ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

いじめはなくならない。

2007年01月11日 | 世界の問題
 昨年から再び「いじめ」がマスコミを中心として大々的な問題としてクローズアップされている。

 昨日も男子小学生が学校のトイレで自殺し、また「いじめ」を苦にした自殺かと話題になっている。

 今朝、今年88歳になられる元裁判所勤務のご高齢の方とお話していると、この「いじめ問題」も話題になった。

 彼曰く、「いじめはなくならない」人間は本質的に「いじめ、いじめられる存在なのだ」とおっしゃるのである。

 確かに私も「いじめ」がなくなるとは思わないが、幼い子供達の「いじめ」の現象に気づいた大人たちは、子ども達と共に、いじめられることの苦痛や悲しみを分かち合える様に話し合う必要はある。

 何故、「いじめはなくならない」かと言うと、ヒトという生物は特に「心でものを考える」が故に、自分に都合のいい「自我」を全うするために、他者や周りの環境を常に自分の優位に持っていく、自分の存在感を示しながら、自分を守る性がある生物なのである。

 だから、子ども達に「いじめは良くない」と言えても、大人自身がいじめの蔓延する社会で働いたり生活している姿や言動を、子ども達は見聞きしながら、「生き方」を学んでいることになるのである。

 すなわち、先生や大人たちは「いじめたらアカン!」と言いつつ、校長、教頭ら管理職や教育委員会から「イジメ」られていたり、会社や地域で多種多様なイジメを経験しているのである。

 たぶん有史以前から人間が共同生活を始めると、何らかな優位性や隷属性が生じて、いつのまにか当たり前の主従関係や上下関係が生まれて、その両者間に「いじめ」の本質が蓄積していくのである。

 ただ、そうした人間の本質と言うべきか性をストレートに表現したり行動に移す幼少期から成人に至る過程で、顕著に見え隠れする「イジメ」が露呈しているのである。

 一方で大人の「イジメ」体質は、誰しもが気づいてはいるが、組織や企業の営利や目標のために、多くは我慢し忍耐しつつ「当たり前」の如く見過ごしたり、気にせず過ごしているに過ぎないのである。

 行政への提言や議論を主にすべき議会機能の中にいる議員たちの大人集団にも、明らかな「いじめ」や「嫌がらせ」「嫉妬」「面子」が存在していて、驚くばかりの実態が時折露呈するものである。

 テレビや新聞で語る教育関係者や政治家たちは、「いじめている君たちへ」「いじめられている君たちへ」とそれぞれ各々のメッセージを送っているが、ほとんどが美辞麗句であり、上辺の否定論に過ぎない。

 誰もが「いじめ」をなくしたいが、いじめはなくならない。だからこそ小さないじめに気づいたら、時間を作って話し合い、お互いの心を包み隠さず語って、少しでもお互いが理解できるようにする努力は必要である。

 相性が合わないとか気に食わないことはあるだろう。でも相手を攻撃したり苦しめても、何にもならない。自分が優位に感じるのは心の中だけでいいのである。

 
コメント (1)
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