津軽ヨシ人形 木村ヨシ作 「孫文と側近山田兄弟」
親和力とは化学の世界で、より似たものが結びあう力の姿を言うらしいが、親しく和する、つまり人間に当てはめれば素朴に仲良くなる状態をつくる包容力なり、理解力だろう。安岡正篤氏は、ことを新たにすることのオンである「シン」を親しむと置き換えて「大学」講義で述べている。大学は四書五経にある「大学、小学」のなかのことで文部省官制校の類では「新」を「親」と言い換える感度は教えない。
親しく和することと、新たに和することも和することは変わりがないが、こと古典にある君臣の問題となると大きな隔たりがある。
宰相が任を退くとき出処進退を騒がしくいわれるが、進むことも退くことも決断できない人物にそもそもそれを説くことには無理がある。よく推戴されてその任に就くが、往々にして辞任は悲哀をかこうようだが、力を残して退くことは稀である。
ときには氏(うじ)でいう出生や育ちまで云々され、遠い過去の国籍出自まで探られる始末である。スパイやいざとなったら逃げだす危惧なのか解らんが、あの元の宰相であった耶律楚材も中央アジア系の色目人だった。
聖徳太子のころの秦河勝も渡来人である。ただ彼らは賢人だった。楚材は勇猛な兵を率いる宰相であり、哲人、としてもその能力を余すところなく燃焼している。今騒がれているのは何処か名利に目ざとく、上に諂い、下を蔑む、人を信用せず屋敷は塀たかく、明け透けな色、食、財への亢進性がある。
近頃、日本に祖をもつ者も同化し始めている。つまり貪りが激しく、防衛本能が際立ち責任の取り方が曖昧である。たしかに元々武士以外は形式的にそれを要求されなかった。他人が行う討ち首獄門ではなく切腹にて自裁する権利、つまり名誉があった。あるいは弁護士のような三百代言などを要しない潔さがあった。それは成ってはいけない人間が成るということであり、選挙という選別の土俵もおぼつかない足元になっている。
また、土俵を構成する大衆も選挙や政治をイベントのように眺めているフシがある。そんな種々雑多の覗きや嘲りのなか、いかに身を処すかは、たしかに至難の業である。注目される側もさるもの、逃げるが勝ちと病気と称して病院に逃げ込み、そのまま出るに出られず本当の病気になり事後の処理までおぼつかないものもいる。それは、成りたくてなったものか、床の間の石で都合よく推戴されたものか、何れにしても双方とも程度が悪い。要はホドの問題だろう。
さて、『辞めろ!』と、与野党問わず売文の徒や言論貴族、はたまた芸人やタレントが参戦し聴くに堪えない駄論を騒々しく発する姿は、侮られる本人もどうしていいか解らない状況だろう。政権交替で攻守を替えたのも、つい先頃のこと。その前は彼の仲間との言いがかりに約一年ごとに入れ替えを迫られた野党も、いまはうんざりして元気がない。代わったところで、また同じ状況がみえているからだ。その点の先見の明は利くようだ。
ペルー元大統領 アルベルト・フジモリ氏
大統領候補となった ケイコ・フジモリさん
親しく和すが、触媒仲介がウイルスになることもある。
また、巷間言われている触媒は政治資金という金もしくは便宜供与である。
いまでも金を集められるものが選挙に当選し、地域内利権、省益利権の撒き餌に群がっている。
それらが親しく交わると
「上下交々利をとれば 国危うし」
上も下も金を追い求めれば国は滅ぶ
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
愚者は金に集まり、なくなれば散り散りに離れる
つまり交わりは利交、詐交、熱交となり、男子の淡い交わり(淡交)など亡くした世界となる。それは民衆も政治家を現世利益の獲得量を追及する役割とみていることも彼らの真の政策親和力を妨げている。だかもっとも妨げているのは、欧米植民地の地域撤退時の謀りである分断統治、つまり同民族の統合調和を妨げるよう異質な宗教(思想)なりを扶植し、つねに争いの種を残して影響力を温存する、あの手に似ている。
表面は政権党のようで、職員組合は野党親派で、つねに貰いぶち、食い扶持の待遇保持を描いている。
撒き餌は種々各省が色取り嗜好性を凝らして「要請」|陳情」を待ちかねている。狡い言いがかりに、ケチな利権の小遣い銭や、審議会の別封デズラ(日当)で操っているのである。
世界いたるところ親和力を知っていても、何処か混じり合わないその茫洋とした繰り返しは、たとえ金融資本の屏風はあるにしても、問題は金と獅子身中の虫である狡猾な官吏の群れである。ギリシャ危機も国家経費がかかりすぎた、つまり公務員の増殖と人件費の増大だった。江戸は大奥で財政を衰えさせ,清朝は宦官の狡猾さに根を腐らせた。ソ連はノーメンクラツーラという特権階級に浸食され活力を失い、中国も解放軍古参幹部の子弟によって再び混乱を巻き起こしている。
い
善とは違い、悪は徒党を組む。世界の倣いだが、その親和では民衆は泣くに泣けない。
ちなみに党の旧字は、黒を貴ぶというらしい。クロは腹黒い意味でもある。
「亡国は亡国の後、その亡国を知る」、
内外の賊はともかく、滅ぶということを知らない民は、滅んだあとに、滅ぶ事とはそのようなことだと知る。
最後にやつあたりは誰にくるかだ。
天が落ちると高いところから順に当たるという隣国の古諺がある。
地位が高いものに一番先にあたる、それは地位とか権力があれば影響は大きいということだ。
やはり地に伏して、天に舞う、それが一番いい生き方だと考える昨今である。