■「いつの間にやら」
今はピントの合わせ方も変化しているが、無関心が進行しているようだ。
読まない、聴かない、あるいは関心がない、といった問題が、いつの間にやら大人の世代まで浸透しています。
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NHKのアンケートで「二十世紀における世界の十大ニュースを挙げるとすれば」という設問があった。各国の市民を対象にしたものである。
日本では、一、二に阪神大震災、地下鉄サリン事件、続いてアポロ十一号月面着陸、原爆投下、ダイアナ妃の死、日航ジャンボ墜落、サッカーW杯初出場、和歌山カレー事件などが選ばれている。
アメリカでは第二次世界大戦、世界恐慌。ドイツでは東西ドイツ統一、第二次世界大戦。共通して原爆投下、アポロ十一号月面着陸、他にペニシリン、エイズの発見がある。
娘の通う板橋区の某公立高校のクラスでは、はやばやとこの選択結果を授業に取り上げた。
ことさら順位選別の優劣を問うべきものではないが、「世界の中の日本、あるいはこれからの若者は国際人として視野を広げなくてはならない」という多面的な観察の目標は教育課題にもなっている。
それを奨励する我が国の大人といわれる世代と、他国民との比較観点は、若者にとって現代の日本人観や、比較研究の良材でもあるようだ。
NHKによる各国のアンケート結果は、一、二に第二次世界大戦、東西冷戦、そして世界恐慌、太平洋戦争、アパルトヘイト人種隔離政策、ヒトラー、EUヨーロッパ統合、香港返還、国際連合の創設、ソ連解体と十大ニュースが選択されている。
娘と同級生たちは私の家に集まり、この選択課題の理解と、日頃接しているテレビ、新聞に代表されるマスコミの発する情報の見方、問題意識の大人と若者の違いなどを討議した。私は傍らでこの討議の行方を見守っていた。
1989北京
不思議な問題となって現れたのは、「何が選択されたか」ではなく「どうしてこのように他国や自分たち世代とは異なる選択が大人たちからなされたか」ということであった。それは、選択肢が溢れ、情報の発達した社会を共有する先進国との違いに関する疑問でもあった。
さらに、我々は豊かで自由な社会に住んでいるという認識――戦後、目覚ましい発展をした経済大国と謳われ、いまだにアジア、アフリカに現存する貧困に喘ぐ国々や戦火に逃げ惑う人々との比較による認識――を持つ人々の国際感覚に疑問を持ったことは云うまでもない。
貧富やモラルの有無ではなく、社会を構成する人々の目的意識や広い観察力、いわば「ピント」の問題でもあった。
疑問の解決の一助にと、私は、歴史を広角的に観察するための提言をした。
全てのニュースの基には「人間の欲望のコントロール」があり、それをどのように克服したらよいのか。加えて、日本という小さな国の中で追い求めている成功という果実のためにあるような、地位、財力、学歴など、人格とは無関係な附属価値と、国際人の育成と云う教育課題との関連について考察するように促した。
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高校二年といえば思春期の盛りだが、考える対象として、マニュアル化された家庭、社会、組織に、それぞれの「理想像」を持っています。
考え方も、一方で一面的・枝葉末節的・現実価値、他方で多面的・根本的・将来的、あるいは歴史を鏡として、あるものの価値を認識することとでは、結論が逆になることがあります。
明治の小学校は「尋常」を頭につけ、急がず、慌てず、平常心を尋ね(養い)、学問の大前提となる長幼、清掃、礼儀を習慣づける(小学)を行っています。
はたして、アジアの光明と謳われた明治人が、十大ニュースの選択を試みたらどんな選択をするだろうか、興味のあるところです。