屯田物語

フォレスターとα6000が
旅の仲間
さあ、カメラを持って
出かけよう!

晩秋の前田森林公園

2009年11月30日 | 前田森林公園


前田森林公園・・
落ち葉があつくつもって、足の裏がふかふかと気持ちがいい。
右ひざがわるいから、こんな散歩道はありがたいね。



手稲の山肌が白くなってきたが、
昨日、サッポロテイネがオープンしたそうである。
古いスキーは処分してしまったので、機会があればカービングスキーに挑戦してみたい。
サイドカーブが深いから、もっと上手くパラレルができるかも。(笑)

七年間愛用したデル(Dimension 8300)を処分した。
3000円で買い取ってもらったから得した気分である。

さて、来春はウインドウズ7を購入しようかと思っている。
わたしのところにデスクトップ(ビスタ)とダイナブック(ウインドウズXP)のパソコンは2台であるが、
次のPCは新しいOS搭載の機種だね。

来年は XP、ビスタ、セブン のOSトリオで頑張るのだ。


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人間には死ぬ力がある

2009年11月29日 | 日常


癌で亡くなる方の割合は日本は世界一だとか、なんせ長寿国だからね。
わたしの父は享年97歳、死因は誤嚥性肺炎であったが、大腸癌にもかかっていた。

1000人以上の癌患者の最期を看取った鳥取県の徳永医師は語っていた。

「人間には死ぬ力がある。死を本人に悟らせたうえで、その準備をさせている・・」

それがあってか、死の前日まで家族に囲まれて笑っていた患者さんの姿が印象的であった。



立花隆さんは昨年膀胱癌の手術を受けている。

「もしも再発や転移が発生し、先がみえたとき、積極的な延命方法は取らない。
QOLが最低限保てる生き方を選ぶ。
人間は死ぬ力を持っている。死ぬまで生きる力を持っていたい・・」


こんなことを仰っていたが、わたしもそのとおりだと思っている。

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忠別川にかかる新神楽橋

2009年11月27日 | 旭川の風景


初冬といっても今日の雨はあまり冷たくない・・
さて、フォレスターにのって、これからどうしょうかと考えていたが、
取りあえず、神楽橋まで行ってみようかと思う。



新神楽橋は400メートルを超える長さ、しかも橋脚がなく桁も薄くなっているとか、
旧神楽橋と比べればわかるよね。
これで必要な強度を確保しているのだから、どんな構造なのかと橋桁の下へ潜ってみた。



真下から見あげると自分が巨大な構造物にしっかりと守られているようで案外心地よい。

忠別川のゆったりとした流れはいつも変わらない、ここには思い出がいっぱいあるからね。



旭川は新しい駅舎を建設中である。
買物公園が出来たときのような賑わいを取り戻してほしい。


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「二位でもいいのでは・・」

2009年11月26日 | 旭川の風景


事業仕分けには無駄な予算を徹底して削減するという大義はあるにしても、
そのやり方は拙速にすぎるのではないか。

「二位でもいいのでは・・」

演算性能世界一を狙うスパコンプロジェクトに対する蓮舫議員の発言はあまりに短絡的であった。
ノーベル賞受賞者など科学者から痛烈な批判を受けて
蓮舫さんは「プロジェクト担当者の説明がわるい」と責任を転嫁しているようだが、
先ず国会議員として不見識な発言を詫びるべきだろう。

詳しくは うさログ をご覧ください。



三ヶ月ごとの内視鏡検査は無事OKであった。
昨日までは”青菜に塩”、今日は”仕分け批判”なのだから、少しは元気が出てきた証拠である。

四年前は検査のあと、こんな歌を詠んでいたが、
これからは四ヶ月を三ヶ月に直さなければならないけどね。
 
 見上げればまた四ケ月の元気持つ
     辺境の地の透けた秋空


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神楽岡のエゾリス

2009年11月25日 | 旭川の風景


神楽岡公園を歩いていたら、あれっ、エゾリスだよ・・
近づきすぎると逃げてしまうだろうし、ちょこまかと動きが素早くて、
なかなかピントがうまく合わない。
一歩二歩三歩、そろそろと前へ進みながら、

「少しだけじっとして、お願い!」

思わず小声でつぶやいたら、ほんとうに声が聞こえたのか、
すくっと立ち止まると、わたしのほうをほんの少しだけ確かめてくれた。

「ありがとう!」

気取りやさんのエゾリス君のおかげで、可愛い姿をおさめることができて満足である。








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北鎮記念館 「銃口」の歴史

2009年11月24日 | 旭川の風景


少し日暮れてきた護国神社・・
街の中の神社の境内なのに、人っ子ひとりみえなくて寂しい気もするが、
晩秋から初冬へ、そんな季節の端境のなかを行ったり来たりしていた。

