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杖ことばから 五木寛之

2016-09-08 07:17:53 | Weblog

 杖ことば触れてしみ入る秋うらら

人に恩を与えることは、じつに危険なことである

 偶然に目にしたセネカの書簡に、「人に恩をあたえること」と、「人から恩義を受けるとこと」についての言葉があって、興味深く読みました。彼は言います。人に大きな恩をあたえることは、じつに危険なことである、と。それは、恩返しをしないで恩知らずと言われることをおそれるあまり、恩を受けた人は恩人が世にいなくなりことを望むようになるからだ、というのです。なんともひねくれた人間観ですが、私は、セネカの気持ちに共感を覚えてしまうちころがあります。1950年代、早稲田の学生だった頃のことです。朝鮮半島で日本人学校の教師として皇国史観を信じていた父にとって、引揚げ者として母国にたどりついてからの人生は魂を奪われた人のようでした。引き上げ途上で妻を失い、地獄のような日々を生きのびた父は、 肉体的にも精神的にもボロボロで、まともに一家を支えることができませんでした。それでも、大変な思いをして、私を東京の大学に送り出してくれたのは、教師としてしみついた高等教育への信頼と憧れがあったからでしょう。あるとき、私は父に授業料の仕送りを頼んだことがあります。手紙を見た父は病身の床からはい出て、親戚縁者をまわり、血を吐く思いで、金策に走ってくれました。そしてわずかばかりでしたが、当時の父としてはできるかぎりの金を集めて送ってくれました。私はその金を授業料の一部にあてるのではなく、遊興費に使ってしまったのです。なぜそうしたのか、今もってわかりませんが、その血のにじむような金は、一夕の酒代に消えてしまいました。そのことに対する自責の念で、私は父に礼状を書くことができませんでした。今日書こう、明日書こうと思っているうちに、何ヶ月かたち、父は病で亡くなりましたが、父は生前、私から受け取ったという手紙が来ないことをたいそう心配していたと聞かされ、いまにも呼吸がとまりそうなほど胸が痛んだことを思い出します。「人に恩を与えることは、じつに危険なことである」このセナカ言葉を耳にしたとき、わたしはふと心によぎる思いを感じました。父が最後の力をふりしぼって送ってくれた恩に、感謝の気持ちをひとことも伝えることをしないばかりか、無駄にしてしまった。私にとって父の大きな思いが重荷だったのではないか。そして、セネカの言うように、無意識のうちに父の存在を否定しようとしたのではないかと考えてしまうのです。ですから、この言葉は、厳密な意味での杖ことばではありませんが、人生にひそむ陰の部分に気づかせてくれる重い言葉なのです。    五木寛之

セネカ  (ルキウス・アンナエウス・セネカ) ラテン語: Lucius Annaeus Seneca紀元前1年頃 - 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 - 紀元後68年)のローマ帝国政治家哲学者詩人

 


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