屯田物語

フォレスターとα6000が
旅の仲間
さあ、カメラを持って
出かけよう!

旭川東高生逍遥歌

2020年02月25日 | 大村正次

旭川東高生逍遥歌
作詞:大村正次 作曲:後藤功


急遽作ったフォトムービーですが、神楽岡公園、上川神社、神居古潭の風景、そして「氷点」の舞台となった富貴堂と「珈琲亭ちろる」の画像を挿入したので、旭川のことをご存知の方はどこか懐かしさを感じていただけたのではと思います。

神居古潭に九条武子の歌碑が建っていました。
 たぎつ波 ましろう白う 岩にちる
       神居古潭の くもれる真昼


ユーチューブの「埋め込み許可」をオフにしたため、再生出来ない不具合がありました。いまは通常どおり再生出来ます。


井上泰(靖)日本海詩人5-1号投稿詩・「みかん」

2020年01月31日 | 大村正次

緑岳頂上付近
「井上泰(靖)」は昭和30年、講演会で旭川に来た際、「大村正次」と二十数年振りに再会した。きっと懐旧談に時を忘れる程であったろう。
摂津国の怪人



「井上泰」日本海詩人13篇投稿中の一詩「みかん」を紹介したい。


  みかん

 これはまた何とすなほな黄いろいいのち。

 カチリ
 どこでか、石英のぶつかる音がこぼれて
 りょうりょうと、十月のそらは済ましてゐる。

 みかんよ
 なぜ、ぽっかりとはぢけないのだ。
 そのすっぱい液汁をかっとばして
 十月の蒼空へ
 お前のまるいいのちをぶつけてやらないのだ。

不思議の人・詩人大村正次先生

2020年01月26日 | 大村正次
昭和36年 緑岳山頂

詩人「大村正次」は、作家「井上靖」の文学デビューに立ち会ったことで知られている。
井上靖は金沢第四高等学校在学中に当時石動に住んでいた大村を訪ねたことが切っ掛けで、大村が主宰する詩誌「日本海詩人」に井上泰の名前で13篇の詩を発表することになった。(井上靖著「青春」に詳しい。)
「井上」は旭川生まれだが、「大村」も戦後旭川東高の教師になるという地縁で繋がることになる。

摂津国の怪人


「孤獨」-井上泰―「日本海詩人」昭和4年6月号掲載。

私には何もいらない。
不思議にも巡りきた二十二年の歳月を
私は確りと握ってゐる。
あの人の心も、友の心も
いつか、私をおいてけぼりにしたけれど、
二十二年のやさしい月日は私の何處かで微笑んでゐる。
何も判らない童話の様な明日あす
私から離れられない昨日になるのを
私は、夢の様な心でみつめてゐる。

不思議の人・詩人大村正次先生―幾度かの富山訪問に見聞きした体験に 基ずくー

2020年01月22日 | 大村正次

昭和35~39年頃・・
裏大雪緑岳頂上付近から高根が原方面を望む



推論:富山の文学風土について(その二)

 富山文学の嚆矢といえば「大伴家持」を挙げなければならない。「越の国」の国守として赴任した五年間で二百余首の和歌を詠んだといわれる。高岡市では「万葉集全20巻朗唱の会」が三昼夜に亘り行われているので、家持の名は今でも地元にしっかりと根付いている。
 富山の文芸・文学は近世になり、実学、俳諧、漢詩など一部武士階級、町人、農民などを中心に発展していった。特に19世紀になって漢学を学び漢詩に親しむ者が多数あらわれたとされている。
詩才と共に漢詩の素養があった「大村正次」は昭和7年「日本海詩人」の廃刊後詩筆を絶ってから、女学生の前で漢詩と和歌の朗詠を行うなど、後年になって漢詩への傾斜が見られたのも富山の風土のせいなのかもしれない。
正次の「文字への渇望」止み難く、以後漢詩へと向かったわけである。

摂津国の怪人

不思議の人・詩人大村正次先生―幾度かの富山訪問に見聞きした体験に基ずく―

2020年01月16日 | 大村正次

昭和33年修学旅行「鎌倉の大仏」

推論: 富山の文学風土について(その一)

