りと、実際に釣竿を手にした場合の違いといってもいいかもしれない。鑑賞とは、作品に程よい距離をおいておおづかみの印象を深め、近づいて細部の検討をするこただろうが、ことに俳句のような詩型では、僅かな文字のちがいで作品の解釈に非常な差異が生まれる。そこに、鑑賞の面白さが生まれる。ことに実作の場合は、その点に気付くと、にわかに人事でなくなってくるものである。とあった。

 


「飯山時間」という名の喫茶店

2016-09-10 08:37:46 | Weblog

 深き音静かな秋の喫茶店

先々月になるか、地方に住む友人数人で、私の病気快気祝いに、顔を出してくれた。皆で楽しい昼餉をすました後、中野市に住む友人T君が「長谷の家のそばにある「飯山時間」という喫茶店を知っているかと言う、私は始めてことでしたので、そんな名の喫茶店は知らないと答えたら、友人のT君は笑いながら、その喫茶店は開店してからも五年以上も経っているのに知らないのかと、冷やかされてしまった。「飯山時間」昔からこの地方の言葉で、約束の時間を守らなくルーズな意味で、良く解釈すると、飯山地方の人はゆっくり、のんびりとした人達だと言うことらしい。最近はせわしい時代になったことなのか、あまり使わなくなった言葉である。喫茶店の「飯山時間」はゆっくりとして良い音楽聴きながらコーヒーを楽しんでくれと言う意味ではないかなと、私なりに解釈した。その「飯山時間」という名の喫茶店へ行ってみると、顔見知りの、市役所OBの旦那Sさんと、その奥さんとの経営であった。店内に、静かな音楽を深く聞く音楽通のお客さんがターケットなのか、オーディオ設備がすごいのに驚いた。知らなかった分けは、ガサツの私などには縁遠い音楽喫茶であるだからだと思った。それ以来数回と無く、音楽より、気さくな御夫婦が気に入り訪れている。昨日も友人と軽食のスパゲチィとピザとコーヒーを楽しんできた。喫茶店には数人の顔の知らない静かにクラスチックを聞く、御客様がおいでになっていた。やはりこの喫茶店は宣伝しなくも口コミで固定客がおいでになる喫茶店だと改めて思った。


終わりに近い萩の花

2016-09-09 09:21:36 | Weblog

咲き乱れ散るをいそぐなこぼれ萩

母の忌に散るがちかくの萩の花

 家内は毎朝5~6K位い歩いているようである。ある日家内いわく、市内の一番北側に、飯山市街地で最古の寺の英岩寺がある。その寺につらがる「寺まち遊歩道」ぞえに、萩の花が最盛期でむしろ散り始めている。写真にするなら今がチャンスだと言うので、萩の花を撮って来るように頼んで撮ってもらった「萩の花」である。二句目に詠いましたが、このように萩の花の最盛期の頃、母が亡くなった時期で、菩提寺のお墓のそばに咲いていた終わりに近い「萩の花」がきれいだったことを思い出した。


