まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

:憲法と元号 安岡正篤の鎮考する撰文  あの頃

2024-06-26 15:04:11 | Weblog

 

         

 

熱狂偏見が時を経て鎮まりをもった時、女神は秤の均衡を保ち賞罰の置くところを変えるだろう」意訳 

東京裁判のインド選出判事  ラダ・ビノード・バル博士 

※ 世の中の熱狂と偏見が静まり、人々に落ち着いた思考がよみがえり、改めて過去の熱狂と偏見に満ちた群動を想い出し、心の平静を取り戻したとき、当時の正邪、善悪の判断すら変更しなければならない状況になるだろう。

 

以下 旧稿ですが・・・ 

 また、撰文で騒いでいる

いつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。

 

ことは憲法前文のことである

理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。

近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を変えなくてはならない。

 

もちろんその通りだが、どうも胡散臭い。

何年か前に色々な前文案が出た。中曽根試案というものもあったが、「我々は・・」と団塊の学生運動の臭いがする新聞記者が書いた説明調もあったが、市民革命の熱気がくすぶるような文だった。

 

また憲法九条が争論となっているが、もともと軍閥や硬直した官吏が暗雲として時代を支配していたことが、頸木を除く意味で多くの人々が納得した条文である。当時はその構造転換を憲法に望んでいた。

自衛権だの交戦などはさらさら念頭にはなく、これさえ認めれば鬼(GHQ)の歓心を受けるという阿諛迎合の徒もいたが、この種の人間は往々にして弱きものには四角四面の薄情な態度で応ずる官吏や知識人が多いが、その系列を踏むものが時代や大国に再び迎合している。

 

それらには憲法前文などは、端からつくれない。撰文する情緒もないはずだ。だだ、いたずらに時と知労を稼ぐだけだろう。

 

安岡正篤氏は時節の岐路に多くの撰文や監修を遺している。

古人は「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と遺した。

もちろん天皇の御詠みになるご意思を含む和歌もそうだろう。

 

よく偽装弟子と称するものの屏風に安岡氏のエピソードが飾られる。

今どきは不朽となるべき公文書の改竄が頻繁に行われている、それも政権の恣意的都合によってだ。

条約にも密約がある。一部の者しか知らない、問題物は廃棄する。政治家や役人は凡そ二年ごとに変われば、知っているのは相手国だけ。

これでは言いなりだ。いくら知恵を絞った文章でも、裏があり、廃棄もあるのでは、意味をなさない。

 

安岡氏のことだが、

終戦の詔勅に朱(添削)を入れた

元号「平成」の起草者

中華民国(台湾)断交に際して蒋介石に親書撰文した

色々あるが、その理由の一つに依頼する側の訳がある。それは「安岡先生なら・・・」という安心と保全だ。

しかし,ご長男は「増幅された印象が独り歩きしていますが、父は教育者です。附属の印象価値をあげつらうのは学問の堕落と考えていました。」

 

   

  吉田茂の岳父 牧野内大臣

 

大久保利通の縁戚で内務大臣だった牧野伸顕にあてた多くの建策がある。そのなかで「天子論、官吏論」が賢読され多くの重臣に紹介された。その縁で宮中派であった近衛首相、そして海軍、大東亜省との関係を築き、終戦工作にもかかわり、牧野の縁戚吉田茂から「老師」と敬重され、その吉田の系列である保守本流の代議士から、゛頼り゛にされ多くの撰文や添削監修を依頼されている。

 

ここに頼めば安全で保全にもなるという安岡ブランドに対する、ある種 安直な考えもあったようだ。

 

だだ、安岡氏は筆者に「代議士は人物二流でしか成れない」「いまは、デモクラシ―変じて、デモ・クレージーだ」と言い聞かせるように呟いたことがあった。

 

あるとき靖国神社出版の「世紀の自決」を案内されたことがあった。

その巻頭は本人が撰文したものだが、戦前戦後の経過を知る当人が数日を要して鎮考した文は何度読んでも新たな感慨が甦る。

恩讐を超えて複(ふたた)縁が甦るとき・・

まさに、終戦の詔勅に「万世のために太平をひらかんと欲す・・」と挿入した継続した意志が読み取れる撰文である。

 

薄学を顧みず縁者の頌徳文をお見せしたことがある。

そのときは安岡氏のことを良く知らなかった。だだ、近所の古老に連れられてきただけだった。「その頌徳文をもってきなさい」と言われただけだった。

 

三回読みなおしていた。十分くらい静寂だった。

なおして宜しいですか

声も出さず頷くだけだったが、傍らの赤鉛筆を手に添削していた。またそれを二回ほど読みなおして頷いた。そして面前の小生を凝視して発した。

 

文書は巧い下手ではない。君の至誠が何十年経て、人物によって目にしたとき、その至誠が伝わり、それによって意志が継続され世の中も覚醒する。文とはそのようなもので時節の知識に迎合したりするものは文でもなければ遺すことはできない

 

虎やの羊羹をつまみながらの応答を取りまとめた内容だが、あの読み直す緊張感と集中力は、些細な対象でも真摯に向き合う厳しさと、初対面に係わらずいとも容易に応ずる優しさは、後日検索した巷間騒がれる氏の印象ではなかった。

傍らの煙草は両切りのピース、「禁煙もよいが、欣煙,謹縁、ホドを知って歓び、謹んでたしなむことで毒にならん」と、洒脱さにも驚いた。

 

