
以前、大相撲は清規(成文法)に馴染まないと書いた。
つまり、おなじ社会の、同次元のことだが、ここでは狭い特殊社会の特別な人たちの同様には扱われない考え方と行いだと考えるのである。
法人として優遇を受け公器としての役割が必要とはいうが、人が違えば公器等は看板の類であり、大義を謳うメディアにとっては何でも言い募る絶好なターゲットでもある。
人の棲みわけられた世で、これが無くなれば清河百年を待つ、つまり元通りになるには百年三代かかるというものがある。
仕草では「食三代」があるが、各々の家庭の味覚もあるが、食べ方、ここでは喰い方もある。これは作法だが民族が異なれば違うというような屁理屈ではなく、ことに色、食、財に関することは我国の人の所作に基づく問題でもある。
昨今の就職活動(就活)や婚活の重要な部分を占めるであろう共通の行動範囲における、゛なじまない゛ところでもある。
昔の職人は早起き、早飯、早糞が先達から教えられた。修行僧は音を立てずにタクワンを食べた。江戸では豪快に音を立てて蕎麦を啜った。それらは棲み分けられた職域、生活圏においては、゛しきたり゛゛格好゛として、あるいは掟として狭い範囲の調和を保っていた。
いや、「分」の明確化ともいえることだった。そしてそれらの個別の域には口を挟まなかった。
それが近頃では税制優遇や体裁ステータスなのか財団とか社団なども法に括られ、誰でもタックスペイヤー(納税者)の権利とばかり、さまざまな切り口で苦言を挟むようになった。
神奈川県野島 伊藤博文別邸 明治憲法がつくられた
掲げられる前提は「法治国家」という代物ではあるが、その法を扱い時には走狗に入るのも法関係者の常である。それらが全て法に触れるということで刑罰に随ったら社会は成り立たない。わずらわしい問題ではあるが他を論じ、ホドを超えると必然的に行き詰るのもこの手の問題である。
この民族らしいものとして和芸がある。昨今は和風カルチャーとして誰にでも参加できる「道」を謳ったものなどは奥義の伝承と称して必ず「料」と、゛お気持ち゛が添えられる。
隣国中国すら笑えない話だが、賄賂を贈ることを「人情を贈る」という。
西欧にはチップがあり、我国には、゛お手間゛゛心付け゛゛小遣い゛゛お気持ち゛がある。
日露戦争出征 あの時は護るべきものが国家だった
翻って公機関にはどのようなものが有るかといえば、検察庁には調査活動費(調活費)というキャリアの裏金で辞任した高官もいた。警察庁はズバリ裏金がある。しかも部下に偽領収をつくらせるパワハラもまかり通るが、生涯賃金の保全のために正義も公徳心も捨て去る、つまり狡務員、公無員が多く存在する。そこには協力すれば仲間、協力しなければ敵の峻別が暗黙として存在する。
看板は架け替えたが財務省のノーパンしゃぶしゃぶは総じて東大をはじめとするキャリアが金貸しである銀行や、体裁のいい博打場証券会社におねだりした遊戯である。
これはまずいと思ったか金融庁を分離したが元の木阿弥状態である。
労働貴族といわれた組合幹部も国労は衣換え、教職員は組合費で遊興に走る。
表に表れるだけでも、゛さもしい゛゛卑しい゛姿は、福利、教育にそぐわない群れであることがわかる。
このときは負けた 対中降伏文書署名
これらは法治国家の棲み分けられた部分の掟や習慣によって支えられているものだが、その法務官吏もそれに当たることがある。
法務省本庁のある部屋は労働組合の看板が大書されているが、出先機関の誠実な所長の言葉にその苦渋が述べられていた。
「以前、待遇改善といえば職務対象とする少年なり退所者に関する職員の労働環境などが大義として交渉に謳われた。またそのようにして改善すると次の要求が出てくる。
そのころから外部の篤志家や対象者が出入りする庁舎の廊下に組合のポスターが貼られるようになった。
そして要求はすすみ、自分達の待遇、つまり優遇が言われるようになった。そこには代表者が居り要求はエスカレートして、内部でも組合に参加しない職員の電話にも出ないくらい先鋭的になった。その電話は少年や退所者からも掛けられてくる電話である。
はたして公務員としての要求の分別はなんだろうか。当惑した」
裁判所でも公判期間中に担当裁判官が突然変わった。何故、代わったのか。
丁度、公証人役場の空きができたからだという。
キャリアは用心棒弁護士もあるが下級審(下級といまでもいう)の裁判官は世情に疎いこともさることながら、なかなか天下りも無いため、空きが出たら直ぐ行かなければ食い扶持保全できないことらしい。
塾では鎮まりがあったが・・・ 松下政経塾
以上、このようにあげつらえば世の中は名目上の法治である。また法は知っている人間と使える人間の天下のような世の中である。
よく子供の頃に「法の傍をウロウロする奴はろくでもない人間だ」と古老に呟かれた。
いまでも生きている庶民の銘だ。
上げ列ねたような公器に生息する群れは悪党にもならない「愚か者」の群れであり、その群れにいそいそと安定職として送り出す母親も愚か者だろう。
世は悪党によって衰え、愚か者によって滅ぶ
では、なぜ愚か者が増殖したのか。
冒頭に記した清規(成文法)ではなく、陋規にいう「掟」「習慣(慣習)」の欠如である。
陋規は厳しくもあり、たおやかで優しくもある。それは公器はもとより、人間の自制のなり自省の問題であり、これを融解させるのは恣意的に利用される自由と民主につらなる啓蒙的思考に飾られた平等と人権など、知ってはいても深い意味を伴わない思索や観照の崩壊が大きな要因をなしている。
翻って、悪いと思っても必ず意が向く行為のなかに遊びがある。
博打、買春、昔は、゛いたずら゛だった。胴元も楼主も弁えていた。
借用書には今どきの担保などない。そもそもいたずらな遊びには馴染まない。
ただ゛「返せないときは満座の前でお笑いください」とあった。
恥をかきたくないものは借りなければ、゛いたずら゛もしなかった。
ある侠客だか、「なぜその稼業に・・」と問うたところ
「オンナと酒と博打が駄目ならこんな稼業に入らない」
その意味では公器に蠢く群れも何ら変わりが無い。
゛国民の生命財産をまもり・・゛と街中を大声を出して徘徊する候補者が稼業への就職活動にもみえるのも、そのせいだろうか。
博打の目を読めない政治家の運と風頼みは、東西外来の胴元にかすりとられるのは当然なこと。
それゆえ、その道を極めるのは「極道」と称するのもうなずける。
双葉山 関係サイトより
あの大相撲にも極道がいなくなって久しい。
名横綱双葉山は連勝をストップされたとき「いまだ、木鶏に至らず」と旅行中の安岡氏に打電している。
それは如何に静と動を交差に鎮まりのある落ち着きが必要であるかを示している。
晋作は「動くこと雷電の如し」と詠んだ。双葉山は木彫りの鶏の動ぜず沈着さを悟った。
騒ぐな、競うな、怯むな、落ち着け、
明治の小学は「尋常」と冠し、平常心を躾として肉体化した。全てそこから始まった。
相撲も選挙もそのように眺め、人の所作を学び、省く鏡とすべき、いまはその良機だ。
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