まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の八

2007-08-17 12:00:37 | Weblog
 
             北京 老朋友 1995y

【以下本文】

(9)獄中の忘年会
 
私たちの留置場にも、年末がやって来ました。
 零下20余度の厳寒に、火の気一つない監房です。二重窓と天井には、氷が張りつめ、外界とは完全に遮断された私たちには、文字通りの閉ざされた生活が続いていました。
 その頃私は、知らず知らずのうちに本格的な牢名主となっていました。年末に当って、私は日本人たちから“どうせ長くはない命なのだから、今生の別れに、一杯飲ませて下さい”と、せがまれたのです。
 私は、なんぼなんでも留置場の中での酒とは、ちと無理だろうとは、考えましたが、私はふと、
「今宵酒有れば今宵酔い、明日愁い来れば明日愁いる」(権審、絶句詩)
 という詩を思い出しました。そうだ今日は今日、明日は明日だ。それに生前の一杯の酒は、死後の一樽の酒にまさるはずだ。“一酔千愁を解かん。と云うじゃないか。よし、私の責任で飲ましてあげようと、決意しました。

 私が看守たちを説得するのには、それほど時間を要しませんでした。私は、各監房の日本人たちに、“絶対に静粛にすること”を条件としてそれぞれに酒、つまみなどを買わせました。衰弱しかけていた私の体には、久しぶりでの焼酎はこたえました。
 「酒に対しては当に歌うべし、人生幾ばくぞ」

 ほろ酔い機嫌の私は留置場の中央にある高台に立って、歌いました。
 「好花不常開、好景不常在、愁堆解笑眉、涙酒想思帯、
今宵離別後、何日君再来、喝完了這杯、請進的小菜
人生能得幾回酔、不歓更何待、来来来
喝完了這杯再説罷、今宵離別後、何日君再来」

一階、二階の各監房から、明るい物凄い拍手が沸いた。
私は、各監房から、のど自慢の者を一人ずつ出しては、中央の高台に立たせて歌わせました。芸人は、そろっていたようでした。

一人が歌い終る度に、酔いがひときわ廻っていったらしく、その都度、各監房のドヨメキも高揚していきました。
「花は半開を見、酒は微醺を飲む」どころではない。乱酔につぐ乱酔。私自身、ここは留置場であることなど、とうの昔に忘れてしまっていました。

 当時、われわれ戦犯とは無関係に、日本人女性三人が収監されていました。私は彼女らに声をかけてみたら、一人は唄う一人は踊るという。私は二人を一緒に出して。一人に唄わせ、一人に躍らしたのです。

 それが、いけなかった。全監房の日本人たちは、女性を見た途端、完全に爆発してしまったのです。頭の禿げかかった一人は、太い鉄格子にしがみついて、“アンコール、アンコール”と絶叫、いやむしろ泣きさけんでしました。

 それを境に全監房は、泣く、わめく、吐く、完全錯乱状態に変ってしまったのです。

 「食、色は性なり」
 食欲と、色欲は、人間の本性だとは知ってはいましたが、これほどまでに執拗、強烈なものであるとは知らなかったのです。

 私は収拾しがたい狂乱の修羅場を逃れ、留置場の大扉を開いて看守室に出ました。看守たちは、留置場の狂乱状態にオロオロしながらも、手の施すすべもなく、蒼白な顔をして、とまどっていました。

 私は看守たちの事務机の上にあがって、あぐらをかいて、
 「歳とりじゃないか、飲め、飲め……」
 と酒を勧めていました。

 暫くして、私のまうしろの廊下の方から、靴音が聞えて来ました。聞き耳を立てていた看守たちは、はっきりとオロオロしはじめました。一斉に直立不動の姿勢をとりました。監房の中からは、鉄の大扉を通して、狂乱の叫び声、怒号が、とめどもなく流れて来ています。
 私は、覚悟はできていましたから、靴音にふり向きもしませんでした。やって来たのは、高官でした。
 「佐藤に用事がある。一寸借りて行くよ。あとはよく気をつけて……」
と看守たちに申し渡しました。看守たちは、返事の声も出なかったようでした。

 私は高官の部屋に案内されたのです。
 そこには、4~5人の中国人の警察官が、私を待っていました。事務机の上には、日本料理家ででも使っていたかのような朱塗りの四つ脚のついたお膳の上に、日本料理と、日本酒の徳利が添えてありました。

