ゾルゲ氏
戦争誘引工作に関与?
【キーナン主席検事が,東條との一騎打ちの数ヶ月前、『並み居る被告の中で真実
を述べているのは東條英機ただ一人、真犯人は木戸幸一である』と、本国にいる妻
に手紙を書いている。】
〔第二次近衛内閣に於る日米交渉〕
二十六、 所謂日米了解案(証第1059号と同文)なるものを日本政府が受取つ
たのは1941年4月18日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に関与しました。但し私は職務上軍に関係ある事項につき特に関心を有して居りまして其他のことは首相及外相が取扱われたのであります。
締結に伴ひその日米国交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に1940年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米国に於て、話合が続けられて来て居つた如くでありました。米国に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米国側では大統領国務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官から報道を受けて居りました。
上記了解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も国務長官も之を承知し特に国務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に対する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉は開始されたものと認めたのであります。
二十七、 此案を受けとつた政府は直ちに連絡会議を開きました。連絡会議の空気は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め、或る気軽さを感じました。何故かと言へば我国は当時支那事変の長期化に悩まされて居りした。他方米英よりの引続く経済圧迫に苦しんで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開きたいと思つたからであります。米国側も我国との国交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出来ますからこれに相当熱意をもつものと見て居りました。
米国側に於て当初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶予を稼ぐために交渉に当るなどといふことは日本では夢想だにもして居らなかつたのであります。連絡会議は爾来数回開会して最後に4月21日に態度の決定を見ました。当時は松岡外相は欧州より帰途大連迄着いて居つてその翌日には着京する予定でありました。
1941年(昭和十六年)4月21日の態度決定の要旨は
一、此の案の成立は三国同盟関係には幾分冷却の感を与へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥協を図ること
ニ、我国の立場としては次の基準で進むこと即ち
(イ) 支那事変の迅速解決を図ること
(ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
(ハ) 三国同盟関係には多少の冷却感を与ふることは可なるも明かに信義に反することは避けることといふのであります。
我方では原則論に重きを置かず具体的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事変解決と自存自給体制の確立といふ問題があるからでありました。
三国同盟條約との関係の解釈に依つて此の了解案の趣旨と調和を図り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を独逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました。以上の趣旨で連絡会議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大体異存なき旨を直ちに野村大使に電報をしようといふことになりましたが、此点については外務次官も異存はない、ただ松岡外務大臣が明日帰京するから華盛頓への打電は其時迄保留するといふ申出を為し会議は之を承認して閉会したのでありました。
二十八、 しかし翌4月22日(1941年昭和十六年)松岡外相が帰つてから此の問題の進行が渋滞するに至つたのであります。松岡外相の帰京の日である4月22日の午後直ちに連絡会議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡欧の報告のみをして上記案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。
之が進行の渋滞を来した第一原因であります。外相は又、此の了解案の内容を過早に独逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の渋滞と混乱の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は
(A)回訓に先だち欧州戦争に対する「ステートメント」を出すことを主張し
(B)又日米中立条約案を提案せん
としました。此等のことのため此の問題に更に混乱を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思われます。松岡氏は初めは此の了解案は予て同外相がやつて居つた下工作が発展して此のようになつて来たものであらうと判断して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より発生したのもではなく、又一般の外交機関より生れて来たものでもないといふことを覚知するに至りました。それが為松岡氏は此の交渉に不満を懐くようになつて来ました。
又松岡外相は独伊に行き、其の主脳者に接し三国同盟の義務履行について緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より観取することが出来ました。なほ松岡外相の持論である、米国に対し厳然たる態度に依つてのみ戦争の危険が避けられるといふ信念がその後の米国の態度に依り益々固くなつたものであると私は観察しました。
二十九、 斯くて我国よりは漸く1941年(昭和十六年)5月12日に我修正案を提出することが出来ました。(法廷証第1070号)「アメリカ」側は之を我国よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では4月18日のものを最初の案として之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨について其の主なる点を説明すれば、
