まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

東條英機 彼も日本人 吾も日本人 (終章)

2008-06-08 21:14:33 | Weblog
ゾルゲ氏

戦争誘引工作に関与?


【キーナン主席検事が,東條との一騎打ちの数ヶ月前、『並み居る被告の中で真実
を述べているのは東條英機ただ一人、真犯人は木戸幸一である』と、本国にいる妻
に手紙を書いている。】

 

〔第二次近衛内閣に於る日米交渉〕

 二十六、 所謂日米了解案(証第1059号と同文)なるものを日本政府が受取つ
たのは1941年4月18日であります。

 此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に関与しました。但し私は職務上軍に関係ある事項につき特に関心を有して居りまして其他のことは首相及外相が取扱われたのであります。

 締結に伴ひその日米国交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に1940年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米国に於て、話合が続けられて来て居つた如くでありました。米国に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米国側では大統領国務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官から報道を受けて居りました。

 上記了解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も国務長官も之を承知し特に国務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に対する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉は開始されたものと認めたのであります。

 二十七、 此案を受けとつた政府は直ちに連絡会議を開きました。連絡会議の空気は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め、或る気軽さを感じました。何故かと言へば我国は当時支那事変の長期化に悩まされて居りした。他方米英よりの引続く経済圧迫に苦しんで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開きたいと思つたからであります。米国側も我国との国交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出来ますからこれに相当熱意をもつものと見て居りました。

米国側に於て当初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶予を稼ぐために交渉に当るなどといふことは日本では夢想だにもして居らなかつたのであります。連絡会議は爾来数回開会して最後に4月21日に態度の決定を見ました。当時は松岡外相は欧州より帰途大連迄着いて居つてその翌日には着京する予定でありました。

1941年(昭和十六年)4月21日の態度決定の要旨は

一、此の案の成立は三国同盟関係には幾分冷却の感を与へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥協を図ること

ニ、我国の立場としては次の基準で進むこと即ち
 (イ) 支那事変の迅速解決を図ること
 (ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
 (ハ) 三国同盟関係には多少の冷却感を与ふることは可なるも明かに信義に反することは避けることといふのであります。

我方では原則論に重きを置かず具体的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事変解決と自存自給体制の確立といふ問題があるからでありました。

 三国同盟條約との関係の解釈に依つて此の了解案の趣旨と調和を図り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を独逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました。以上の趣旨で連絡会議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大体異存なき旨を直ちに野村大使に電報をしようといふことになりましたが、此点については外務次官も異存はない、ただ松岡外務大臣が明日帰京するから華盛頓への打電は其時迄保留するといふ申出を為し会議は之を承認して閉会したのでありました。

 二十八、 しかし翌4月22日(1941年昭和十六年)松岡外相が帰つてから此の問題の進行が渋滞するに至つたのであります。松岡外相の帰京の日である4月22日の午後直ちに連絡会議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡欧の報告のみをして上記案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。

之が進行の渋滞を来した第一原因であります。外相は又、此の了解案の内容を過早に独逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の渋滞と混乱の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は

 (A)回訓に先だち欧州戦争に対する「ステートメント」を出すことを主張し
 (B)又日米中立条約案を提案せん

としました。此等のことのため此の問題に更に混乱を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思われます。松岡氏は初めは此の了解案は予て同外相がやつて居つた下工作が発展して此のようになつて来たものであらうと判断して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より発生したのもではなく、又一般の外交機関より生れて来たものでもないといふことを覚知するに至りました。それが為松岡氏は此の交渉に不満を懐くようになつて来ました。

又松岡外相は独伊に行き、其の主脳者に接し三国同盟の義務履行について緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より観取することが出来ました。なほ松岡外相の持論である、米国に対し厳然たる態度に依つてのみ戦争の危険が避けられるといふ信念がその後の米国の態度に依り益々固くなつたものであると私は観察しました。

 二十九、 斯くて我国よりは漸く1941年(昭和十六年)5月12日に我修正案を提出することが出来ました。(法廷証第1070号)「アメリカ」側は之を我国よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では4月18日のものを最初の案として之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨について其の主なる点を説明すれば、