 その高官は
 「佐藤さん、お力になって差上げられず、申訳ありません。これは私の家内が、見よう見まねで作った日本料理らしいものです。そのつもりで、ゆっくりと年を越して下さい」
 と、何気ない調子で言いました。

 私は、こみ上げてくる感動に、箸に手を触れたまま、声をかみ殺して泣きました。私が、たとえ、どのように悔恨の涙を流したとしても、日本民族が、いや私自身が、満洲人に対して、今日まで、ふるまって来たあの傲慢さを洗い流すとはできないでしょう。

 満洲国は、たしかに崩壊しました。しかし満洲人の私たち日本人に対する、暖い人情は、生き生きとして健在でした。それまで満洲国の色々な抑圧の中で、押し潰されていたかに見えた満洲人の温い人情は、いまこの生きるか死ぬかの危急の際に、公然とその健全な姿を現わしたのでした。

 人間のこうした、せっぱ詰った極限の世界において、彼らのほのぼのとした温い人情が、私たち敗残の日本人を温く々抱きかかえてくれたのです。

 私は監房へ帰ってから、人間関係の極限は、人間自然の「人情」なのだと、再び自分自身に言い聞かせながら、布団をかぶって泣き続けました。

 その日の留置場での年越しの狂乱の酒宴については、その後、何処からも、誰からも、ただの一言も、とり沙汰された話は聞きませんでした。

「○○さん、有りがとう」(佐藤氏の意向で不記載)



以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の七

2007-08-17 11:40:23 | Weblog
 
        佐藤氏の警護 満州馬賊頭目 白大人


(8)脱獄させてくれ

 ここは日本人の作った留置場で、収容されている全容疑者の一挙手、一投足、すべてが監視できるように設計されていました。
 しかも看守の靴音以外、音というものは、全然聞えて来ないのです。あまりにもシーンとした瞬間の連続でした。

 それを奈落の地獄の底にでも引きこまれるかのような冷たさとして感じとるか、それとも得難い永遠の静寂さとして、感銘の中で汲み取るかどうかは、人それぞれの心の持ち方一つにあるようです。

 病によって閑を得ることができるのは、とくに悪いことではないと言いますが、健康でありながら、動こうにも動くことができないと云うのは、たしかに辛いことです。しかも囚人――囲いの中に捉われている人間、そのうえ明日の生命の保証のない人間としての感じだけは、ひしひしとして伝わって来ることだけは事実です。

 しかし、どんなに苦しい時でも、平然として生き抜くこと、これもまた人生に関する一大事でありましょう。

 
孔子は
 「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
 と言っています。とにかく、人生とは、生きてみなくては、分からないのです。分かるためには、生きることです。生き続けられるだけ、生きることです。そのためには、生きることを、忘れて何かに熱中することです。

 さて、この留置場には、110余名の日本人戦犯容疑者と、小数の中国人と韓国人が収監されていました。戦犯容疑者と言っても、そのほとんど大部分の者は、自分はなぜ容疑者なのか、自分でも分からない人たちが多かったのです。

 ただ何名かの者は、容疑事実をもっていました。
 例えば、大同学院4期の馬上匡さんです。彼は通河事件当時の通河県副県長でした。馬上さんは、私の監房のすぐ隣の部屋に収容されていました。

 ある日、その馬上さんから、私の手もとに
 「佐藤さん、私を脱獄させてくれ、頼む」
 と書いた小さい紙切れが届きました。

 私はその頃には、看守たちの私に対する信頼を逆用すれば、馬上さんを脱獄させてあげることぐらいは、いとも簡単な事でした。
 しかし、私は無情にも、ちゅうちょすることなく、それを断りました。
 日本人は、これ以上、中国人の信頼を裏切ってはいけない。満洲国は亡んでも五族協和の理念は、私にとっては、本物であり、今もって決して亡んではいない。それが私の信念でした。

 私たちが今こうして裁かれているのは、日本が、日本そのものが裁かれているのです。最少限度、明治維新以来の日本民族の行動そのものが、歴史的な角度から裁かれているのです。私たちは歴史に対して責任をもたなくては、ならないのです。

 さあ馬上さん、一緒に首の座にすわりましょう。私たちが満洲の土になることによって、満洲ははじめて、日本民族の墳墓の地となりうるのです。そのようにしてこそ、はじめて五族協和の新しい芽が萌え出づるのです。

