屯田物語

フォレスターとα6000が
旅の仲間
さあ、カメラを持って
出かけよう!

六十四歳になって少しだけ思う・・

2005年12月11日 | 日常
柿食うて六つ四つのタネ残し

昭和16年12月11日生まれ
なんと六十四歳になってしもうた。
思い返せば、二十一のとき学校をやめてから職を転々、
それからの三年の歳月は自分が自分でない生き方を送ってしまう。

いい加減な人生であったが、
どうしょうもない焦燥感に喘いでいたときの三年間のことは忘れられない、
と思っていた。
しかし、あれから40年も経ってしまうとトゲトゲの苦い記憶は次第に丸くなって、
いつか懐かしい思い出にかわってしまった。

まあ、自分のことは大仰に考えがちだが、
”おしん”さながらの親の人生と比べると、
自分の生き様なんて袋入りの氷砂糖みたいなものだ。

息子の嫁さんの実家、国分寺の柿
果物はそれほど好きでないが、柿と梨とメロンは別。
この瑞々しい甘さはなんともいえない。



1円61万株の悲喜劇

2005年12月10日 | 日常
みずほ証券の担当者が誤ってコンピューターの端末に入力した売り注文によって
会社の一年分の利益が一瞬で消えてしまった。
わたしは35年以上も経理を担当してきたが、ミスの経験も山ほどある。(泣)
さいわいにして、情報化社会の最先端の業務と直結していなかったので
誤りを訂正する時間があった。

人間は必ずミスをおかす。
耐震偽造のような悪意は論外であるが、
うっかりと錯覚はいつでも起こりえることを予想しなければならない。
最新のコンピューターシステムであっても単純なうっかりミスを防げなかった、
デジタルはアナログに負けたということか。
途方もない損害を会社に与えた担当者であるが、
そこにアナログ的な人間らしさもある。

久々の細かい雪。
向こうの山々はみえないが、
おぼろ月のような陽射しが時折雲間から顔をのぞかせる。





落日の海で真珠湾を想う

2005年12月09日 | 


昭和16年12月8日は真珠湾攻撃の日。
浜益海岸で落日を眺めているとき、その日のことを考えてしまった。
わたしが生まれたのは真珠湾から三日後の12月11日。
母の胎内でゼロ戦の爆音を聞いていたかもしれない。
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父は何年もシベリヤに抑留されていた。
父を迎えるため函館までいったのは、わたしが小学校二年のときである。
蘭島あたりだろうか、列車の窓から生まれて始めて海をみて驚いたこと、
旅館で食べたニシンが美味しかったこと、
先年亡くなった妹が父の髭面を恐がったことなど忘れられない記憶である。
夕暮れの海辺、
太平洋戦争による日本人の死者は330万人(内民間人110万人)といわれるが、
日本人だけでなく犠牲になったすべての人たちのために祈りたい。



浜益の海はシーフードの味

2005年12月08日 | 
我は海の子シーフードのスープ飲む

送毛をとおりトンネルをぬけると浜益。
ここまでくると道の両側の雪も多くなってきた。
「日本海食堂」で日本海ラーメン、妻はシーフードカレーの遅い昼食を摂る。
ラーメンのスープは磯の味、
エビ、カニ、ウニ、ホタテ、ツブ、イカなどなどシーフード満載。

日没まであとわずかな浜益の海岸、
広い砂浜の半分は薄く凍った雪でおおわれていた。
砂地に足跡をつけたり貝をひろったりして、そのうちに潮が少しづつ満ちてきて、
すっとこちらに寄ってくる。
足元が浸かりそうになってあわてて逃げる、濡れると冷たいからね。
気温は低いはずだけど、風がないのでさほど寒さを感じない。
冬の夕暮れの海岸、いまごろ歩いている人は遠くに一人二人ばかり、
短い夏は海水浴場で賑わう浜益の海である。









海のみえる丘 夕日の丘

2005年12月07日 | 
ひとときは風になる丘、海みえる

浜益の夕日を見たいと思った。
途中、厚田村の「夕日の丘」、
片寄せられた雪のなか、風もなく弱い陽射しがきらきらと輝く冬の海を眺めていると、
なにも考えないで、どこかへ飛んでいきたくなる。

