まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

おんぶと抱っこの 「戦争が無ければ平和という欺瞞」  2015あの頃

2022-12-23 01:37:02 | Weblog

               内緒・??、いや「言わないでください」・??   習さん、馬さんの国共合作

 

無いに越したことはないが、地球の表皮で、いつも、どこかで起きているのが戦争だ。

その理由は意地とメンツと食い物と金が大きな理由だが、こうも続くと人間種の遺伝的特徴のようにもみえる。

「平和」は戦争と戦争の争いのない間を意味するというが、恒久平和は「安寧」によって表わされる。戦いは無いに越したことはないが、無いからと云って平和だとは限らない。

平和で困るものもある。かといって平和が反戦同義のスローガンだと、すべての冠につけられ唱えられても理解に苦しむことがある

 和して平になる(平等なり落ちついた状況)で、それが本当の実現なら理屈では文句はないが、もともと身体や労働量や質、年齢など異なる七十億の人間が同じ分け前では、逆に不平が出る。

「平ならず(不平)を、平すれば(平均すれば)、平ならず(不平が出る)」

それは、古典や諺にある隣国の平和に対する考え方であり、真理でもあろう。つまり、あり得ない、意味のない言葉なのだろう

 平和時には幸せがある、戦争もない、といわれても、問題はあっても受験戦争や格差貧困、官民格差など、既得権益の増長は是正されることはない。

先の戦争には様々な後付けの理屈がある。亜細亜は解放された、軍国主義を断ち切った、平和な自由と民主が到来した、愛国心がなくなった、などさまざまだが、その前の戊辰戦争も幕府の封建制が倒れた、薩長の藩閥政治が横行した、近代化した、涵養した情緒が融解した、など、これもさまざまだ。

 戦いは個別の勢力が権力を奪い合う、あるいは別の派や種を駆逐することだが、負ければ従属の徒となって、異なる習慣や掟に拘束される。民族の場合は暦を変えて慣習をも変える。

国対国の戦時には国民も緊張する。敗ければ奴隷だ。

 ローマは奴隷がいたが、宗教や慣習には寛容だった、ゆえに異民族でも支配地ではコアとなる情緒を除いて同化した。アメリカもその意味では似ていた。有史以来と云われた先の敗戦と占領は、弱体化政策とはいえ大方の日本国民は真の敗戦の意味と亡国の悲哀は、多くの歴史に見る国や民族間の争いの後に記述された悲惨さは少なかった。だから負けるとはこのような事なのかと、惨禍は忘却の彼方に追いやった。

アフリカの民族間の虐殺、中東での宗教派別の戦闘、漢民族による満族・チベット族の駆逐、いつ果てるとも解らない迫害と惨劇が続いている。

 平和が熟れ.慣れてくると言葉と行動の自由度が増す。そして、湧き出る数多の欲望が人々の間で衝突する。その一つである選択の自由は、個々が協調性を失くして競い合い、嫉妬や怨嗟を自ずから招来する。

経済戦争、受験戦争、交通惨禍、これも平時の戦争だ。

 

 

           

             蔣さん  毛さん

 

また平和は人生観や成功価値を歪めることがある。いや歪められた価値が現世の唯一の価値として人々に浸透してその追及に埋没するようだ。

一つは肉体的衝撃だ。その端緒は肉体的負荷のかかる労働への怨嗟だ。それは「好きなことをやりたい」というなかに、いかに楽して、自由に生きたいという欲求だ。

労働対価の価値よりも、金はホドホド、人の関係も希薄でもいい、ひとり夢想したような世界で干渉されずに生活したいという青年が増えてきた。

 それは、一昔前の立身出世、そのための附属性価値を高めるための学校歴や資格、名誉に財力、はたまた容易に目的に近づくすべである縁戚などは無意味な人生観となり、ときに無価値となるか、諦めの環境に安逸となる生活となっている。

 これを良しとするか、嫉妬や怨嗟に進むかは各々だが、その俯瞰した世界の姿に問題意識をもつわけでもなく、突破したくても気力は萎え、あれもない、これもないと親や他人を怨み、偏狭な世界に陥る人たちもいる。