「富山県」は昔も今も、かっての藩政の名残があり、勤勉・勤労意識が非常に高い。ゆえに専業作家なる職業は意識になく、文学をするも者の大半はたとえ中央に進出したとしても専業ではなく、兼業する傾向が極めて強い。
角川書店の創業者・角川源義が、代表的な一例と言えよう。それを見逃し誤解するから、富山には文学者がほとんどいないように見えてしまい、文学史家も“富山は文学不毛の地“などとみなしてしまうのではなかろうか。
(富山文学の会より抜粋)

「正次」自身も、
「何分僕達は本務 • • の傍らやる仕事で實際は面倒臭くて、それまでに手が廻らないし、そうするには誰か専任のもの置かなければならなくなるし、この雑誌にそれ程の正賈気をだそうとは毛頭思ってゐないのである。」
(「日本海詩人」3-1号編輯後記より:傍点は筆者が打った。)とあり、兼業を嘆くではなし、ハナッから納得しているように見受けられる。
このことは、当時から半年は雪の中で過ごさなければならないという過酷な条件の中で自然と身についたものであろうことは容易に想像できる。言い換えれば粘り強く堅実な県民性なのであろう。

摂津国の怪人

やっと分かった母校逍遥歌作詞者、作曲者

2020年01月13日 | 大村正次

[北海道新聞 昭和26年7月6日付]

我が母校、北海道立旭川東高等学校には、単調ながら哀調を帯びたメロディーの逍遥歌があります。作詞者は大村正次という生物の先生であったことを最近になって知りました。調べた結果何と昭和初期の富山県では「日本海詩人」という詩誌の主宰者となり、詩集「春を呼ぶ朝」を刊行した抒情詩の草分け的な存在ということでした。
作者がわかって、その人となりを知るにつけ逍遥歌はわたしにとって特別な歌になってます。
特にその五番の歌詞・・
―かくまで遠く来しものを―
―故郷母の呼ばふなり―
大村正次は室生犀星と同郷の誌友なので、誰もが口誦める「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に相通じる抒情的な余韻を感じますが、逍遥歌は詩人・大村正次のふるさとを愛し母を愛する気持ちの発露なのだと思います。
詩集「春を呼ぶ朝」を読むと、あらためて恩師・大村正次は母と子の愛を詠う詩人であったことに深い共感と感動をおぼえるわけであります。

また作曲者はこれも驚きですが、当時の在校生・後藤功さん(昭和26年)であったことが判明、北海道の田舎の高校に作曲の出来る生徒がいたということは、二重の驚きでした。初老の先生と十代の若き生徒の合作であったとのことは、微笑ましくもあり、こののちこの歌を歌う際には必ずや思い出されることでしょう。(調査にご協力いただいた旭川市立中央図書館の資料調査室女性学芸員Mさんに感謝申し上げます。)

摂津国の怪人

旭川東高生逍遥歌 (←クリックすると同窓生・飛世政和さんの動画にリンクして逍遥歌が再生されます。)
作詞:大村正次  作曲:後藤 功

不思議の人・詩人大村正次先生 「巨人」

2020年01月07日 | 大村正次



天空の城・竹田城跡登攀に際して

「日本海詩人」第五巻八月號より



  巨 人
            大村正次
 岬――
 山脈やまの手がこんなところにきりたってゐた
 そいつはごつごつした甲羅のやうな指だった
 海は黙つて 深淵をめぐらし
 ときをり
 眞青な心臓をぶつつけた

(1930,8,9,阿尾の岬城址にて)

摂津国の怪人



不思議の人・詩人大村正次先生 北海道行きの理由の推測。

2019年12月31日 | 大村正次
備前焼作家・国指定伝統工芸士の肩書をもった陶芸家「松井陶仙」(1928生)の工房を訪ねたことがある。
「備前焼」は釉薬は付けず、1200℃にもなる温度で一週間ほど登り窯で炊き続けるという過酷な作業を重ねることによって自然釉でゴマ・火襷(←クリック)などが見られるのだ。

大村正次にとっては北海道に関しての知識が豊富だったことが伺われる。その理由の数々を列記すると・・・
1,宝暦期(1751~64年)以降の蝦夷地の開発発展に伴い、海産物・魚肥や様々な産物を上方にもたらし、一方、蝦夷地には米穀や自給不能な商品を送り込んだ役割を担ったのが「北前船」であり、北陸地域から台頭してきたのが北前船の存在であった。上方と蝦夷地の地域間格差を利用して莫大な利益を上げた。越中の場合、魚肥移入を認めた上に、地船重視による領内廻船の奨励方針に藩が転換した文政期(1818~30年)以降に北前船が多数登場したとある(富山県の歴史・山川出版社より)。従って「正次」の耳にも北海道についての情報の伝聞が入っていたものと想像する。

2.前出の「嵯峨寿安」は大村屋とは姻戚関係にあり、正次も一族であることから墓守をしたとの言い伝えられていることから、時代のズレはあるものの(正次2才までの二年間がラップするものの、彼の幼児期にある為、実際にはかなりのズレではあるが…)寿安に纏わる話があり、寿安没後のあと、一族に具体的ニュースとして伝わっていたのかもしれないとするならば、正次にとっては好ましい情報になっていたのかもしれない。その話とは、寿安はロシアに渡るべく横浜に入港したロシア船が函館に向かったと聞くと函館に赴き、そこでロシア領事館に居たギリシャ正教修道司祭ニコライと運命的な出会いをしたとのこと、ロシア語と日本語を教え合う関係が3年間続いたという。後に彼の後押しもあり念願のロシアへ渡ったことからも、「函館」の地は夢を育んだ地とも言え、寿安の行動が仄聞として、正次の北海道が好ましい所として映っていたのかも知れない。

3.「正次」の脳裏に大きな割合を占めていたものは、やはり富山県からの北海道移住であったろう。明治15年(1882年)から昭和10年(1935年)までの54年間で、各地からの移住総戸数は約71万戸に及んだ。その内富山県からの移住戸数は約5万4千戸、総戸数の約7.6%を占めている。最盛期である明治30年(1897年)~40年(1907年)の十年間で約6万人が移住したという。移住の形態は、明治初期は個人移住が多く、明治25年(1892年)貸付予定地存置制度(貸してもらった土地を3年かけて開拓すればその土地を無償で貰える)が設定されると、屯田兵移住では無く、「団体移住」が多く、中には大谷派東本願寺の働きかけなども関係しているとされている(富山県の歴史・山川出版社より)。大村正次にとっては、成功例、失敗例など身近に伝え聞く話題であったろう。

4.戦前の教育(教員)制度がどう言ったものかは詳しくは分からぬが、教員免許と文検に合格して、一定の教科を教えられるとなれば、資格さえあれば日本全国横断的に教えられたものと思われる。そうでなければ正次も富山から北海道旭川へとは決断できなかったであろう。そのことを踏まえて推測してみる。

5.仮に旭川中学から「生物」の教師のオファーが直接あったのなら、話は簡単であるが、その場合も直接、間接、何れに依って就職したのかわからない。どのような経緯が隠されているのか知りたいところである。実際、旭川中学に奉職する際には、上記の情報を知り得た立場として大きな判断基準になったものと愚考する。

6.「大村正次先生」は、敗戦の直前二十年七月三十一日付けで、北海道庁立旭川中学嘱託教師として渡道する(道正 弘著 抒情詩人 大村正次より)とあるが、「富山大空襲」(3000人弱死者を出した)があったのは8月1日~2日に掛けてのこと、空襲の時は既に旭川に居たのであろうか。まさに危機一髪、家族疎開という意味では大正解、文字通り空襲を避けての北海道行きであれば幸運としか言いようがない。

摂津国の怪人

不思議の人・詩人大村正次先生 その出身と家系

2019年12月29日 | 大村正次
大村正次の「春を呼ぶ朝」詩集題名は、最初「真珠」であったようだ。日本海詩人2-4号(昭和2年4月号)の発行予告は「真珠」となっているが、2-6号では「春を呼ぶ朝」にかわっていた。


壺制作:宝塚M夫人


 晩年の大村正次については、「シベリア横断の嵯峨寿安(注1)日本史綱の嵯峨正作(注2) 兄弟と大村屋とは姻戚関係にあり、…廃絶した嵯峨家のため、お盆になると嵯峨家のお墓またい(掃除)に懸命であったときく。」とある。(道正弘著 「日本海詩人」主宰者 抒情詩人大村正次)
「大村屋」とは如何なる家であったのか、調べた結果以下の通り推測する。

