「請孫文再来」寶田時雄著 より抜粋
佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。
>「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」
孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で
「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それを
わたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支
那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失
敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執ってい
たのです」
「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」
孫文は毅然として
「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那
の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府
は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府である
として公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退
しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」
鶴見は問う。
「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」
「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎え
すぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地
位を放棄しつつあるのです。
私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は
一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時
代、私をかばってくれた日本人に感謝します」
「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」
(アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)
「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」
「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」
日本の対支那外交について問う
「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」
「それは必ず統一できます」
「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」
堰を切ったように孫文は意志を表明する
「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」
「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」
「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」
「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」
「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」
「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」
「しかし、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」
日本は東洋民族の保護者として
「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」
「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」
だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある