北京 老朋友 1995y
【以下本文】
(9)獄中の忘年会
私たちの留置場にも、年末がやって来ました。
零下20余度の厳寒に、火の気一つない監房です。二重窓と天井には、氷が張りつめ、外界とは完全に遮断された私たちには、文字通りの閉ざされた生活が続いていました。
その頃私は、知らず知らずのうちに本格的な牢名主となっていました。年末に当って、私は日本人たちから“どうせ長くはない命なのだから、今生の別れに、一杯飲ませて下さい”と、せがまれたのです。
私は、なんぼなんでも留置場の中での酒とは、ちと無理だろうとは、考えましたが、私はふと、
「今宵酒有れば今宵酔い、明日愁い来れば明日愁いる」(権審、絶句詩)
という詩を思い出しました。そうだ今日は今日、明日は明日だ。それに生前の一杯の酒は、死後の一樽の酒にまさるはずだ。“一酔千愁を解かん。と云うじゃないか。よし、私の責任で飲ましてあげようと、決意しました。
私が看守たちを説得するのには、それほど時間を要しませんでした。私は、各監房の日本人たちに、“絶対に静粛にすること”を条件としてそれぞれに酒、つまみなどを買わせました。衰弱しかけていた私の体には、久しぶりでの焼酎はこたえました。
「酒に対しては当に歌うべし、人生幾ばくぞ」
ほろ酔い機嫌の私は留置場の中央にある高台に立って、歌いました。
「好花不常開、好景不常在、愁堆解笑眉、涙酒想思帯、
今宵離別後、何日君再来、喝完了這杯、請進的小菜
人生能得幾回酔、不歓更何待、来来来
喝完了這杯再説罷、今宵離別後、何日君再来」
一階、二階の各監房から、明るい物凄い拍手が沸いた。
私は、各監房から、のど自慢の者を一人ずつ出しては、中央の高台に立たせて歌わせました。芸人は、そろっていたようでした。
一人が歌い終る度に、酔いがひときわ廻っていったらしく、その都度、各監房のドヨメキも高揚していきました。
「花は半開を見、酒は微醺を飲む」どころではない。乱酔につぐ乱酔。私自身、ここは留置場であることなど、とうの昔に忘れてしまっていました。
当時、われわれ戦犯とは無関係に、日本人女性三人が収監されていました。私は彼女らに声をかけてみたら、一人は唄う一人は踊るという。私は二人を一緒に出して。一人に唄わせ、一人に躍らしたのです。
それが、いけなかった。全監房の日本人たちは、女性を見た途端、完全に爆発してしまったのです。頭の禿げかかった一人は、太い鉄格子にしがみついて、“アンコール、アンコール”と絶叫、いやむしろ泣きさけんでしました。
それを境に全監房は、泣く、わめく、吐く、完全錯乱状態に変ってしまったのです。
「食、色は性なり」
食欲と、色欲は、人間の本性だとは知ってはいましたが、これほどまでに執拗、強烈なものであるとは知らなかったのです。
私は収拾しがたい狂乱の修羅場を逃れ、留置場の大扉を開いて看守室に出ました。看守たちは、留置場の狂乱状態にオロオロしながらも、手の施すすべもなく、蒼白な顔をして、とまどっていました。
私は看守たちの事務机の上にあがって、あぐらをかいて、
「歳とりじゃないか、飲め、飲め……」
と酒を勧めていました。
暫くして、私のまうしろの廊下の方から、靴音が聞えて来ました。聞き耳を立てていた看守たちは、はっきりとオロオロしはじめました。一斉に直立不動の姿勢をとりました。監房の中からは、鉄の大扉を通して、狂乱の叫び声、怒号が、とめどもなく流れて来ています。
私は、覚悟はできていましたから、靴音にふり向きもしませんでした。やって来たのは、高官でした。
「佐藤に用事がある。一寸借りて行くよ。あとはよく気をつけて……」
と看守たちに申し渡しました。看守たちは、返事の声も出なかったようでした。
私は高官の部屋に案内されたのです。
そこには、4~5人の中国人の警察官が、私を待っていました。事務机の上には、日本料理家ででも使っていたかのような朱塗りの四つ脚のついたお膳の上に、日本料理と、日本酒の徳利が添えてありました。
その高官は
「佐藤さん、お力になって差上げられず、申訳ありません。これは私の家内が、見よう見まねで作った日本料理らしいものです。そのつもりで、ゆっくりと年を越して下さい」
と、何気ない調子で言いました。
私は、こみ上げてくる感動に、箸に手を触れたまま、声をかみ殺して泣きました。私が、たとえ、どのように悔恨の涙を流したとしても、日本民族が、いや私自身が、満洲人に対して、今日まで、ふるまって来たあの傲慢さを洗い流すとはできないでしょう。
満洲国は、たしかに崩壊しました。しかし満洲人の私たち日本人に対する、暖い人情は、生き生きとして健在でした。それまで満洲国の色々な抑圧の中で、押し潰されていたかに見えた満洲人の温い人情は、いまこの生きるか死ぬかの危急の際に、公然とその健全な姿を現わしたのでした。
人間のこうした、せっぱ詰った極限の世界において、彼らのほのぼのとした温い人情が、私たち敗残の日本人を温く々抱きかかえてくれたのです。
私は監房へ帰ってから、人間関係の極限は、人間自然の「人情」なのだと、再び自分自身に言い聞かせながら、布団をかぶって泣き続けました。
その日の留置場での年越しの狂乱の酒宴については、その後、何処からも、誰からも、ただの一言も、とり沙汰された話は聞きませんでした。
「○○さん、有りがとう」(佐藤氏の意向で不記載)
以下 次号
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連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます