まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

愚法は敵とおもえ 11 5/3再

2023-06-17 12:16:06 | Weblog

  知って教えず   師あって学ばず   学んで行なわず  「人災」

岡本義雄翁 寄贈




立法時における様々な諸法との関連性を整える機関に法制局というものがある。いくら思いつきの善意で工夫を練っても駄目だしされれば陽の目を見ることは無い。

つまり、矢鱈に法を知っていても、堆積されたものが整理されていなければ役にも立たない。それは幾ら戦後新憲法下で整理されたといっても、明治憲法下の法が三権にはばを利かしていると、現代生活の有効性にそぐわず、ソレを分かりやすく云えば、電力の関西の60ヘルツと関東の50ヘルツのように互換性もないものと同じようなものになってしまう。

ただ、明治初頭の裁判官のように集積された判例も無いために、民族慣性である掟や習慣に照らし、かつ成文法に馴染むようにと脳髄を絞った挙句、「条理(情理)に照らして」と判決する智慧があった。

昨今、政治家の類に弁護士の資格を持つものが多くなった。大よそ「法に照らして」と能力の無さを詭弁で繕うが、情理が乏しい為に法官吏の説明のように無味に堕している。

法を読めるだけに都合のよい言い回しは長けているが、使い方、活かし方が知らないようだ。それは法さえ知っていけば食い扶持になる法官吏や、法匪に陥りがちな弁護士、裁判官、とくに四角四面と阿諛迎合を民癖と称されている国にとって、都合のよい生き方かもしれないが、まことに始末の悪い社会悪となっている。

「人情は国法より重し」その前提が備わって法がある。人の情を否定するところに現代の災いの多くがあることを知らなければならない。そこに説明や証明を求めなければならない掠れた社会の現状を、物言わぬ説明、現状の証明と見ることのできない卑小な法の奴隷になったと見ることができないだろうか。

掟や習慣、そして長(おさ)の特殊な教育によって成り立っている社会を法によって平準化して、それこそ文明国家の資格とばかり、従前の矩(のり)である道徳規範を忌み、亡きものとして忌避した国家模倣の形態は、混在、混積された成文法によって身動きが取れなくなっている。






        ・・・分限を弁えず 舌禍甚だ多し



その縒りを解くのは裁判官でもなければ弁護士ではない。そのアカデミックな法理論に怯まず、善例を創造遂行できる人間、つまり政治でいえば政治家の職責だろう。
人の姿を以って国柄という、まさにそのとおりだ。

あの高杉晋作は維新回天の魁として長府功山寺で挙兵した。従うものは藩屏ではない農商工の民兵である。それは生死の覚悟を涵養する必要の無い位置にあった者達だ。
「女房を敵とおもえ」その一声は新たな世界に生きる証だった。そして逡巡する心である、後ろ髪を振り切ることだった。
その覚悟の姿は女房の覚悟をも誘い、「男なら・・」と唄い郷土民謡にもなっている。
憂いの無い行動とはそのようなものだ。また其れに感応する精神が武士のみならず当時の人々に知らずしらず涵養されていた。それが数値に表すことのできない日本の深層の国力だった

晋作は「女房を敵とおもえ」と、゛ためらい゛を切った
現代、その、゛ためらい゛は、一に家族、二に食い扶持、三にその継続と安定、それはファッショとなって男女共通の習いとなっている。もちん否定はしない。
ただ、それぞれ個々の肉体的衝撃に関する共有は説明も解決も出来ていない。もちろん責任もだ。

ならば、その躊躇(ためらい)を切っても先に見えるものが無ければ無駄骨である。それは実利でもある。より多くの果実がなければ考えもしなければ動かない。
晋作には不特定多数の安寧のための先見性だった。晋作ほど機略、頓智が働く人間は当時稀だった。加えて東行詩集に詠む、「動くこと雷電の如し」の烈しい気概があった。
果たして雷電は存在するのか。いやそのような人間を育む教育は官制学歴にはない

つまり過度の怯えから躊躇するための法の用い方は、単なる前例執着の守りとなり、善例創造の妨げにしかならないということだ。政治家は法に基づくものでなく、法の存在基盤である人間の尊厳護持に軸を置かなくてはならない。

まさか、渡来宣教師のように「人間は造物主がつくった貴なるもの・・・」に染まっているかと心配になる。それを聴いた日本人は山川草木、家族のような家畜は自分達と同じではないのか、とその教えを躊躇した。温和従順な人たちの戸惑いとためらいだった

それが分厚い六法に読まれた人たちとは違うところだ。「読んだ」のではなく、「読まれた」のだ。それも数値評価のためにだ。







            




災害は自然が牙をむいたという。 為すすべもない人たちは法にも括れない自然現象に、自然経過に蓄積された智慧を用とせず、またもや四角四面な法解釈で挑もうとしている。
自然はそれには応えない。ただ適応することだという。限界を知ることだという。

しかし人間は自然から学んだ情緒の蘇りを期して復興し、飽くまで自然に寄り添い山海の豊穣を請う。ときに数値の富となって自然を毀損する。

たが、この経験は再び自然界への畏敬となり、新たな共生を育むだろう。
惨禍は甦りの端緒だと倣う民族は、己の微小なる存在をその節目ごとに知り、智慧としてきた。統合国家の装いというべき法は別物だった。

いまは惨禍の復興ではあるが、自然界への参加への試練である。それは複雑な要因を持って構成されている国家が垂直的な慣性としてきた情緒の更なる整えであり、維の更新でもある。

そこで部分の筋道として用いるのが法である。

ならば、優先する為には法を超越しなければならないのは、土壇場の政治の為す作業だ。
違法か脱法は其れが終わった後に責任を取ればいいことだ。
たかだか人間が作為的に作った成文法は万能ではない。智慧が無かったり、責任を振るために法を詐用するのだ。天変地異は法を頼らず。

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その法の恩恵の多くは既得権者として糜爛した官吏と、似て非なる、゛可哀想゛と認定された人たちだ。普通は縛り、囲うという、国民の自然生活から導かれた道徳観を認知しない非人情の類のものが多い。それは「禁ずるところ利を生ず」と、法のあるところ何処かに利が集積されるのが常だ。それを規制、罰金と呼んで怨嗟の対象となっている。

人心が微かになり、法が弛緩した昨今、与野党が互いに敵だと騒がず、真の敵を祓うことに気がつかなくてはならないだろう。

それができないのは、与野党問わず心の内なる賊だ。

いまどきの賊は、名利衣冠の獲得のための情緒枯渇した学校歴(学歴ではない)の単なる利用だが、それが既得権や食い扶持安定でもあるのだろう

コメント (2)
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