まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

側近が語る吾が師 安岡正篤  終章 2008 2

2020-11-10 20:51:13 | 郷学

《照心講座と『師と友』について》

 師友会の創立以来、人気のあった照心講座は長い間、聴講無料でした。昭和50何年でしたか、ある同人が先生に「タダでは良くない、いくらかお金を取った方がいいですよ」と申しましたら、先生は同意されたので、事務局では
聴講料150円として受付に貼り出したのですが、それを先生が見とがめられて、「聴講料? 僕は自分の講義を切り売りした覚えはない、会場費かテキスト代とするなら良かろう」と言うことで改めたことがありました。

 機関誌の『師と友』、これも先生は毎月の照心講座で聴講者にみな、タダで配る。先生の著書などでも、師友会は甘いというか気前がよいというか、片ツ端からやってしまいます。

講演会でも会費はとらず、その中なんとかなるだろうと先生は仰っておられました。無頓着というか、われわれ自身もそうであってはならないのですが、林さんも私も先生に倣ってどうもルーズなところがありました。
先生のスケールが余りに大きいむのですから、大きい渦に巻き込まれるのですね。

先生の本にしても百部や二百部は各方面に寄贈してしまうのですから。こういう仕方でいくと、やはり赤字になりますね。しかし、そうは言っても「日計足らず歳計余りあり」で何とかやってまいりました。『師と友』の発行部数はおしなべて1万2千部でした。亡くなる人もありますから急激には増えもしませんが、大した増減はありませんでした。もっとも、協会の台所をまかなう林常務は、あちこち奔走して大変でしたが:・:・。

 
《昭和初期の時局と老荘思想》
 
私はときどき、先生が老荘思想に傾斜されたのはいつ頃であろうか、と思うのです。先生は24、5歳の頃から瓠堂という雅号を使っておられ、老荘関係は勿論、仏教関係のものも驚くほど広く読み込んでおられます。この頃、先生は猶存社などを通じて右翼の人だちと活勤した時期があり、やがて彼らと袂を分かって金難学院を創立し、人材養成に没頭されます。

そのうちに満州事変、上海事変のあと血盟団事件が起こります(昭和7年)。これは財界の有力者を相次いて暗殺したいわゆる「一人一殺」事件ですが、その関係者の中に、かつて金難学院の院生であった四元義隆氏なども入っていた。これには先生も大変驚いて、「金難会報」にはっきりと、こうしたことは断じて私の素志ではないと書いておられる(4・29「近懐雑録」、6・30「青年同志に告ぐ」)。
 
このあと満州建国、五・一五事件と、世の中は急速に戦争への道を辿るのですが、こうした事件をめぐって、一部の人から「安岡は口では立派なことを言うが、行動が伴わないではないか」という批難も受けている。しかし、これはそうではありません。たとえば当時のことについて先生は後漢の歴史を講じた時に次のように論じておられます。

 『性急な人間や軽燥な人間は、何でもかんでも自分一存で爆弾を投げたり、匕首(あいくち、小刀)をひらめかしたり、あるいは喧々囂々(きょうきょう)と天下を論じなければだめなように、誰をつかまえてもそういうことを望んだり、自分の意にみたなければ悪罵したりしますが、それではだめです。

興隆する時代というものは、必ず人材が多種多様で、しかも表面に表れるところよりは、内に潜む、隠れるところにゆかしい人物かおる。
そういう肥沃な精神的土壌から、次の時代の多彩な人柄や文化が興るので、ダイヴァーシティdiversity(多様化)の有無が民族の運命を卜知(ぼくち)する一つの秘鍵でもある」(『三国志と人間学』より)

 こういうわけで、満州事変でも支那事変でも、一部の軍人や右翼の功名心、あるいは中国の歴史に対する無知のために、思わざる方向に逸れて行ったとも言えるでしょう。

 これに関連して、国雄会についても先生は、『私の考えは、国雄会の会員が揃って内閣を作る。つまり閣僚全員を国維会のメンバーが占めることが当初の目的であった。これなら流血の犠牲をともなわないで国政を革新できると考えたのだ。ところが国維会のメンバーの中から、あるいは文部大臣、あるいは農林大臣というふうに各個人バラバラに大臣になる人が出た。これは私の素志ではなかった。そこで終に私は国雄会を解散したのだ』と語られたことかあります。

 それやこれや、こうした事件を通じて考えられることは日本の内外情勢は、先生の意に満たないことが相次ぎ、また世間の心ない批判や誹膀に遭って、当時の先生がしばしば不快な思いをされたであろうことは想像に難くないことです。それにもかかわらず、この時期に先生が健康もそこなわず、世間の風霜に堪えてこられたのは、老荘や詩歌の世界に遊ぶ、いわゆる壷中の天を胸中に抱いておられたからではないかと思うのです。

