ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

阪神淡路大震災記念日

2007年01月17日 | 季節の話題
 1995年1月17日、火曜日の早朝5時46分。阪神地域に震度6、のちに7
だったと言われる大震災が発生した。

 京都府南部の丘陵地帯の新興住宅のPC構造の二階建ての我が家で眠っていたが、朝方の大きな揺れに、布団の中から傍に立てかけてある木製の本箱が倒れてきたら大変だと手を出して押さえたのが、最初の行動であった。

 それから大変な地震だと感じて、テレビの速報やニュース報道を見ながら、多くの死傷者が出る大惨事だとの認識を徐々に持つようになったのである。

 死者が五千人を超える大惨事とは感じていなかったが、翌日にかけての詳細な報道を通じて、何とか私達にも出来る救援活動をと思う様になって、近くの知人の実家が神戸市灘区で、ご両親が被災されているとのことで、多くの救援物資を急遽集めて、翌日の夜にワンボックスを借りて、神戸へと向かうこととなった。

 当時、私は火曜、水曜日も移動販売の有機八百屋をやっていたので、水曜日の配送営業を早く済ませてから、救援活動に赴こうと急いでいた。

 地元の木津川の通称100円橋を通って、城陽、宇治方面へと軽トラックの八百屋専用車で国道を越える陸橋をアクセルを踏み込んで走っていると、赤い旗と共に警察官に停車を求められた。

 スピード違反の取締りであった。隣の乗用車のおじさんは「こんな車がスピードでるわけない」と警察官に抗議してくれたが、私は「何やってるの?、阪神間の大地震で大変なのに、支援に行かなくていいのか」などと口走りながら、少しでも早く仕事を済ませて神戸へと、警察官に無愛想に対応し反則切符を切られた。

 午後10時過ぎにワゴン車の屋根にも満載の救援物資を載せて、助手席には神戸の大学生と実家が灘区の知人を乗せて、三人で警察署で発行された緊急車両の認可ステッカーを貼って、深夜の阪神国道を西へと走ったのである。

 震災のための道路不通や救援車両の集中による渋滞もあって、いつもなら二時間かからない距離が約八時間もかかって、ようやく翌早朝に神戸の第一目的地に到着したのである。

 知人のご実家は倒壊を免れていたが、半分ほどの救援物資を下ろして、後は長田区の教会、東灘区の小学校へとブルーシートや布団、トイレットペーパー、食べ物などを分配した。

 最後にJR線沿いの路上にテントを張り、小雨の中自炊されていた地域の人々に、私が扱っていた牛乳や豆腐などの食品をお渡ししたところ、とっても嬉しそうに喜んでいただいた。

 その救援活動をさらにもう一度、二度と続けて、議会の委員会の研修視察の予定を公衆電話から断った記憶もよみがえってきた。

 また、神戸行きの夜、知人の奥さんが「ゼナ」というドリンク剤を差し入れてくれ、一本3000円もすると後で聞かされて、急に元気を貰ったように感じた記憶も蘇ってきた。

 大震災から12年、猪年の災害であったが、今年は災害に見舞われない年になればと祈りたいが、いざと言う時の備えと近隣の方々とのコミュニケーションが大切だと改めて痛感しているのである。

 
コメント (1)
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