 (一)その一つは三国同盟條約の適用と自衛権の解釈問題であります。4月18日案では米国が自衛上欧州戦争に参加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米国の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに5月12日の該修正案では三国同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。__

三国同盟の目的の一つは「アメリカ」の欧州戦争参加の防止と及欧州戦争が東亜に波及することを防止するためでありました。

米国はこの條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出来ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釈に依り処理をしよういふ考へでありました。即ち我方は実質に於て譲歩し協調的態度をとつたのであります。

 (二)二は支那事変関係のことであります。4月18日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政権に対し日支交渉を為す勧告をしょう、而して蒋政権が、之に応ぜざれば米国の之に対する援助を中止するといふ事になつて居ります。

我方5月12日案では米国は近衛声明、日華基本條約及日満華の三国共同宣言(法廷証第972号ノH464)の趣旨を米国政府が了承して之に基き重慶に和平勧告を為し、もし之に応ぜざれば米国より蒋政権に対する援助を中止することになつて居ります。尤もこの制約は別約でもよし、又米国高官の保証でもよいとなつて居ります。乃ち米国は蒋政権に対しその日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。

 元来支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重点があります。その一つには支那事変自体の解決であります。その二つは新秩序の承認であります。我方の5月12日案では近衛声明、日華基本條約及日満華共同宣言を基本とするのでありますから、当然東亜に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。

 撤兵の問題は4月18日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基くといふことになつて居ります。5月12日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸解放のことも4月18日案と5月12日案とは相違しないのであります。4月18日案には支那領土への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、5月12日案は之に触れて居りません。

 三十、 5月12日以降の日米交渉の経過につき私の知る所を陳述いたします。5月12日以降上記の日本案を中心として交渉を継続しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三点に於て米国と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中国に於ける日本の駐兵問題、

その二は中国に於ける通商無差別問題、その三は米国の自衛権行使に依る参戦と三国條約との関連問題であります。5月30日に米国からの中間提案(法廷証第1078号)が提出されなど致しましたが、此の問の経緯は今、省略いたします。結局6月21日の米国対案の提出といふことに帰着いたしました。

 三十一、 6月21日と言へば独「ソ」開戦の前日であります。此頃には独ソ戦の開始は蓋然性より進んで可能性のある事実として世界に認められて居りました。

我々はこの事実に因り米国の態度が一変したものと認定したのであります。この6月21日案の内容は証第1092号の通りでありますが、我方は之につき次の四点に注意致しました。

 その一つは米国の6月21日案は独り我方の5月12日修正案に対し相当かけ離れて居るのみならず、4月18日案に比するも米国側の互譲の態度は認められません。

米国は米国の立場を固守し非友誼的であるといふことが観取せられます。その二つは三国條約の解釈については米国が対独戦争に参加した場合の三国同盟条約上の我方の対独援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して来ました。(証第1078号中に在り)

その三は従前の案で南西太平洋地域に関して
規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋の全体に適用することを求めて来たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。4月18日案にも5月12日案にも米国並に南西太平洋地域に対する日本移民は他国と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が与へられるであらうとの條項がありました。

6月21日のこの重要なる條項を削除して来ました。6月21日の米提案には口頭の覚書(オーラル・ステートメント)といふものが他と合わせて附いて居ります(証第1091号)。

その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ独逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信任を表現する辞句がありました。

之は日本の関係者には内政干渉にあらざるやとの印象を与へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乗り上げたのであります。

 三十二、 しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。

一、6月22日独ソ戦争が開始したこと

ニ、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部仏印への進駐を原因として米国の態度が変化したこと

三、7月25日及26日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る経済封鎖

四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衛内閣の総辞職

 以上の内一及二の原因に依り米国の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は仏印問題を中心として行はるるようになりました。四の内閣変更の措置は我方は如何にしても日米交渉を継続したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では国の死活に関する問題として此の交渉の成立に対する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を続けたのであります。



次回は一稿「ヒラリー・クリントン」おいて巣鴨プリズンでの東條氏の「遺言書」を掲載します。
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東條英機 彼も日本人 吾も日本人 その3

