まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安保法制の国民の心配を祓う、元仲摩呉地方総監の志気

2016-01-01 13:30:47 | Weblog

 横浜市金沢区 野島の湾     黒船ペリーが投錨した附近

 

 

以前、来栖統合幕僚議長が超法規的対応を述べて解任された。

これは、あくまで有事の想定での意見と、来栖氏の意志だが、この意志が問題になった。

防衛庁内局の官吏と政治家が直ぐに反応した。理由は野党や近隣諸国への忖度遠慮と、面倒なことから回避する彼ら特有の自己防衛反応だった。その時にマスコミ識者は争論したが、議会での議論はアツモノ扱いだった記憶している。

 

神戸の震災の時も自治体は何に遠慮したのか総理をはじめとして首長も自衛隊派遣を躊躇した。それはまるで教育機関における構成者である教員が警察権力を忌み嫌い、治外法権の様相を呈した学び舎に似ている。しかしモンスターとなったPTA、コントロールが利かなくなった授業環境が起きると、今度は掃き溜めの清掃役のように、些細なことでも110番通報するようになった。警察は学校パトロールや相談としてOBを派遣するようになった。

 

問題看過、責任回避、不作為、自身に降りかかれば哀願、現状追認と、なんら軍人・官吏が横行した戦前の状況と変わらない公位にある人間の性癖のようなものだ。

また、組織もシステムも戦前の元の悪弊に回帰することに何の俯瞰的危機感もない。

よく、権力はいずれ腐敗するというが、政治やその周辺者だけではなく、法の運用・執行者である官吏や、それに連なって教育者、宗教家、そして資本家まで濁ってくる。

 

しかも、煩雑かつ彼らにとっての便法に順うために、汚れなき犯罪が蔓延し、暗雲となって国家社会を覆うようになる。

連帯や調和のもととなる多面的感覚を失くして視覚狭窄したような部分管理と数値的規制を旨とする官吏機構は政策や予算を壟断し、いくら善なる政策も滞留して社会に届かない。すると政治家は単純にも政策に似て非なる現金配給によって大衆を誘導するようになった。

 

それらの運用執行官が緊急時に彼らが盾として、かつ利の発生とした法がなければ、なんら動くことができない状況がある。つまり資金拠出の裏付けの問題である。また前記した部分管理と規制法は各職掌の連携もなく、とくに危機的状況においては致命的惨禍を看過せざるを得ない状況もでてくる。

 

神戸だが、神戸港に海上自衛隊の関係する場所があった。そこに超法規ならず、その場所に護衛艦を乗り入れた人物がいる。阪神淡路大震災海自災害派遣部隊指揮官 元呉地方総監 加藤 武彦氏だ。

当時の仲摩徹彌現地指揮官は隊員の信頼も厚く、震災地に派遣する従前の法もなく手を拱くのが普通だが、彼は的確な情報収拾と判断力によって、部隊運用指揮に重要な震災初時初動の重責を果敢な行動によって、以後の救援活動につながる運用指揮を行っている。

自衛隊は何を目的に存在し、使命を自覚していかに持てる全知全能をもって行動できるか、それを指揮する仲摩氏の率先垂範は現地隊員の強い援護となり、各機関との連携のもと縦横無尽な活躍をした。それは被災地だけでなく国民の賞賛を得て、いまでも語り継がれている。

その行動を賞賛した関西の阪急グループの責任者は、「退職したらどこに行くのか」と問うた。すると仲摩氏は「まだ、何も考えていない」と応えた。意気に感じた責任者は退職すると第一ホテルグループに仲摩氏を迎えた。

 

                                                                    仲摩徹彌 氏

 

 

後日、友人からその逸話を聞きながら仲摩氏を埼玉県の嵐山町にある安岡正篤記念館に案内した。もちろん社長と云えど、池袋から東上線でお越しいただけるよう伝えた。

後日、奥さんから『○○さん、うちの人に何を云ったのですか?』と戸惑いの苦情があった。

「いや、社長業は人物を観ることも大切なことです。その学問は今の学制には乏しいので参考にお連れしました」

『社長を辞めて、青少年の教育をやりたい、と云っています』と呆れたように・・・・

良かったですね、とも言えず、逆に感性情緒の確かさに敬服した。

 