戦争は不自由だ、とはいうが集団での階級は役割の持ち分として当然ある。しかし一面では局地戦ならまだしも、総力戦は外に敵を排し、内に世代や人間そのものの更新を促す環境がある。敗け方、勝ち方にもよるが、多くは逃げるか、向かうか、責任を追うか、結末は没落と新興が訪れる。

 

           

           台北の小学校

 

                                   

                                    生徒が自主運営する朝礼の国旗掲揚

 

平成元号は「内、平らかに、外、成る」の意がある。戦争でも銃後の守りがあり、外交でも内政の充実がなければ成り立たない。舞台の背後には楽屋もある。

世俗では、部屋が散らかり、習慣的な清掃もなく、出かけるときは華美に言葉遣いまで変化させて見栄的散財をする女房なら家庭も教育もままならない。反面教育もあるが、それは社会の一部の現象であるべきだ。これを内政と外交に当てはめれば、政治も近いところをたどっている。

 

もちろん「地、平らかに、天、成る」ともなれば、震災地で陛下が海側にお進みになり、低頭する行為は、天に対する寛怒を請うことであったと読み取るべきだろう。どこかの元知事が「人間の行為に天が罰を与えた・・」つまり,バチが当たったという浅薄な戯言とはことなる姿だ。

天は、罰は与えない。「天」それは各々が希求する理想的な空間なのだ。居心地がよいと安住したり、悪いと恨んでも、もともと空間をコントロールするのは己そのものだからだ。

なにも、天に神様やエンジェルが都合よく存在しているわけではない。

 今は一世一代の元号となっているが、明治以前は天変地異や疫病などが流行ると,改元した。一代で何度も元号を改元したこともある。その意は「祷りが足りなかった」だ。

 

         

               中正記念堂

 

陽明の言を借りれば「外の賊、破るは易し、内の賊、破るは難し」と説く。

平和もそうだ。内の安定は、外の平和よりはるかに難しい。だから為政者は外で気勢を上げる。比較し、脅し、金を配り、非難する、ときに武器を以て攻め立てるのがそれだ。しかし、前記したような内となる国内問題には戸惑っている。確かに内の賊は難敵だ。

その多くは、欲望の多様化と滞貨した浪費が原因だ。

 どうだろう、真に平和と感ずるものを難しくしているの要因はどこにあるのか、一つの切り口が出来たのではないだろうか。

平和は求めるより、自作したほうが満足感はある。

勝手な妄想も自由だ。人に同調を求め、相手の責だと仲間を募ってデモをするのもいいだろう。それが平和なら、その空間に入るものもいれば、入らないものもいる。

 戦争は負ければ他人の空間で息をしなくてはならない。ニンニクやラード、バターの臭いもある。記憶力が乏しく、競争も得意ではない、身体能力もなく、まして財もない。それは安易な宿命論や社会の怨嗟として堆積する。やはり死ぬのは怖いのか。

 平和ならばこその敗者はある。戦争のグランドと、平和と称するグランドにも弱肉強食はある。各々の成功価値も異なる。勤労と怠惰、緊張と散漫、無礼と礼儀、虚偽と正直、どちらを選択するかで達成感も異なるだろう。しかも、それが軋轢として人々は争い、ときに闘う。

 それが美しい国を標榜する国内の実相だ。

ちなみに、それも掲げる平和論と同じで、「清く、正しく、美しい国」でなければ、スローガンでしかない。 安倍君の唱える「美しい日本」は、清く、正しい人びとがいる社会だが、これとて片腹が痛くて口ごもる。

先ずは国内の平和感覚への思索、つまり人の動向をつかさどる成功価値(人心)の更新に目を向けなくてはならないと考える。そこから戦争も平和にも新たな観点が生まれるはずだ。

残念ながら政治にも教育にもその機能はない。それは与えられた課題を偏狭に解いたり、人が代わりに為してくれるものではなく、己の責として考え、行うべきことだと云うこを忘れているかのようだ。

 だっこの仕方が悪い、おんぶの背負い方が悪いと泣く赤子ではないが・・

 

イメージは一部、関係サイトより転載

 

 

 


 [寳田時雄1]ンクはな

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