2008-06-08 07:29:31 | Weblog
               国民党 蒋介石総統


 〔日華基本條約と日満華共同宣言〕

十七、 第二近衛内閣に於て1940年(昭和十五年)11月30日、日華基本條約を締結し、日満華共同宣言を発するに至りました事実を述べ、これが検察側の主張するような対支侵略戦争行為でなかつた事を証明致します。これは1940年(昭和十五年)11月13日の御前会議で決定せられた「支那事変処理要綱」基くのであります(弁護側文書第2813号)。

何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたかと申しますに、これより先、従前の政府も統帥部も支那事変の解決に全力を尽して居りました。1940年(昭和十五年)3月には南京に新国民政府の遷都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出発し、南京に滞在して居りましたが、南京との基本條約を締結する前に

今一度重慶を含んだ全面平和の手を打つて見るを適当と認めました。又当時既に支那事変も3年に亘り国防力の消耗が甚だしからんとし、又米英の経済圧迫が益々強くなつて来て居るから我国は国力の弾撥性を回復する必要が痛感せられました。この支那事変処理要綱の骨子は
 
(一)昭和十五年(1940年)11月末を目途として重慶政府に対する和平工作を促進する
 
(ニ)上記不成立の場合に於ては長期持久の態勢に転位し帝国国防の弾撥性を回復
するといふのでありました。

十八、 上記要綱(一)の対重慶和平工作は従来各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纏めて遂行したのでありましたが、この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります(証第464号、英文記録5318頁)。

この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出来たものであつて彼の1938年(昭和十三年)12月22日の近衛声明(証第972号ノH、英文記録9527頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。又同日日満華共同宣言(証第464号英文記録5322頁)に依つて日満華の関係を明らかににしました。なほ基本條約及上記宣言の外に附属の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換されて居ります。(証第465号英文記録5327以下)

十九、 上記の1940年(昭和十五年)11月30日の日華基本條約並日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の関心を持つた点が三つあります。一は條約等の実行と支那に於ける事実上の戦争状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題であります。

 第一の條約の完全なる実行は政府も統帥部も亦出先の軍も総て同感で一日も早く條約の実行を為すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の真摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戦闘を続行し事実上の戦争行為が進行しつつありました。占拠地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自体の発展のためにも、條約の実行と共に此の事実上の戦争状態を確認し、交戦の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。

これが基本條約附属議定書中第一に現在戦闘行為が継続する時代に於ては作戦に伴ふ特殊の状態の成立すること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認さられた所以であります。(法廷証第464号英文写4頁)

 第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事変が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなたつたのであります。我国の国防力の回復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。

その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戦争が終了するといふことであります。

その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を実行するには技術上約2年はかかるのでありまして、後方の治安が悪くては撤兵実行が不能になります。これが附属議定書第三條に中国政府は此期間治安の確立を保障すべき旨の規定を必要とした所以であります。(法廷証第464号、英文写頁4頁)

 第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事変の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壊行為に対し日支両国が協同して、之を防衛せんとするものでありまして、事変中共産党の勢力が拡大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法廷証第464号、第465号)

 そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤兵するものであります。

 以上は私が陸軍大臣として此條約に関係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は従前の国際間の戦争終結の場合に見るような領土の併合とか戦費の賠償とかいふことはありません。これは特に御留意を乞ひたき点であります。ただ附属議定書

第四條
には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の関係に置き支那側の作戦に依つて日本在留民が蒙つた損害は中国側で賠償し中国側の難民は日本側で救助するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷証第464号)

 而して治外法権の放棄及租界の返還等中国の国権の完備のために我国が約束した事柄は1943年(昭和十八年)春迄の間に逐次実行せられました。なほ1943年(昭和十八年)の日華同盟條約法廷証第466号に於て上記基本條約に於て日本が権利として保留した駐兵其他の権利は全部放棄してしまひました。