 馬上さん。あなたは馬賊が首を斬られる、あの凄惨なそして厳粛な場面を見たことがあるでしょう。私は全身の血が氷ってしまい、2~3日の間は、食事も喉を通りませんでした。血の匂いが、つきまとっていて離れないのです。

 数日して落着きを取り戻してから、はじめて私の網膜に再現されたのは、あの一人一人の馬賊が首の座に座った時の、土壇場における姿でした。

 呼び出された一人一人の馬賊たちは、頭目の方へ、ちらりと目をやって、まるで“お先へ”と、目礼でもしているかのような軽い仕草のあと、淡々として首の座にすわるのです。青龍刀のあの鈍い音とともに、首がすっ飛ぶ。吹き出す血の塊り。天地は寂として、再び静寂さを取り戻す。

 馬賊たちは、仲間の一人一人の最期をじっと凝視していて、与えられた運命として甘受しているのか、少しも乱れない。淡々として、あくまでも自分自身を見失っては、いないようでした。大いなる肯定に生き続けて来た中国民族の、ふてぶてしいまでに強靭な生命力を感ずる。

 部下の一人一人の最期を心静かに見つめていた頭目は、“さあ、俺の番だね”と言って起ち上って、血糊の中に坐ったまま瞑目して動かない。
 「死を見ると、帰するが若し」
 とは、この事であろう。その晴々しい顔。まさしく死に臨んでの王者の風格。あまりにも粛然とした態度に、私は今もって身ぶるいを感じる。満場寂として声なし。

 ここまで来れば、これはもはや修業の限界を、はるかに乗り越えた世界。それは承け継がれて来た数千年来の中国民族のもつ、歴史の重みであるとしか言えない。
 「さあ、馬上さん、私たちも心静かに、首の座にすわりましょう」
 これが私の馬上さんに対する、詐りのない心境でした。私は、馬上さんの脱獄の願いを、無情にも拒否しました。私のこうした無情さが、その後の馬上さんの獄中死につながったのです。

 私は機会ある度に、馬上さんを必死に弁護しました。
 無罪の判決書が、奉天監獄に収監されていた馬上さんの手もとに届けられました。恐らく生死の緊張感が、馬上さんの生命を支えていたのでしょう。馬上さんは、無罪放免の判決書を手にしたまま、獄中で息を引き取ってしまったのでした。

 私は帰国してから、馬上さんの奥さんを名古屋の郊外にお訪ねしました。
 「お奥さん。お許し下さい」
 私には、それしか申上げる言葉は、ございませんでした。


以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の六

2007-08-17 11:34:23 | Weblog

 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】

(7)餓鬼道

 留置場の中の日本人たちは、絶望的な瞬間々々を生き延びているかのような毎日のくり返しでした。

 私は何時も、“ここは留置場の中だ”鉄格子があるんだ。どうにもならないのだ。
 「天下を以て之れが籠となせば、則ち雀逃るる所無し」
 この宇宙全体を一つの鳥籠だと考えたなら、雀はその鳥籠の中から逃れられないのだと荘子は教えていますよ。だから、老荘は
 「忘の徳 ―― 是非を忘れ、恩讐を忘れ、生死老病を忘れなさい」
 と言ってるでしょう。……と勧めてみるのですが、さっぱり反応がない。

 お互い、何の関係もない知らなかった人たちばかりが、何かの因縁で、こうして、同じ条件で生活を強いられているのです。身分や、地位や、そして年令までも忘れあった人々が、たがいに同じ宿命の中で、触れあっているのです。
 「無形の交り」
 とは、この事でしょう。考えて見れば、なかなか得がたい人生経験です、考え方一つで、明るくも、暗くも、なるものです。そんなら、明るい毎日を送りましょうや……などと、勧めてもみたのでしたが、それも無駄なようでした。

 それで私は一転して「Y学」を始めたのです。
Y談じゃありません。Y学です。明日にでも首の座にすわる連中でも、このY学だけには興味を示したようでした。
 私のY学に、じっと聞き耳をたてていた彼らが、突然大声をあげて、ドッと笑った。看守は慌てて飛んで来る。“何してたか”と怒鳴る。私は“はい、私が今Y学をやったのです”“Y学とは、何だ”……と云うことで、結局、看守は、扉の鍵を開けて、私を看守室に連出したのです。
 24時間、全然用事のない、退屈さと根くらべをしながら勤めているのが看守たちです。
 “さあ、茶を飲めよ、今のY学とやらを、やってくれよ”
 ということで、私は一躍、看守たちに大もて。正直いって、私が文字通り牢名主になることができたのは、一つにはこのY学のおかげ。
 それにこの留置場で、一番差入れのとくに多かったのは、私だけでした。私は満洲一の悪質な奴だと新聞に出てからは(思想麻酔罪)、次から次へと現金やら品物が、私に届けられたのです。ほとんどすべて満洲人からでした。
 私が留置場の人々に少しでも、お手伝いすることができたのは、そのおかげでした。

