ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

小田実氏の死

2007年07月30日 | ガリバー旅行記
 自民党の歴史的大敗という参議院選挙結果の大騒ぎの中で、私達の青春時代の「何でも見てやろう!」の著者で、後に「ベトナムに平和を市民連合」を結成し、「週間アンポ」等の発行や、多くの小説、エッセイ、そして阪神大震災を契機とした、自然災害被害者への公的救済法の成立にも努力した「小田実氏」が胃がんのため今朝帰らぬ人となった。

 私達の世代の「海外への渡航」の夢と現実のきっかけは、小田実氏が東大を出てフルブライト奨学金でハーバード大学に留学するという秀才だったのに、世界を若い身ひとつで貧乏旅行するという「何でも見てやろう!」という精神に勇気づけられたことであった。

 また、60年代後半の学生を中心とする「ベトナム反戦、安保闘争世代」を精神的にも活動的にもリードした「べ平連」の中核的リーダーであり、独特の早口の大阪弁で睨みを聞かしての弁舌は、他を寄せ付けないものがあった。

 お年を召してからも、西宮のお家が阪神淡路大震災で崩壊するという被災経験者として、自治体や政府に被災者救援のための公的支援を訴え続け、一定の救援策を獲得する原動力となった。

 彼の眼光はいつも鋭く、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたが、私は阪神淡路大震災後の神戸の町並みを市民派議員の仲間達と見て回った際に、ご一緒させていただき、少しお話させていただいた記憶があるが、その時の彼は言葉はきつく厳しいのだが、大阪人としてのウイットに富んだ冗談も飛び出して、屈折した中に、おもろいおっさんの一面を垣間見たことがあった。

 50歳にして北朝鮮籍の女性と結婚されたこともあって、益々韓国、北朝鮮を含むアジアにおける、日本の戦後処理や責任問題について鋭く言及し、一方ドイツ、アメリカなどと比較しながら、日本国憲法の「戦争放棄」の精神の大切さと非軍事化の政治的主張は強く持っておられた。

 今から振り返れば、土井たか子社会党時代に東京都知事候補として推されたことがあって、小田氏自身もその気になられたと後に聞いたが、結局政治家としての舞台には一度も立たれず、常にアウトサイダーとしての鋭い論客であった。

 関西の革新的市民運動の常に中心的存在として、小さな集会でも出向いて話され続ける情熱は目を見張るものがあり、私如きも度々、彼の「言葉」に突き動かされたり、深く考えさせられる出会いがあった。

 今、帰らぬ人となられた「小田実氏」の冥福を祈ると共に、強い眼光と言葉の裏に、孤独と人の悩み悲しみを体感された深い精神が宿っていて、そこからの平和と人々の暮らしに対する優しい思いやりがあったと推察するのである。

 彼は、今回の参議院選挙での自民党の惨敗を、どのように感じ発言したであろうかと、亡き人の声を想像しながら、日本の転換期のひとつになるであろう、今日という日を深く記憶にとどめたいと思うのである。
コメント (1)
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