護国神社の向かいに陸上自衛隊の駐屯地があって、
この一角の北鎮記念館・・
北海道の防衛と開拓に携わった屯田兵や旧陸軍第七師団の歴史を物語る資料が多数展示されている。



「銃口」 を読み進めることが辛くなってきた。
ご自分で軍国少女であったという三浦綾子さんの悔恨がこの小説を書いた動機だということである。
銃をもったことのない著者がなぜ中国や韓国の方に土下座!してまで謝りたいと思ったのか、
それがどうしても納得できなくて・・

太平洋戦争終了後、
日本は平和憲法を盾にあらゆる戦いを忌避してひとりの戦死者もだしてこなかったが、
果たしてこれが世界に誇り得ることなのか、そんなことを考えながらお参りしていた。

一昨年亡くなった父は極寒のシベリヤ抑留のことを話すことはあったが、
戦争について語ったことはない。

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護国神社に参拝する

2009年11月23日 | 旭川の風景


旭川の護国神社・・
昨年は秋深くなって紅葉を撮りにきたことがあるが、
いま、境内に入ると先日の雪が溶けきれぬまま残っていた。



運転免許を更新してきた。
今年の夏に事故を起こしたので、ゴールド免許はないと思っていたが、
なんと優良運転手のまま更新できたから、いささか面映い。

安全運転を誓って、護国神社に参拝したわけである。


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寂しい街 旭川の夕暮れ

2009年11月21日 | 旭川の風景


旭川平和通買物公園・・

戦前は師団通りであったが、戦後は平和通りと呼ばれるようになった。
昭和47年、駅前から八条通りまでの一キロに至る恒久的な歩行者天国が開設された。
その当時は歩行者天国のモデルとして注目されたものである。

しかし、いまは人通りも少なくなって、丸井さんも撤退したし、寂れた街になってきたと思う。

お腹が空いて、蜂屋のラーメンにしようかと思ったが、
五条まで歩くのは雨に濡れそうなので、すぐ目の前の machibar に寄ることにした。
オムカレー(珈琲付)780円、これが予想外?に旨い旨い。

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「銃口」 そして旭川の錦座通り

2009年11月20日 | 


「銃口」 から・・

竜太の家のすぐ傍に、錦座通りという目抜き通りがある。
錦座というのは映画館だが、時折東京からの芝居もかかる。
・・・
その錦座があるので、錦座通りという。
呉服屋、薬屋、八百屋、菓子屋、かまぼこ屋、金物屋などがずらりと並んでいて、大きな市場もある。
この通りを北に四百メートル程行ったらもう学校だ。


たぶん竜太の家は4条16丁目・・
三浦綾子さんがここで誕生されたからね。
そして、大きな市場というのは第一市場のことではないかと思っている。

わたしは4条15丁目に住んでいた。
真向かいに松竹座という映画館があって、もともとは錦座と呼んでいたそうだ。
錦座が経営上の問題から松竹に移って、その名も松竹座と改名、
通りの通称も錦座通りから松竹座通り(いまは銀座通り)と変っていったのである。

5歳になったばかりの昭和21年1月の夜であった。
母(祖母かも)に思い切りたたき起こされたことをおぼえている。
玄関に出ると松竹座から出火した炎が闇を真紅に染めていたが、不思議と怖ろしさは感じなかった。

「銃口」上巻の前半は大成小学校が主舞台となって、神楽岡公園、上川神社、聖台などがしばしば登場する、
ふるさと旭川の昭和のそのときが懐かしく思い出されるのである。



三浦綾子記念館の駐車場・・
ストローブ松の樹間からフォレスターがみえた。(笑)

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雪の神楽見本林

2009年11月19日 | 


「銃口」 を読み始めた。

昭和元年、北森竜太は旭川の大栄小学校4年生。
納豆売りをしている転校生中原芳子に対する担任坂部先生の温かい言葉に心打たれ、竜太は教師を志す。


三浦綾子の最後の長編小説であった。

昭和23年にわたしは大成小学校(小説では大栄小学校)に入学したから、
竜太の26年後輩にあたるのである。

昭和45年に大成は中央と統合し知新小学校と改称、
そして大成小学校の跡地にはイトーヨーカドーが建っている。



エゾリスに出遭うかと思って神楽見本林へ寄ってみた。
先日エゾリスを見かけたチョウセンカラマツの根元にしゃがみ込んで待ち構えていたが、
この日は姿をあらわさなかった。

日暮れにつれて三浦綾子記念館のあかりが明るくなってきた。
珈琲をいただきながら読書三昧、これぞ至高のひと時である。

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