 留置場の一日二食の食事は、あまりにも粗悪なものであったため、日本人たちは、日を追うて弱っていきました。

 かって、満洲国の最高級高官であったK氏(勅任官)は、自らの動揺を抑えるかのように、冷たい獄舎の壁に向って、坐禅を組みながら、お経を読んでいました。ところが彼は仏道の妙理を悟るどころか、絶望的な焦燥の中で、日に日に衰弱していきました。死に臨んで仏脚にすがり、つこうとして、必死にもがえて、いるかのようでした。

 見かねた私は、看守たちに医師の手配を乞うたが、そんなことは、できないという。
 それで私は“実は私が診断して貰いたいのだ”と言ったら、上司にも連絡せずして、こっそりと私の家内の妹婿の細田医師を、留置所の中まで連れて来てくれたのです。私は、その細田医師に、その日本人高官を引き受けて貰うことにしました。

 その高官は、金輝路の細田さんの勤める病院に引き取られてから、ますます錯乱状態がひどくなり、自らストーブの火を自分の衣物につけるなど、常軌を逸する状態だったそうですが、遂に文字通りの狂死してしまいました。

 彼は生への執着とその執念に苦悩し続けていたようでした。生を貪って死をもたらすとは、このような事なのでしょうか。

 ここの留置場では、水はもちろん、お湯もお茶も飲ましてはくれません。朝夕二回のぷんぷん臭い黒い高梁めし一椀と、野菜のほとんど入っていない塩汁、それに親指大のタクアン二本だけでした。

 私の隣室のF君。彼だけは独房でした。彼は食事の度に、塩汁が入って来るブリキの食器に、自分で小便をして、しかもそれを飲むのです。その小便をした食器は、ろくろく洗われもせずに、次の食事の時には、誰かの所に、まわっていくのです。これには困った。止める方法もないのです。

 「餓えては、食を擇ばず」
 餓えた者は、何でも食べるというが、それは余裕のある娑婆での話、とうとう、彼も狂死してしまいました。

 帰国後、彼の娘さんから、私の所へ、父の最期の状況を知らして欲しいと言ってきました。私は、“死の瞬間の状況などは、聞かない方が、よいものですよ。それよりも、日頃の優しかったお父さんの面影を思い出しなさい。それが何よりのお父さんへの供養ですよ”とだけ申上げて、真相については、お伝えしませんでした。

 私が、私に差入れられた油炒めのニンニク味噌を持って、何時もの通り、各官房に配っていました。

 ある一人の、これも名だたる勅任官、この人もまた生きのびたいという執念のためか、衰弱と同時に、文字通りの餓鬼道におち入ってしまっていたのです。

 私は油炒めのニンニク味噌を持って、その高官のいる監房の前にたちました。高官は真先に出て来て、鉄格子の中から、手を出しました。私は一匙の味噌を彼の掌にのせました。彼はその掌のニンニク味噌を、自分の内懐にこすりつけてから、掌に残っていた味噌をなめていました。

 私は、彼と同じ監房の他の方々にも、一匙ずつ分配していた時のことです。その高官は、またもや手を差し出したのです。私は、“たった今、差し上げたはずですが”と云うと、彼は“まだ貰ってはいない”と、半ベソをかいて、せがむのです。私は、彼の汚い恥知らずの強引さに、たまらない嫌悪を感じました。恥を忘れた人、無恥の人ほど恐ろしいものはない。

 「不潔面にあるは、人みな之を恥ず。不潔心にあるは、人肯えて媿(は)じず」(新論、心陰)
 と云う言葉を思い出して、私は寒ざむとした気持ちでした。

 その後の何日か経ってからのある日、彼は、私に一服の薬を要求しました。恐らく彼は、水を飲みたいためだったのでしょう。彼の欲しい薬は有りませんでした。私は“今度、差入れがあったら、差し上げます”と断りました。彼は私に
 「君はだいたい不公平な人間だ。何時も一号室の方から配って歩いている。だからわしの方へ来た時には、何時も無いのだ」
 と、くってかかるのです。
 彼は恐らく、薬が欲しいのではなくして、一杯の水が欲しかったものと、私には、分かりましたが、私は意地悪くも、彼に一杯の水すら、やりませんでした。