(一)その一つは三国同盟條約の適用と自衛権の解釈問題であります。4月18日案では米国が自衛上欧州戦争に参加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米国の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに5月12日の該修正案では三国同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。__
三国同盟の目的の一つは「アメリカ」の欧州戦争参加の防止と及欧州戦争が東亜に波及することを防止するためでありました。
米国はこの條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出来ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釈に依り処理をしよういふ考へでありました。即ち我方は実質に於て譲歩し協調的態度をとつたのであります。
(二)二は支那事変関係のことであります。4月18日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政権に対し日支交渉を為す勧告をしょう、而して蒋政権が、之に応ぜざれば米国の之に対する援助を中止するといふ事になつて居ります。
我方5月12日案では米国は近衛声明、日華基本條約及日満華の三国共同宣言(法廷証第972号ノH464)の趣旨を米国政府が了承して之に基き重慶に和平勧告を為し、もし之に応ぜざれば米国より蒋政権に対する援助を中止することになつて居ります。尤もこの制約は別約でもよし、又米国高官の保証でもよいとなつて居ります。乃ち米国は蒋政権に対しその日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。
元来支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重点があります。その一つには支那事変自体の解決であります。その二つは新秩序の承認であります。我方の5月12日案では近衛声明、日華基本條約及日満華共同宣言を基本とするのでありますから、当然東亜に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。
撤兵の問題は4月18日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基くといふことになつて居ります。5月12日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸解放のことも4月18日案と5月12日案とは相違しないのであります。4月18日案には支那領土への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、5月12日案は之に触れて居りません。
三十、 5月12日以降の日米交渉の経過につき私の知る所を陳述いたします。5月12日以降上記の日本案を中心として交渉を継続しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三点に於て米国と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中国に於ける日本の駐兵問題、
その二は中国に於ける通商無差別問題、その三は米国の自衛権行使に依る参戦と三国條約との関連問題であります。5月30日に米国からの中間提案(法廷証第1078号)が提出されなど致しましたが、此の問の経緯は今、省略いたします。結局6月21日の米国対案の提出といふことに帰着いたしました。
三十一、 6月21日と言へば独「ソ」開戦の前日であります。此頃には独ソ戦の開始は蓋然性より進んで可能性のある事実として世界に認められて居りました。
我々はこの事実に因り米国の態度が一変したものと認定したのであります。この6月21日案の内容は証第1092号の通りでありますが、我方は之につき次の四点に注意致しました。
その一つは米国の6月21日案は独り我方の5月12日修正案に対し相当かけ離れて居るのみならず、4月18日案に比するも米国側の互譲の態度は認められません。
米国は米国の立場を固守し非友誼的であるといふことが観取せられます。その二つは三国條約の解釈については米国が対独戦争に参加した場合の三国同盟条約上の我方の対独援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して来ました。(証第1078号中に在り)
その三は従前の案で南西太平洋地域に関して
規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋の全体に適用することを求めて来たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。4月18日案にも5月12日案にも米国並に南西太平洋地域に対する日本移民は他国と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が与へられるであらうとの條項がありました。
6月21日のこの重要なる條項を削除して来ました。6月21日の米提案には口頭の覚書(オーラル・ステートメント)といふものが他と合わせて附いて居ります(証第1091号)。
その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ独逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信任を表現する辞句がありました。
之は日本の関係者には内政干渉にあらざるやとの印象を与へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乗り上げたのであります。
三十二、 しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。
一、6月22日独ソ戦争が開始したこと
ニ、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部仏印への進駐を原因として米国の態度が変化したこと
三、7月25日及26日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る経済封鎖
四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衛内閣の総辞職
以上の内一及二の原因に依り米国の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は仏印問題を中心として行はるるようになりました。四の内閣変更の措置は我方は如何にしても日米交渉を継続したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では国の死活に関する問題として此の交渉の成立に対する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を続けたのであります。
完
次回は一稿「ヒラリー・クリントン」おいて巣鴨プリズンでの東條氏の「遺言書」を掲載します。
戦争誘引工作に関与?