想い起したのは、神戸での指揮だった。煩わしいと考えれば地位も俸給も退職後の安定もあるだろうが、彼の頭にはそんなことは人生の細事だった。しかも青少年と聞くだけで、さぞかし指揮下の隊員の志気もあり敢闘精神も豊かだっただろうと得心した。

また、その仲摩氏の人物を観る企業家の器量と洞察も素晴らしいことであり、当然の縁として機会を得た。これは偶然ではない、必然の出会いだった。

 

 

以下は呉地方総監が、呉に帰投する際に阪神基地隊員に残した訓示です。

 

訓  示


 大震災により、多くの兵庫県民の皆様が肉親を、住宅を、そして職を失われたことに対し心からお悔やみ申し上げると共に、この深い悲しみの中から復興に向けて懸命の努力を続けておられる事に対して最高の敬意を表したい。
 さて阪基隊員の諸君、阪神基地隊は海上自衛隊における唯一の被災部隊であるにもかかわらず、これらの方々の支援に全てを傾注した。私事を後事として、自らの家族、住居が傷ついているにもかかわらず部隊に復帰してくれた。この使命感こそが海上自衛隊災害派遣部隊の活動の根源となったのである。
 海上自衛隊にとって、航空機よりも、艦艇よりも大切なものがある。それは使命感である。「自衛官の心構え」の第1にある「使命の自覚」を諸君は身をもって示してくれた。特に、総監が幕僚と共に現地指揮所を阪基に設置するまでの二日半、諸君は仲摩司令統率の下、陸上自衛隊と緊密な連携をもって生存者救助にあたり、来援部隊の為の岸壁を確保し、液状化現象にあえぐ基地を維持し、以後の部隊活動の基盤を確保してくれた。諸君の努力により阪基がその機能をギリギリのところで保ってくれたことにより、総監は災害派遣部隊を指揮し、救助活動、糧食配送、給水確保の活動の采配を振るう事が出来たのである。
 諸君たちの多くは何らかの意味において被災者である。それにもかかわらず、不満ひとつ洩らすでもなく、泣き言をいうこともなく常に明るく任務にまい進してくれた。

君たちのエピソードをひとつひとつ披露することはかなわぬが、それらを総監はしっかりと覚えている。災害派遣はいつまで続くのか分からない。兵庫県知事から撤収の要請があり、災害派遣部隊の編成が解かれるまで整斉と任務を続けてくれたまえ。
 阪神地区に所在する海上自衛隊唯一の部隊として諸君の手で最後の幕を閉じてもらいたい。それが兵庫県民、神戸市民に対する諸君の責任であると思う。
 総監も呉にあって災害派遣部隊の指揮を執り続ける。諸君と最後まで共にある。仲摩司令統卒の下、大いなる健闘を期待している。総監は諸君を誇りに思う。
 「ウェル・ダン」よくやった。

 

阪神淡路大震災海自災害派遣部隊指揮官 元呉地方総監 加藤 武彦氏はチャンネルNIPPONの寄稿の末尾にこう記している。

 ≪海上自衛隊において独断専行とは「情勢不明かつ上級指揮官の指示を受ける事が出来ない情況にあって、自ら考え行動し、行動の結果が上級指揮官の所望結果と合致していること」を言います。初動において最も大切なことはこれです。そして失敗したら自分で責任をとることです。きっと海上自衛隊の初動は見事だったのであろうと思っています≫

責任とは、指揮官なら昔は切腹、いまは辞職だろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=j4M2Ph0Qw0I  参考映像

仲摩徹彌氏経歴 

昭和19年、満洲生まれ。防衛大学校卒(第10期)。昭和41年、海上自衛隊に入隊。第四航空群司令(厚木)、阪神基地司令(神戸)、教育航空集団司令官(下総)、航空集団司令官(厚木)、呉地方総監部総監などを歴任し、平成12年に退役(海将)同年、阪急シグマコーポレーション社長に就任。その後、第一ホテル社長、第一ホテルサービス社長などを歴任。

 

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