杖ことばから 五木寛之

2016-09-08 07:17:53 | Weblog

 杖ことば触れてしみ入る秋うらら

人に恩を与えることは、じつに危険なことである

 偶然に目にしたセネカの書簡に、「人に恩をあたえること」と、「人から恩義を受けるとこと」についての言葉があって、興味深く読みました。彼は言います。人に大きな恩をあたえることは、じつに危険なことである、と。それは、恩返しをしないで恩知らずと言われることをおそれるあまり、恩を受けた人は恩人が世にいなくなりことを望むようになるからだ、というのです。なんともひねくれた人間観ですが、私は、セネカの気持ちに共感を覚えてしまうちころがあります。1950年代、早稲田の学生だった頃のことです。朝鮮半島で日本人学校の教師として皇国史観を信じていた父にとって、引揚げ者として母国にたどりついてからの人生は魂を奪われた人のようでした。引き上げ途上で妻を失い、地獄のような日々を生きのびた父は、 肉体的にも精神的にもボロボロで、まともに一家を支えることができませんでした。それでも、大変な思いをして、私を東京の大学に送り出してくれたのは、教師としてしみついた高等教育への信頼と憧れがあったからでしょう。あるとき、私は父に授業料の仕送りを頼んだことがあります。手紙を見た父は病身の床からはい出て、親戚縁者をまわり、血を吐く思いで、金策に走ってくれました。そしてわずかばかりでしたが、当時の父としてはできるかぎりの金を集めて送ってくれました。私はその金を授業料の一部にあてるのではなく、遊興費に使ってしまったのです。なぜそうしたのか、今もってわかりませんが、その血のにじむような金は、一夕の酒代に消えてしまいました。そのことに対する自責の念で、私は父に礼状を書くことができませんでした。今日書こう、明日書こうと思っているうちに、何ヶ月かたち、父は病で亡くなりましたが、父は生前、私から受け取ったという手紙が来ないことをたいそう心配していたと聞かされ、いまにも呼吸がとまりそうなほど胸が痛んだことを思い出します。「人に恩を与えることは、じつに危険なことである」このセナカ言葉を耳にしたとき、わたしはふと心によぎる思いを感じました。父が最後の力をふりしぼって送ってくれた恩に、感謝の気持ちをひとことも伝えることをしないばかりか、無駄にしてしまった。私にとって父の大きな思いが重荷だったのではないか。そして、セネカの言うように、無意識のうちに父の存在を否定しようとしたのではないかと考えてしまうのです。ですから、この言葉は、厳密な意味での杖ことばではありませんが、人生にひそむ陰の部分に気づかせてくれる重い言葉なのです。    五木寛之

セネカ  (ルキウス・アンナエウス・セネカ) ラテン語: Lucius Annaeus Seneca紀元前1年頃 - 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国政治家哲学者詩人

 


実りの秋

2016-09-06 10:17:10 | Weblog

 稲架けに太陽の陽の沁みている

稲架けの久しき郷の田圃見ゆ

 やはり、機会乾燥よりも自然の太陽乾燥のほうが美味しいお米に出来上がるようで、最近天日乾燥の風景があちこちに増えてきたように思う。             

 

 

 

 

 

自然回帰の時代と言われるが、こんなところにも、自然の良さが分かってきたのだろうと思う。それとも世の中、生活の余裕が生まれ、本物志向になっているのか、やはり太陽の香り一杯の自然乾燥のお米の方がうまいに決まっていると思うが、我が家は買い上げのお米、天日乾燥のお米は夢のまた夢であると思うが、天日乾燥している農家に知り合いがあるので、分けていただけたらなと思う今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 


NHKの撮るしん 信州新町の棚田

2016-09-04 10:40:05 | Weblog

 喜びの秋の収穫棚田なる

村つつむ棚田の実り秋の色

西野入 孝男さん
撮影日:2016年8月30日
場所:長野市信州新町
台風の影響で大雨でしたが、収穫まぢかの稲が夕日を浴びて碧く輝いていました。

 私共郷にも、どこかにこんな風景があるような気がした。棚田の風景は春の田お越しで水が入ったころから、田植え、青田の成長など何時見ても心が癒される。何か不思議な風景が棚田にあると始終思っている。


長野パープル出荷最盛期

2016-09-03 07:51:36 | Weblog

 パープル食ぶ詩を啄むがごとくなり

パープルのひと粒づつに団欒す

 

 

 

 

 

 

 

長野パープルが今最盛期、発祥地の須坂のことが昨日のテレビニュース大きく取り入れられていた。ナガノパープルの特徴は、何と言っても「種がなく、皮まで食べられる、大粒のぶどう」だと言うことであるその上、全国で「種無し・皮食」のぶどうが次々と誕生する中にあって、特にナガノパープル黒系のぶどうでもあり、皮にはポリフェノールがたっぷりと含まれているのが最大の強みともなっている。今一番の人気の元は、巨峰に勝るとも劣らない糖度ながら、「さわやかな甘さ」が特徴であると中野市では長野パープルの先駆者である友人のY君の説明を思い出した。驚くことに長野パープルは三Kで120,000円の値段がついたと報道されていた。