 〔日「ソ」中立條約並に松岡外相の渡欧〕

二十、 次に日「ソ」中立條約に関し陸軍大臣として私の関係したことを申上げます。1941年(昭和十六年)春、松岡外相渡欧といふ問題が起りました。1941年(昭和十六年)2月3日の連絡会議で『対独伊「ソ」交渉案要綱』(弁護側文書第2811号)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡欧直前に提案したものでありまして、言はば外相渡欧の腹案であつて正式の訓令ではありません。

 此の「ソ」連との交渉は「ソ」連をして三国同盟側に同調せしめこれによつて対
「ソ」静謐を保持し又、我国の国際的地位を高めることが重点であります。かくすることによつて

  (イ) 対米国交調整にも資し
  (ロ) ソ連の援蒋行為を停止せしめ、支那事変を解決する

といふ二つの目的を達せんとしたのであります。

二十一、 上記要綱の審議に当つて問題となつた主たる点は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」連をして三国側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此点については既に独「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り予て内容の提示してあつた「リツペンドロツプ」腹案(此本文は法廷証第2735号中に在り)なるものにも独逸も「ソ」連を三国條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第であり、「ソ」連をして三国に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。

 その二は我国の「ソ」連との同調に対し独逸はどんな肝をもつて居るであらうかといふことでありました。此点については独逸自身既に「対」ソ不可侵條約を結んで居る。

 加之、現に独逸は対英作戦をやつて居る。それ故当時の我国の判断としては独逸は我国が「ソ」連と友好関係を結ぶことを希望して居るであらうと思いました。かくて「ソ」連をして日独に同調せしめ、進んで対英作戦に参加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。

 その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我国はある程度の犠牲を払つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として払うことあるべき犠牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犠牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の権利並に北樺太の油田に関する権利を還付するといふ肝を決めたのであります。

尤も対独伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を為すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大いなる関係がありますから無論その意見を取入れたのであります。

 その四は外相の性格上もし統帥に関する事項で我国の責任又は負担となるようなことを言はれては非常な手違いとなりますから、参謀総長、軍令部総長はこの点を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を払ひ、要綱中の五の柱にも特に「我国の欧州戦参加に関する企図行動並に武力行使につき帝国の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。

 二十二、 此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を為したり、或は制覇を為すといふ意味ではありません。唯、国際的に隣保互助の精神で自給自足を為すの範囲を予定するといふの意味に外なりません。

 二十三、 当時日本側で外相渡欧の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、当法廷で検察側より独逸から押収した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷証第567乃号至第569号)並に「ヒトラー」総統及「リツペントロツプ」松岡外相との会談録(証第577号乃第583号)に記載してあることは上記腹案に甚しく相違して居ります。
 松岡外相帰朝後の連絡会議並に内閣への報告内容も之とは絶対に背馳して居ります。

 二十四、 松岡外相が渡欧したときは当時日本として考へて居つたことと異なり独逸と「ソ」連との間は非常に緊張して居り「ソ」連を三国と同盟せしめるといふことは不可能となりました。又、独逸は日本と「ソ」連とが中立條約を結ぶことを歓迎せぬ状態となつたのであります。従つてその斡旋はありません。即ち此点については我国の考へと独逸のそれとは背馳するに至りました。結局4月13日松岡外相の帰途「ソ」連との間に中立條約は締結いたしましたが(証第45号)その外に此の松岡外相渡欧より生じた実質的の外交上の利益は何もなかつたのであります。詳しく言へば



  (1) 松岡外相の渡欧は独伊に対しては全く儀礼的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の単独不講和といふことは話にも出て居りません。
  (2) 統帥に関することは初めより松岡に禁じたことでもあり、又「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。
  (3) 又、検察官のいふ如き1941年(昭和十六年)2月上旬日独の間に軍事的協議をしたといふことも事実ではありません。

 二十五、 日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我国の国策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の関係もありません。この中立條約があるがため我国の「ソ」連に備へた北方の兵備を軽くする効果もありませんでした。乍然、我国は終始此の中立條約の條項は厳重に尊守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の言質を与へ独逸側の要求がありましても「ソ」連側に対し事を構へることは一度も致しませんでした。ただ、「ソ」連側に於ては中立條約有効期間中我国の領土を獲得する條件を以て対日戦に参加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。

次号へつづく

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