 大村屋とは、加賀藩における交通制度整備の折、(寛文二年、1662年)伝馬機能(参勤交代、領内要所間の交通のために人馬を供した。)を東岩瀬に集約、公用伝馬の継立を行う宿駅を置いた。安永年間(1772-81年)は大村屋半兵衛家、天保年間(1830-44年)以後は大村屋与右衛門・同真次郎家が知られるという。(富山県姓氏家系大辞典より抜粋。)交通手段が北陸線の全面開通(大正2年、1913年)により鉄道に取って代られるとしても、「大村屋」の一族と考えられるなら、繁栄振りも最後の頃になっていたのでは、と思うが、大正初期に師範学校への進学も経済的にもまだまだ十分可能であったかと思う。「正次」もその妻「キク」同様、恵まれた家庭環境に育ったものと言ってもよいものと思う。このことは、「当たらずとも遠からず」と思っているが、如何であろうか。

摂津国の怪人

(注1):嵯峨寿安(1840-98) 日本人として初めてシベリアを横断した人物、新川郡東岩瀬(富山市)の大村屋の出身。家は代々伝馬問屋を営み、父健寿は医者となり金沢で開業、安静四年江戸の村田蔵六(大村益次郎)の蘭学塾に入り、二代目塾頭となる。その後金沢壮猶館教授となり、明治二年加賀藩よりロシア留学を許され、翌三年横浜から函館を経て、ウラジオストックからシベリアを横断して、ぺテルブルクに赴いた。明治七年帰国。北海道開拓使を命じられる。後に失意のうちに岩瀬に帰り医者を開業するが、明治三十一年(1898年)広島で客死(富山県姓氏家系大辞典より)。大村正次二才時に亡くなったことになる。(後日改めて触れる予定だが、「正次」の北海道行きの理由の一因を成したとも考えられるので、記憶願い度し。)

(注2):嵯峨正作(1853-90)史学者であり東岩瀬村(富山市)の医師嵯峨健寿の四男。兄に寿安が
いる。明治25年上京、東京経済雑誌で「大日本人名辞書」の編纂にあたる。同二十一年独学の成果「日本史綱」を著す。菩提寺は東岩瀬の養源寺。(富山県姓氏家系大辞典より)


「不思議の人・詩人大村正次先生」 正次と彼を支えた妻のこと。

2019年12月26日 | 大村正次

「縄文のビーナス立像」(模)と蘭の切り花を活けた「花瓶」は宝塚M夫人制作

「大村正次」は明治29年(1896年)富山県東岩瀬(現富山市)に父松次郎、母キヨの長男として生まれる。大正5年(1916年)富山師範学校を卒業、同年東岩瀬尋常小学校の訓導(くんどう・旧制度の教員の職名、全教科教えられた。)を以て社会へ一歩を踏み出し、6年間教壇に立つ。この間同僚で新庄村(東岩瀬の神通川を挟んだ西側対岸にある。)出身の金岡キクと職場結婚した。(道正弘著「日本海詩人」主宰者 抒情詩人 大村正次より抜粋)
妻キクについては、道正弘著に「名門出身」とあり、「金岡姓」としては北陸財界屈指の名門(元々は薬種商、初代又左衛門は明治30年に水力発電による富山電灯株式会社を興した。)であり、その一族に繋がる者と仮定した場合に、経済的にも恵まれていたのではないか、と想像した場合、明治後期~大正初期に女性ながら師範学校で学んだということも理解できる。(金岡家は富山県民会館分館として今も新庄町に残る。)
キクは「大原菊子」のペンネームで「日本海詩人」に詩を発表しており、収集した資料のなかに大村夫婦の詩が並べて掲載されていた。(12月15日「屯田物語」)

摂津国の怪人


 のみ・・の音  大原菊子

朝日の裏庭で
鑿をうつ音がする
何かしら働きたいと
はだして水を汲んでゐる。

朝の教室の
白いカーテンの
ちょっとの隙間をみつけて
朝日がのぞいてゐる。
みんな美しいお下げなので
どの眸もよろこびに輝いてゐる。

ゆふべないてゐた未亡人が
けさ、朝日のなかで
子を背負ひ乍ら
せっせとあらひものをしてゐた。