待つ人の居る憂さ少し久女の忌 長岡ゆう
唐紙のこちらは物を思ふ部屋 〃
「待つ人の居る」ということは、幸せである反面、窮屈でもある。お握り持参で俳句に没頭した久女にとって、「待つ人が居る」といいことは、彼女の自由を奪うことにもなったことだろう。
「唐紙」一枚のあちらとこちら。「こちら」が、「物を思ふ部屋」であるならば、あちらは、共有スペースというところだが、唐紙一枚の薄さは、どこか現実的でもある。「滝」2月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
唐紙のこちらは物を思ふ部屋 〃
「待つ人の居る」ということは、幸せである反面、窮屈でもある。お握り持参で俳句に没頭した久女にとって、「待つ人が居る」といいことは、彼女の自由を奪うことにもなったことだろう。
「唐紙」一枚のあちらとこちら。「こちら」が、「物を思ふ部屋」であるならば、あちらは、共有スペースというところだが、唐紙一枚の薄さは、どこか現実的でもある。「滝」2月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
だが色々と俳句を学ぶ内にこの久女が直接、間接に影響を与えた方々の多さに驚きました。
彼女は大宰府で亡くなりました近いので。一度その跡を訪ねたいと思いつつ、まだ果たしていません。
胸に重く感じる一句です。
彼女の半生を読むと、何だか胸が痛みますが、
今の時代に生れていたら、と思います。
ゆうさんの二句、小さなつぶやきに共感です。