昭和16年12月8日は真珠湾攻撃の日。
浜益海岸で落日を眺めているとき、その日のことを考えてしまった。
わたしが生まれたのは真珠湾から三日後の12月11日。
母の胎内でゼロ戦の爆音を聞いていたかもしれない。
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父は何年もシベリヤに抑留されていた。
父を迎えるため函館までいったのは、わたしが小学校二年のときである。
蘭島あたりだろうか、列車の窓から生まれて始めて海をみて驚いたこと、
旅館で食べたニシンが美味しかったこと、
先年亡くなった妹が父の髭面を恐がったことなど忘れられない記憶である。
夕暮れの海辺、
太平洋戦争による日本人の死者は330万人(内民間人110万人)といわれるが、
日本人だけでなく犠牲になったすべての人たちのために祈りたい。
1946夏、家族4人揃って中国太原から引き上げて来た...筈ですが記憶は殆どありません。
大岡昇平などで、戦地(地名)や経過を肉付けようと買い溜めてますが、未着手です。
先日NHKで山本五十六の話をやっていました。最後まで戦争を回避しようとしたのに、最後は自ら戦争を指揮しなくてはならなくなった無念が語られていました。
現在の日本の繁栄はこの戦争の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけないと感じました。
あの頃の日本も狂っていたのかもしれませんが、今の日本も狂っています。何が正しくて、何が間違っているのかがわからなくなっています。子供がひとりで歩いて学校に行けない社会なんて、やっぱり狂っています。
人を拒むような、冬の日本海の感じがどのお写真からも伺えて、私も海辺に立っているような感じがします。
お父上さま、シベリア抑留で大変なご苦労をされたのですね。私の父も学徒出陣で青春を奪われました。
間接的にしか知らない戦争でも、知っている限りのことは語り継がなくてはならないと思っております。
夕日を見ると、何かと思いに耽りますね。芭蕉も西行も西に沈む日輪に憧れたように、日本人には刷り込まれた記憶があるのかもしれません。おぼろげな記憶の中に、軍靴の響、B29の音、そして原爆のこと(当時広島に居ましたので)。我々年代の出発点がこんな環境の記憶の中にあったことを想います。
ハワイに昭和44年だったかに行ったことがあります。
業務でしたが、現地の島巡りで、飛行機に乗ったときに現地人搭乗員のスッチーちゃんがそばに来てあれがパールハーバーよって教えてくれました。
そのとき自分が引き起こした戦争ではなかったけれど、昭和16年の12月8日は、騙し討ちをしてしまい、武士道精神にももとるひどいことをしたものだと、大変複雑な気持ちでした。
幸いなことに英語が達者でないものですからその後口をつぐんでいればそれで事は足りました。
もちろん戦争は大反対ですが、山本五十六もこの騙し討ちを大憤慨していたそうですね。
NHKの山本五十六のドキュメントはわたしもみました。
宣戦布告をしないで攻撃したのは最大の失敗でしたね。
ただ、自虐思想はまっぴらなので、太平洋戦争にいたる史実を知らなければ
ならないと想いました。
栃木の小学校一年生殺害の犯人だけは絶対につかまえてほしいですね。
わたしの父はなんとか帰ってこらましたが、・・
麻さんのお父さんは無念でしたでしょうね。
わたしたちの時代がなんとか平和な社会を迎えられるのも、犠牲になられた
わが父母たちの血のお蔭と思っています。
わたしは防空壕に入った記憶と、江丹別の田舎へ疎開した記憶、その二つが
おもな戦争の記憶です。
原爆のとき広島にいらっしゃたのですか。。
原爆の記憶はなんにもまして悲惨な出来事ですね。
「真珠湾攻撃」と「原爆投下」、
二つの出来事は、いつまでも日米両国民の心のなかに棘がささっている
ようで、不安な苛苛した気持ちが消えません。
日本にとって宣戦布告のない「真珠湾攻撃」は歴史から削除したい
卑怯な作戦でした。
これはまさに戦争犯罪です。
しかし、米国も勝利が確定的となってからの「原爆投下」はとても許しがたい
戦争犯罪であります。
そこには人種差別的思想もあったでしょう。
日米両国民は太平洋戦争をきちんと総括しなければならないのに、日本だけが
自虐的な歴史観に振り回されていただけのような気がします。
60年経ったいま、もう自虐思想はうんざりです。
昭和21年に中国から引き揚げてきたわけですか。
当時はみな貧乏でしたね。
小学校時代のクラス写真をみても継ぎはぎの服を着ている子が多かった。。
でも、クラスにも一人か二人、坊ちゃん然とした子がいたようです。
わたしではありませんが。。(笑)