【キーナン主席検事が,東條との一騎打ちの数ヶ月前、『並み居る被告の中で真実
を述べているのは東條英機ただ一人、真犯人は木戸幸一である』と、本国にいる妻
に手紙を書いている。】
〔第二次近衛内閣に於る日米交渉〕
二十六、 所謂日米了解案(証第1059号と同文)なるものを日本政府が受取つ
たのは1941年4月18日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に関与しました。但し私は職務上軍に関係ある事項につき特に関心を有して居りまして其他のことは首相及外相が取扱われたのであります。
締結に伴ひその日米国交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に1940年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米国に於て、話合が続けられて来て居つた如くでありました。米国に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米国側では大統領国務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官から報道を受けて居りました。
上記了解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も国務長官も之を承知し特に国務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に対する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉は開始されたものと認めたのであります。
二十七、 此案を受けとつた政府は直ちに連絡会議を開きました。連絡会議の空気は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め、或る気軽さを感じました。何故かと言へば我国は当時支那事変の長期化に悩まされて居りした。他方米英よりの引続く経済圧迫に苦しんで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開きたいと思つたからであります。米国側も我国との国交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出来ますからこれに相当熱意をもつものと見て居りました。
米国側に於て当初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶予を稼ぐために交渉に当るなどといふことは日本では夢想だにもして居らなかつたのであります。連絡会議は爾来数回開会して最後に4月21日に態度の決定を見ました。当時は松岡外相は欧州より帰途大連迄着いて居つてその翌日には着京する予定でありました。
1941年(昭和十六年)4月21日の態度決定の要旨は
一、此の案の成立は三国同盟関係には幾分冷却の感を与へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥協を図ること
ニ、我国の立場としては次の基準で進むこと即ち
(イ) 支那事変の迅速解決を図ること
(ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
(ハ) 三国同盟関係には多少の冷却感を与ふることは可なるも明かに信義に反することは避けることといふのであります。
我方では原則論に重きを置かず具体的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事変解決と自存自給体制の確立といふ問題があるからでありました。
三国同盟條約との関係の解釈に依つて此の了解案の趣旨と調和を図り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を独逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました。以上の趣旨で連絡会議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大体異存なき旨を直ちに野村大使に電報をしようといふことになりましたが、此点については外務次官も異存はない、ただ松岡外務大臣が明日帰京するから華盛頓への打電は其時迄保留するといふ申出を為し会議は之を承認して閉会したのでありました。
二十八、 しかし翌4月22日(1941年昭和十六年)松岡外相が帰つてから此の問題の進行が渋滞するに至つたのであります。松岡外相の帰京の日である4月22日の午後直ちに連絡会議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡欧の報告のみをして上記案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。
之が進行の渋滞を来した第一原因であります。外相は又、此の了解案の内容を過早に独逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の渋滞と混乱の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は
(A)回訓に先だち欧州戦争に対する「ステートメント」を出すことを主張し
(B)又日米中立条約案を提案せん
としました。此等のことのため此の問題に更に混乱を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思われます。松岡氏は初めは此の了解案は予て同外相がやつて居つた下工作が発展して此のようになつて来たものであらうと判断して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より発生したのもではなく、又一般の外交機関より生れて来たものでもないといふことを覚知するに至りました。それが為松岡氏は此の交渉に不満を懐くようになつて来ました。
又松岡外相は独伊に行き、其の主脳者に接し三国同盟の義務履行について緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より観取することが出来ました。なほ松岡外相の持論である、米国に対し厳然たる態度に依つてのみ戦争の危険が避けられるといふ信念がその後の米国の態度に依り益々固くなつたものであると私は観察しました。
二十九、 斯くて我国よりは漸く1941年(昭和十六年)5月12日に我修正案を提出することが出来ました。(法廷証第1070号)「アメリカ」側は之を我国よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では4月18日のものを最初の案として之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨について其の主なる点を説明すれば、
