当時、69連勝していた横綱双葉山は敗れたとき、外遊中だった安岡正篤氏に電報を打電している。
「いまだ、木鶏に至らず」
それは、負けたことに執着せず、逆に、騒がず、うろたえず、無闇に競わず、勝った負けた、あるいは言い負かしたと言っても、すべて自分の至らなさだと双葉山は悟ったのです。それは勝った相手に対する譲る心が無くてはできないことです。
「木鶏」とは中国の逸話ですが、左甚五郎が彫った日光陽明門の猫の逸話と同様、木で造った鳥のように落ち着いて、それでいて人が尊敬し、時には畏れられる人物にならなければならないということです。
おろかな人を責めるより、そうされないような人格と落ち着きを養う、その修養が足りなかったと、自分自身の至らなさを自覚すれば「未だ、木鶏に至らず」と応用できます。(至らない・・・成り得ない・たりえない)
名横綱として相撲界に名を残した双葉山の精神修養は、もう一歩、高いところにおいていました。
あわてず、騒がず、誇らず、金銭に執着せず、つねに落ち着いた行動を心がけたいものです