    

     郷学研修会     中央 安岡講頭  右 卜部皇太后御用掛

 

そして「郷学を興しなさい」、それには「無名でいなさい」、それは「何よりも有力への途です

嫡男の安岡正明氏が講頭となり「郷学研修会」を発足した。

父が描いたものはこの様なたおやかな集いです。目的をつくり、使命感を養い、そこから嶮しい真剣な学問が自発的に始まるのです」

 

「父は単なる教育者であり、自身は求道者です、ですから教場の掲額には「我何人(われ、なにびとぞ)」と、自身を探究することを目的としたもので、ステータスや名利を獲得する道具にしてはいけません」

 

いわんや、父の説や訓を寸借したり、我利に応用したりする方もおりますが、それこそ学問の堕落だと云うでしょう。父は時局を観照して古典の栄枯盛衰を鑑としましたが、政局は語ることはありませんでした。あくまで人物の姿を見たのです」

 

「時流に迎合するな」「歴史を俯瞰して内省し、将来を逆賭する」

※  「逆賭」将来を想定し、今打つべき策を施す

 

憲法前文はそのようなものだろう。なによりも陛下が声を発せられて御読みになってもおかしくない撰文であってほしい。心を共にするとはそのような深慮が人々にとっても必要なのだ。

 

 

参考《或るときの小会の研修要旨

元号平成は、『内(うち)平らかにして外(そと)成る』、あるいは、『地平らかにして天、成る』という中国古典よりの撰名ですが、この草案作成は小会、郷学研修会の提唱者であり、善き訓導を戴いた安岡正篤先生によるものです。

 大平内閣当時の元号制定法案の成立後、竹下内閣当時、あの小渕官房長官が元号発表会見で掲げた平成を覚えている方は多いと思います。

 当時、昭和天皇在位中の撰文では不敬あろうとの理由と、故人の撰文では不都合と云ことで伏せられてはいましたが、後年、竹下氏総理退任後、安岡先生を偲ぶ日本工業倶楽部での「弧堂忌」で懐古されていたのを筆者は記憶しております。

 

 数人の有識者の案が提出され、しかも誰が考案したかも判らず、キーポイントとなったのは、M明治、T大正、S昭和のアルファベットの頭文字と同じでは関係文書の年号記載の齟齬があるという事でした。

例えば「修文」のSは除外され、そこで「平成」の頭文字はH。そこに会議を仕切るのは竹下の腹心、小渕恵三官房長官。会議の雰囲気が一挙に傾き、選考の流れとなった。もともと、「平成」の草案は起草された後、官房長官室の金庫に保存していたものだ。

 その竹下氏は、地元選挙区の挨拶でも同様なことを述べている。

 

 ここでは、ことさら誰がとか、どんな理由で、とかを云々することではない。

 だた、前記(※)にある小生との応答で厳言した意に沿えば、「記されたものは天皇の権威とその由縁ある人々(邦人)の平和に暮らしを願い、時代の更新を表すものでなくてはならず、かつ世俗の雰囲気に惑わされず、後世に継承するものでなくてはならない」と、撰文考案の真意を察することができなければ、単なる元号騒動や古臭い記号表記としてしか思えない風潮になってしまいます。

元号制定法案は、その消滅を恐れて成文化したものですが、今の機会は、撰文の考案と、その真意や願望を想起する縁(よすが)として考えることが必要なことだと思います。

 

       

 

この平成の意にあります『内、平らかに(治まって)、外、成る』ですが、翻って地域の再開発に関する不祥事に際して賢人にその旨をお話したところ、井上靖著「孔子」の1頁に付箋を付け、一章に赤鉛筆の傍線を記した著書を頂戴した。それは孔子が「まちづくり」の要諦を弟子に問い聞かせている場面の言葉でした。

『近きもの説(よろ)こび、遠きもの来たる』

ならば、できないのはなぜか、と小生の拙問に

『トップリーダーのノンポリシー、とくに名利に卑しい人物では尚更だ』

いつもの問答ですが、根本を観た直言は「人物を得る」ことの大切さを説かれました。

 

今回、講師の説かれる備中板倉藩の改革者、山田方谷の誓詞にも同様なことが記されています。

『・・・あの人は真面目な人で、他人を騙さないから信用ができると、世間から信用されれば財はいくらでも流通する。だから、理財の道はまず信用からであります・・』
 これは単なる議論ではなく、貧乏で風紀も乱れていた板倉藩は山田方谷の改革によって、旅人がひとたび藩内を訪れるとすぐ分るというくらいの事績を上げています。

 当時、口を開けば金、金と言っているばかりか、各種税金は獲れるだけ取り、また各種の節約も数十年になったが相変わらず借金は増大していました。

 果たして理財の運用のミスか、人間の知能の問題かというと、そうではありません。

【国家社会の大事を処理する者は、事件の問題の外に立つて、大事の内側にちぢこまらぬことが大切】、と説く。

これは方谷が説く「理財論」を通じて言わんとする根本的見識なのです。

 

社会は理財の流通がよく、安全で人が集まる、それは改革の当事者トップリーダーの胆識(腹の据わった行動見識)があってこそ可能なことであり、郷土(ふるさと)作興のための指導者像であるといっています。

それは改革に対する勇気と信望が集う清廉、そして鎮まりをもった姿勢なのでしょう。

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