ここから濃昼(ごきびる)、送毛(おくりげ)、そして浜益まであと50キロ。














七つまでこの世に生きて・・

2005年12月06日 | 日常
七つまでこの世に生きて棄てられて

日光ICのカメラに不審な白いワゴン車の映像があった。
その車はNCシステム(自動ナンバー読み取り装置)にキャッチされている
可能性があるとのことで、容疑者の割り出しは早いかもしれない。
有希ちゃんの安らかな眠りのため、はやく逮捕してほしい。

いつもなら根雪となっている札幌の街、
きょうは小春日和、 晩秋の九十九里浜 のような暖かさではないけど、
これから浜益の海へいこうと思っている。

今朝の手稲山、
防風林の葉がすっかり落ちて、向こうが透けてみえる。


雑木林のうすぐらさ・・

2005年12月05日 | 日常
子の通う雑木林のうすぐらさ

栃木の小学校一年生の女児はいつもの通学路でなく、
雑木林のある近道を歩いていたところを襲われた。
有希ちゃんのお母さんやおばあちゃんのお気持ちを考えると胸が痛む。

このような雑木林は全国あちらこちらにある。
そこには四季折々の野花が咲いて、日々の暮らしのなかに溶け込み、
自然と気軽につきあえる場所であったはずだ。
それが、いつのまにか鬼の棲む場所になってしまったということか。

屯田防風林
犯罪は憎いが、こういう場所も大切にしてほしい。


寒そうな赤い実とメロンのような月  

2005年12月04日 | 札幌の風景
赤い実はもう抱ききれぬひとがいる



きょうは一日穏やかな日です。
きゅうに思い立って海に沈む夕陽をみようと出かけましたが、暗くなってきそうなので
あきらめて引き返してきました。
街路樹のナナカマドの葉はすっかり落ちて、
赤い実だけが寒そうに枝にしがみついています。

うちから手稲の山々を眺めています。
陽はすっかりおちてましたが、まだいくらか空はあかるく、
ひとかけらのメロンのような月はなんともつつましい。。
ナイタースキー場がオープンしたようですね。




「二十四の瞳」 なぜ幼い命を奪う・・

2005年12月03日 | 映画
小豆島の岬分校。
赴任まもなく大石先生は子供たちのイタズラで足を怪我をして学校に来られなくなる。
一年生十二人の子供達は大石先生に逢いたくて、
四里の道を先生の家まで歩きだす。
途中、お腹が空いて泣く子、しまいには皆泣いてしまう。
やっと、先生に会えて嬉しい!
キツネうどんをいっぱい食べてから、
大石先生と十二人の子供達は海辺で記念写真を撮る。
「海辺の写真」はこれからの子供達の生きる希望となる。
そして満州事変から太平洋戦争、子供達はみな大きくなり、
それぞれの人生は戦争と貧しさに翻弄されていく。

あれから十八年、
ふたたび岬分校で教鞭をとる大石先生の歓迎会に集まったのは、
十二人の子供達のうち女子が五人(一人病死、一人欠席)、
男子が二人(三人戦死)。
戦争で盲目になった磯吉は見えない目で、あの「海辺の写真」を指でさすりながら、
一人一人の友の名前を呼ぶ。


「二十四の瞳」で大石先生の豊かな愛情を受け、
貧しいけど精一杯生きてきた子供たちのことを考えたとき・・・

広島の女の子、栃木の女の子は、
なぜ幼くして生命を奪われなければならなかったのか、
あまりの無慈悲で卑劣な悪業に言葉もない。


大通七丁目付近のイルミネーション
交通事故紛争処理センターの帰り道。。

野菊の如き君なりき 

2005年12月01日 | 映画
「わたし、野菊は身震いするほど好き」
「民ちゃんは野菊のようだ。ぼくも野菊は好きだ」
「政夫さんはリンドウの花のよう」
・・・
「わたしはこうして死ぬ方がよかったのよ」
臨終のあとに、祖母が政夫に語る。
「民子は、政夫の手紙とリンドウの花を隠し持っていた」




木下恵介監督作品がBSで放映されている。
きのう、「野菊の如き君なりき」をみて胸が熱くなった。
信州のとある村、60年後に村を訪れた政夫の回想シーンから、若き日の
忘れられない初恋の思い出がはじまる。
古い道徳観に引き裂かれた二人の純愛は哀れである。
しかし、まわりの人たちはほんとうはみなやさしい人ばかり、
それが救いであった。
民子の祖母が民子の胸中を察して語る。
「私は、おじいちゃんと一緒になれたことが、他のなによりも、
一番うれしいことだった」

民子の墓に野菊を手向ける現在の政夫、
すばらしくきれいなラストシーンである。