 かつて「関西師友」に連載させていただいた安岡先生の古いノートの中に「老荘録」かあり、その中の「快楽と老荘思想」という章の冒頭に記された、゛告白゛に『余ハ最後二快楽ト老荘思想ニツイテ述ベントス。告白スレバ此ノ度ノ老荘思想論も、実ハ当世二対する私の鬱勃タル不満不快ガソノ基調トナリ居レリ、云々』とあるのも、先生が老荘を愛されるにいたった重要な証左の一つではないかと思います。


 《偉大とは方向を示すことである》先覚者の道

とにかく先生の考えは限りなく広大です。目先のことに捉われないで、広い視野で国と民族の前途を見通す。そして民族の在り方と進むべき方向を指し示す、それが先生の本領であると私は思います。
先生の、゛実践゛は、日本の将来、進むべき方向を指し示すこと、これが先生の偉大なる役割であろうと信ずるのであります。殷の湯王の宰相であった伊尹のことばを孟子が挙げておりますね、それは『孟子』万章篇にあります。

「天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覚さしめ、先覚をして後覚を覚さしむ。予は天民の先覚者なり。予将に斯の道を以て斯の民を覚さんとす。予之を覚すにあらざれば、而ち誰ぞやと………」 伊尹はこう言っております。

安岡先生という人は、人に先んじて、自分の覚ったところを人々に指し示す。いわゆる「暁の鐘」を撞き鳴らす人です。そこに先生の偉大さがある、私はそう思います。
 
《横井小楠のこと》

横井小楠のことばを先生が照心講座で話されたことがあります。それは、横井小楠が語ったことばを、明治天皇の侍講であった、元田永孚(えいふ)が筆録したものであります。それは
 「我れ誠意を尽し、道理を明かにして言わんのみ。聞くと聞かざるとは人に在り。亦安(なん)ぞその人の聞かざることを知らん。予(あらかじ)め計って言わざれば、その人を失う。言うて聞かざるを強く是れを強うるは、我が言を失うなり」
 道理のあるところをはっきりと指し示すのが私の仕事である。相手が聞くか聞かんかは、我が知るところではない、と横井小楠は言っておるのです。

「私は言うべきことを言うだけである。相手が聞かないだろうと思って言わないと、その人を夫ってしまう。ところが、聞きたくないというのを無理に強いると、私の言うところが無駄になるから、相手が聞こうと聞くまいと、私の言うべきところを言うまでである」こう横井小楠は言っている。

 先生と政財界の指導者との関係はまさにその通りだと思うのであります。歴代の総理から政治について諮問を受けた事情についても、『論語』にありますように「夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く」です。
「これを求めたるか、そもそもこれを与えたるか」という子禽の問いに対して、子貢は「夫子は温良恭倹譲、以てこれを得たり、夫子のこれを求むるや、それこれ人のこれを求むるに異なるか」と答えておりますが、先生と政治との関係も、まさにこの通り、ごく自然な在り方であったと思います。小楠はまたこう言っております。
 「後世に処しては、成るも成らざるも、唯々正直を立て、世の形勢に倚る(かたよる)べからず。道さえ立て置けば、後世子孫残 るべきなり。その外、他言なし」
 「道」というものに対するこの小楠の信念は、これまた安岡先生の一貫して喩らぬ信念でありました。  

※倚(かたよる)調子を合せる 
倚伏(いふく) 内に潜む禍と福が交差してその原因となる(老子)

一例を挙げますと、終戦の詔勅の刪修(さんしゅう)にあたって、先生は「万世の為に 太平を開かんと欲す」という張横渠(きょ)の名言を献じ、また道義の命ずるところ、良心の至上命令にしたがって戦争を止めるのだという意味で、「義命の存する所」という一句を入れるように力説されましたが、義命という言葉が閣議において理解されず、これが「時運の趨(おもむ)く所」、つまり「風の吹き回し」ということになってしまいました。先生はこれを千載の恨事であると申しておられましたが、ともかく安岡先生の道に対する信念は、横井小楠の信念とピタリー致します。まさに先聖・後聖、その軌一なりです。

 以上、縷々(るる)申し述べましたが、話に前後の脈絡もなく、内心忸怩(じくじ)たるものがございます。若い頃、私の話を聞かれた先生から、『君の話は半煮えの飯のようだな』と言われたことかあります。今でも先生がその辺に居られて、「小僧、やりおるな、あまりつまらんことを喋るなよ」と苦笑いしながら耳を傾けておられる姿が目に見えるようです。長時間ご静聴いただき有難うございました。

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