痴呆ぎみなのか、装っているのか判別は難しいが、元検察幹部と元工業技術院院長が口をそろえて「ブレーキを踏んだが減速しなかった」と、声を枯らして唱えている。昔は「催眠術にかかったようだった」とも言った官吏もいた。
しかも、本人は隠れて三百代言で腹話術名人の弁護士に主張させている。ことは高齢ドライバーの運転操作なのだが、法定官吏も彼らの前職同様タックス・イーターだが、経歴身分の高低で扱いも苦慮しているようだ。
ともあれ、国民には見かけない腹黒く、面の皮の厚い老人達だが、その智を大きな偽りの用としている醜態は、あとに続く現役の後輩役人に、オイシイ前例として浸透することは間違いない。国民もそれに倣う、そしていつの間にか深層の国力である情操は融解し、内なる賊は大手を振って表社会を闊歩しはじめると、複雑な要因を以て構成されている、国なるものの崩壊は食い止められなくなるはずだ。
忠恕の黙祷
旧稿ですが・・・
利は智を昏からしむ、とは成果や功利を視界を狭くして本来の柔軟である能力を衰えさせる、つまり出口のないドつぼにハマることでもある。
そこに「智は大偽を生ず」とあるように、その溢れると知識で吾が身を飾り、己の非を隠すことに使うようになる。
ただ、今回は世間知らずか、厚顔なのか、すぐ過ちを認めて謝った。
要は建築基礎の埋め込みコンクリートの破片を古代の活断層のアカデミックな証拠としたことだ。間違いをあげつらうものではない。過ちはたとえ学者が証拠だと言っても、半信半疑は庶民のマインドセキュリティだからだ。
その発した言葉が「催眠術に罹ったようだ」だった。
゛罹った゛は筆者の明治以降の官制学校歴にある病へイと考えるが、それが逃げ口上のように、酔っ払いの戯言と何ら変わることがない。しかも平然としている・・・
怒るどころか、彼の世界のおもしろい姿であり、ピンとこない冷静さだからだ。
その催眠術と、「・・・ようだ」だが、もともと催眠術という受動的なことではなく、探究、整理、考証、論理だてに、その罹っているとおもわれる催眠術を全学術の仮の枠として利便的に使っていた、いや、だから平然とアカデミックな世界の逃避理由に使えたのだろうとおもえるのだ。しかも「・・・ようだ」は、智によって大偽をつくろう彼ららしい論理だてだが、野暮でみっともない、とおもうのが世間の理解だろう。
くれぐれも言う、間違ったことをあげつらうことではない。
何かが足りない、いや彼らの屏風にしている附属価値に汲々として追い求める世俗の錯覚評価こそ、その過ちを誘引したのではないかと、嘆かわしく思うのだ。
浮俗は倣うだろう「どうも政治も経済も催眠術に罹ったようだ」と。