 その直後、その高官は、死刑になって、ついに帰って来ませんでした。私は「死刑」と聞いて、始めて、はっとしました。
 実は、私自身は、ほとんど毎日のように、科長に呼び出され、その都度真白い白米の御飯と、ご馳走を食べさせて貰っていたのでした。私は自ら腹一杯に食べているため、他人の飢えの苦しみを知らないほど傲慢になり、心眼が乱れてしまっていたのでした。私は、私自身の心の底にひそむ、偏見を通り越した、自らの残酷さ、冷酷さに、慄然としました。それも、“己を愛する心を以て、人をも愛せよ”などと、人にもお説教し、自らにも、言い聞かせていたはずの、私だったのです。

 彼は、おそらく、死に臨んで、末期の一杯の水を飲みたかったのでしょう。それがこの私のために阻まれて、一杯の水すら飲むこともできないまま、人生の終焉を告げたのです。

 彼はたしかに、自らの餓鬼道に、打ち克つことは、できませんでした。
 彼には、自分自身の命を守るという、さし迫った本能的な欲求の前には、善も悪も、醜も美も、恥も外聞も、なかったのでしょう。彼のこうした切実な現実的な欲求こそが、一切の価値を絶した真実そのものだったのでしょう。

 帰国後、私は彼の遺族を京都近くのお宅に訪ね、御主人は立派な最期でしたと、粉飾して、お伝えしました。家族の方々は勿論、集まった方々も、口々に彼の人となりの素晴らしさを誉め称え、追慕の涙にくれていました。

 私は今、この追憶の原稿を書きながら、中国の歴史が伝えている、いくつかの陰惨な記録を思い出しました。
「邯鄲の民、骨を炊き、子を易えて食ろう」(史記、平原君伝)
 邯鄲の人々は、人間の骨を燃やして、わが子を人の子とを取り換えて食べているというのです。
 「盗跖(とうせき)は、人の肝を膾(なます)にして之を餔(くら)う」(荘子、盗跖)
 と、荘子に書いてあります。また

 「子を蒸して、以て膳を君に為す」(韓非子、十過)
 春秋戦国時代、斉の桓公(前685~前643年)に仕えた易牙という宦官は、料理の方を担当していました。桓公が、おれはまだ人間の肉だけは食べたことがないよと云ったら、易牙は、さっそく自分の長男を蒸し焼にした料理を作って桓公にすゝめています。

 こんな記録は、中国の歴史には、ふんだんに有ります。ついでに現在の記録を一つ、つけ加えておきましょう。
 ここに、四川省の“文摘週報”の記事を、北東のAFPが伝えたニュースがあります。(91.4.22「中華週報」.P.15)
 「(四川省の)王光飯店では、数年前から、濃厚な調味料を加えた肉まんを売り出し、近所の評判になっていた。ところが、当局の捜査で、その肉まんが、人肉入りの饅頭だということが判明した。王光兄弟は、火葬場に忍び込んで死体から、腿肉などを盗み取り、それを持ち帰ってミンチにかけた後、濃い香辛料と調味料を加えて四川風の味にしていた

 兄弟は試してやってみたのが好評を得たので、常習的に火葬場に忍び込んで人肉を盗むようになり、近々数年のうちに6,000米ドル相当の荒稼ぎをしていた。これは大陸では数少ない成金長者のなかに入る。

 彼らのこの秘密非行が見つかったのは、ある一家が若くて死んだ娘の死体を火葬前に見ようとして、棺の蓋を開けた途端、大腿部の肉がえぐり取られているのに驚き、警察に届けたのだという……」

 餓えた虎でも、自分の子だけは食わないというのに、人間が人間を平気で食べている。
 「餓虎、児を食らわず、人、骨肉の恩無し」(通俗篇、獣畜)
 と記録されているが、それも当然のことであろう。

 鉄格子の中では、娑婆での一般の論理やお説教は、ほとんど通用しません。人間は自分の生涯を生き通して、みないかぎり、自分自身を確認する道はないでしょう。

 根本的には

 「人の禽獣に異なる所以のものは、幾(ほとん)ど希なり」(孟子、離婁下)

 人間の精神が、我欲にうち克つことが、できるか、どうか。これは人類永遠の課題なのかも知れません。


以下 次号

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