今日も秋晴れ、気持ちは良いのですが、若干の寝不足に午前中はアクビが止まりません。いけません、たるんでる証拠ですねぇ、緊張を持って仕事をせねば・・・・・・(だれだ!?そこで笑っているヤツは!)
体力もそうですが、最近会話の内容も妙に年寄り臭くなってきたように思えてなりません。
やれ、健康診断で何が引っ掛かっただの、寿命がどうだの、もっとこう、アクティブというか、活きを感じ取れるというか、そんな話題を持ち出せないものかと・・・・・
思えば、夢や仕事の事を真剣に話した時代もありましたし、なんだかカッカ燃えていましたよねぇ、それが、いつからこんなに冷え込んでしまったのか?
こと恋愛話にしても、息子の結婚はどうだとか、娘に彼氏が出来たらしいとか、自分たちの話などとんと語ることもなく、恋だの愛だのを真面目に語り合った若かりし頃が懐かしいばかりです。
昨日の昼食時
「○○さんの旦那さんが、亡くなったんだって」
「えっ?!だって、奥さんがこの前亡くなったばかりじゃなかったっけ?」
「そうそう、お二人ともまだ50代だったのよ、ちょっと早すぎるわよねぇ」
そんな話を中華屋の隣のテーブルでおばさま達が話しておられました。するとその話を聞いた同僚が
「バブさん、どうして男は奥さんが亡くなると長生きできないんですかね?」
「知らんよ、そもそも、旦那が年上っていうパターンが多くて、なおかつ男の寿命が女性より短いんだから、結果そうなるってだけなんじゃないの」
と答えつつ頭に浮かんだのがなぜか、美術史学者、小林太市郎氏の「魂の解脱」がどうのこうのという話でした。
もちろん、その場でその論理を語るほど私には知識がありませんので、
「あっ、でも小林太市郎っていう人が、それに関して何か言ってたような・・・・よし、今日帰って調べてみんから」
べつに調べるほどの問題かどうかは別としても、私自身、ふと頭に浮かんだ小林氏が気になってしまい昨晩12時過ぎに本棚をあさるハメになったのです。
そもそも、私は小林氏の著書をおそらくは読んだこともないのに、何故、彼の名を思い出したのでしょうか?
見つかりました、その原因となったのがこちら
吉田敦彦著「天地創造神話の謎」という、美術史も哲学も旦那と奥さん云々もなんも関係ないような本です。
「霊魂は何故生まれたのか」というなんともおどろおどろしい章の後部に小林市の『王維』の内容が少し紹介されている部分がありまして、私が読んだときによほど気になったのでしょうかしっかり赤ボールペンでラインが引いてありました。(記憶には無いのですが)
だから、急に小林太市郎なんて名前を思い出したのですねぇ
けだし、魂が飛揚するとき、それひとりとするのではない。かならず相愛し共鳴する魂とつれだち、あるいはまた魂を救うて魂としてともなってゆく。・・・・・・
いかんせん小林氏の文章は難しくていけません。要約すると女性は本性的にこの世に執着する傾向が強く、解脱することが難しいばかりか、男の解脱までもさまたげる、そしてそのような女を、愛の力によって鈍化し、ともに本来の故郷である天界に連れ帰ることが、恋愛術アルス・アマトリアの奥義だという・・・・・
これでも、何のことだか今ひとつ分かりません、さらに、一種男女差別的雰囲気も感じられるし、奥さんを亡くした旦那が早死にする事とは何の関係もなさそうに思えますが、
その後の吉田敦彦の解釈が頭に引っ掛かっていたのだと思います。
「小林説を裏返せば」との条件で
女性の束縛に身を委ね、それによってこの世の安住の境地を得ていないような男は、いつどんな突飛な行動に走るかもしれず、世間的にはまったく信用できぬだめな人間だということになる。この世から解脱するため、女は男の愛に助けられる半面、この世で生きるためには、男には、女の支えが不可欠なのだ。夫婦の意味は、ここにある。
男女の肉体の形が違っているように、魂もまた男と女で、成りあまれるところと成りあわぬところの関係が逆になっていると認めても、けっして女性を蔑視したことにはならないだろう。
というものでありまして、いくぶんこの解釈でも男女差別的雰囲気を完全に払拭は出来ぬ気もしますが、つまり、男がこの世で生き抜くためには、肉体的だけでなく魂の域においても女性が不可欠であり、それを最も明確に表す単位が夫婦であって、夫にとって妻を亡くすことは、この世での支柱(女性は本性的に持ち合わせているけど、男性は持ち合わせていない)を失うことであり、生きる術を失うことに等しということ、逆に女性はこの世において自分自身が支柱であるが故に、生きる術を失うことはないから、奥さんを亡くした旦那が早死にするのはそこに起因するのでは??????
まっ、これはまったくアテにならない私の解釈ですが(笑)
それにしても、男女の問題は歳に関係なく不可解であります。
はて?これはひょっとして、
恋だの愛だのを真面目に語り合った若き頃には戻れなくとも、じつに大人っぽい男女の話が、我々だからこそ出来るということもあるのかもしれません。
まだまだ、投げちゃいけません。この歳だからこそ出来るアクティブな会話、可能性は充分にありますよね。
さて、今日の一枚は、ドン・チェリーです。
どうも今年の秋は「フリー系を素直に聴ける寂しさ」が私の中に宿っておりまして(笑)このチェリーのブルーノート2作目を紹介します。
曲の構成は、A,B面それぞれ四つの楽章で成り立つ連続演奏で、「ピー・プー・ヒェー」といったある種雑音とも取られかねない(人によってはこれがフリー・ジャズの特徴と思っているかも知れませんが)異様な音は、ビックリするほど入っていません。
エドワード・ブラックウェルのドラムが、まさにチェリーの描かんとする世界を強烈に演出して、フリーなシンフォニー(?)、私の中では最もフリーらしい演奏を聴かせてくれる一枚だと考えています。
マイナー調で始まるB面をじっくりとお聴きになってみて下さい。20分という時間が違和感なく、いや短くも思えたら「フリー系を素直に聴ける寂しさ」があなたにも宿っているかもしれませんよ。
SYMPHONY FOR IMPROVISERS / DON CHERRY
1966年9月19日録音
DON CHERRY(tp) GATO BARBIERI(ts) PHARAO SANDERS(ts,piccoro) KARL BERGER(vib,p) HENRY GRIMES(b) JEAN FRANCOIS JENNY CLARK(b) EDWARD BLACKWELL(ds)
1.SYMPHONY FOR IMPROVISERS
2.NU CREATIVE LOVE
3.WHAT'S NOT SERIOUS
4.INFANT HAPPINESS
5.MANHATTAN CRY
6.LUNATIC
7.SPARKLE PLENTY
8.OM NU
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