(一)その一つは三国同盟條約の適用と自衛権の解釈問題であります。4月18日案では米国が自衛上欧州戦争に参加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米国の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに5月12日の該修正案では三国同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。__
三国同盟の目的の一つは「アメリカ」の欧州戦争参加の防止と及欧州戦争が東亜に波及することを防止するためでありました。
米国はこの條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出来ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釈に依り処理をしよういふ考へでありました。即ち我方は実質に於て譲歩し協調的態度をとつたのであります。
(二)二は支那事変関係のことであります。4月18日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政権に対し日支交渉を為す勧告をしょう、而して蒋政権が、之に応ぜざれば米国の之に対する援助を中止するといふ事になつて居ります。
我方5月12日案では米国は近衛声明、日華基本條約及日満華の三国共同宣言(法廷証第972号ノH464)の趣旨を米国政府が了承して之に基き重慶に和平勧告を為し、もし之に応ぜざれば米国より蒋政権に対する援助を中止することになつて居ります。尤もこの制約は別約でもよし、又米国高官の保証でもよいとなつて居ります。乃ち米国は蒋政権に対しその日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。
元来支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重点があります。その一つには支那事変自体の解決であります。その二つは新秩序の承認であります。我方の5月12日案では近衛声明、日華基本條約及日満華共同宣言を基本とするのでありますから、当然東亜に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。
撤兵の問題は4月18日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基くといふことになつて居ります。5月12日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸解放のことも4月18日案と5月12日案とは相違しないのであります。4月18日案には支那領土への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、5月12日案は之に触れて居りません。
三十、 5月12日以降の日米交渉の経過につき私の知る所を陳述いたします。5月12日以降上記の日本案を中心として交渉を継続しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三点に於て米国と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中国に於ける日本の駐兵問題、
その二は中国に於ける通商無差別問題、その三は米国の自衛権行使に依る参戦と三国條約との関連問題であります。5月30日に米国からの中間提案(法廷証第1078号)が提出されなど致しましたが、此の問の経緯は今、省略いたします。結局6月21日の米国対案の提出といふことに帰着いたしました。
三十一、 6月21日と言へば独「ソ」開戦の前日であります。此頃には独ソ戦の開始は蓋然性より進んで可能性のある事実として世界に認められて居りました。
我々はこの事実に因り米国の態度が一変したものと認定したのであります。この6月21日案の内容は証第1092号の通りでありますが、我方は之につき次の四点に注意致しました。
その一つは米国の6月21日案は独り我方の5月12日修正案に対し相当かけ離れて居るのみならず、4月18日案に比するも米国側の互譲の態度は認められません。
米国は米国の立場を固守し非友誼的であるといふことが観取せられます。その二つは三国條約の解釈については米国が対独戦争に参加した場合の三国同盟条約上の我方の対独援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して来ました。(証第1078号中に在り)
その三は従前の案で南西太平洋地域に関して
規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋の全体に適用することを求めて来たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。4月18日案にも5月12日案にも米国並に南西太平洋地域に対する日本移民は他国と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が与へられるであらうとの條項がありました。
6月21日のこの重要なる條項を削除して来ました。6月21日の米提案には口頭の覚書(オーラル・ステートメント)といふものが他と合わせて附いて居ります(証第1091号)。
その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ独逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信任を表現する辞句がありました。
之は日本の関係者には内政干渉にあらざるやとの印象を与へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乗り上げたのであります。
三十二、 しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。
一、6月22日独ソ戦争が開始したこと
ニ、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部仏印への進駐を原因として米国の態度が変化したこと
三、7月25日及26日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る経済封鎖
四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衛内閣の総辞職
以上の内一及二の原因に依り米国の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は仏印問題を中心として行はるるようになりました。四の内閣変更の措置は我方は如何にしても日米交渉を継続したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では国の死活に関する問題として此の交渉の成立に対する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を続けたのであります。
完
次回は一稿「ヒラリー・クリントン」おいて巣鴨プリズンでの東條氏の「遺言書」を掲載します。