まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

逢場作戯 2008 3 再

2020-11-04 13:27:00 | Weblog


「逢場作戯」
(人それぞれに異なった対応で戯れる、阿諛迎合でもなく、そこには意思がある)



陶淵明の有名な詩に「帰去来の辞」がある。「田園まさに荒なんと・・・」と、怨嗟か苦悩か、それとも義憤か、所在を去る辞である。  

あるいは満州崩壊の朝、いつものように朝礼が始まった。襟章をつけ、「日満一徳云々・・」と唱和していた民衆は、崩壊の一報を聞くと襟章をかなぐり捨て、国民党の青天白日旗をすぐさま掲げ万歳を唱和した。 

それは決して満州国施政が問題だったのではなく、空模様を眺めながら傘をさしたのである。 どこに隠していたのか青天白日旗の丈夫な生地だった。尋ねると、日本、満州、中共、国民党、ソ連の五旗を持っているという。そのうち何故青天白日旗だけが丈夫な生地で作っているのかは、張学良率いる東北軍ならいくらか長続きするだろうという意味である。

辞去することのできること、支配者をしたたかに柔軟に受け入れ戯れること、この両者は日本人がよくいわれる、「四角四面」とは異なる生き方とは異質の、人情、財貨を糧とした絶妙なる応答辞令を駆使して地球上至るところに生存し、滅亡なき民族として、まるで支配者の栄枯盛衰と交代を悠々と眺めることの能がある強靭な生命力がある。

 埼玉名栗

 


《国柄にみる経国》

 アジアの国々は近代になって善し悪しはあったがパートナーが存在していた。
我国も幕末にはフランス、イギリスが、それぞれの勢力にサポーターのような影響力を与えているが、俊英な志士たちの情報収集と、歴史を俯瞰した洞察力によって拙速に収集したお陰なのか、自決権や政体主権が侵されることはなかった。

 それは同時期のアジアの状況を考えると驚異的ともいえる国家処世の術であり、四角四面と揶揄される民族が選択した国家目標へ団結力とかたくなまでの明治の実直性であろう。

 国の転換期には政治家は模様眺めに衣を換え、知識人は阿諛迎合するものもいれば、人権や言論の自由という題目を駆使して曲学阿世の輩に成り下がるものもいる。
 とくに日夜、高邁な理屈を表す知識人に限って抜け道を用意しておくのが常のようだ。

 棲み分けられた地域では、国家概念の中での存在としての連帯が薄くなり、政治経済が社会のための利他から、狭い範囲の利に偏重したり、本来目的ではなく副次的な位置にあった知識、技術の類が名利欲求の手段となり、本来、発する感激、感動や感謝充足といった地域固有の情緒にみられる成功価値がいびつになり、嫉妬やいらぬ競争を発生させ、国家や人間の連帯に不可欠な人心を微かにしてしまう。
国家でいえばカオスであり衰亡に観る徴でもある。

 政治や経済を歴史経過の運動体として考えるものは、時として「民主主義への転換期であり爛熟」と、高邁にも考察するが、それは祖国に対して自立した意思を保持している多くの人間が、連帯や縁によって織り成すという社会前提を忘れ、錯覚した運動論である。

 不特定の人間や培った歴史が表した森羅万象を吾身にとらえる人間が存在してこその連帯であり、矜持を備えたリーダーを発生させる培養土でもある。


 よく大陸の成功者は国際化の時代には利口な方法として特殊な分法があるという。たとえば、蓄えた財は香港、日本、アメリカ、カナダなどの銀行や投資に半分から三分の一を移している。 家族には英語を習わせてその語圏に留学させ、ときには移住して市民権を保持しているものもいる。とくに香港返還前は駆け込み的に子息を移住させている。
いまなお停戦状態にある韓国の資産家も同様と聞く。

 困ったことに、その類の連中に限って国家機関、もしくは影響ある位置にバランスよく納まり、さも国家を代表するかのような意見を述べたり、走狗に入る知識人はその権力の正当性を修飾することにその位置を設けている。 

 連帯を薄くした国民は狭い範囲の人情を護りつつも利に走り、政治を嘲笑しながら、したたかにも追従する形態を作戯して、しかも習慣化している状態である。
アジアによく見られる国家衰亡の瀬戸際であり、自壊とともに外敵の侵入を容易にする姿である。

  蒋介石と革命の先輩 山田純三郎

 

 孫文と側近の山田


《天下、公に成る》

 台湾に政体を移した国民党蒋介石政権も大陸の敗走は国民党の腐敗にあったと考え、今の陳水扁総統同様に黒金(暴力腐敗)勢力との戦いを推し進めていた。 李前総統、蒋経国総統も同様な憂いを抱いて撲滅に向かったが、法律の範疇からみる世界と、陋規にある掟、習慣の矯正はなかなか成果が上がらないようだ。

 大陸でも民衆に最も信頼された朱容毅をもって共産党幹部の腐敗を摘発しているが、どうもその部分だけは中台も同様な憂いを抱えているようだ。
あの清朝末期の宮中宦官の腐敗と知識人の堕落は、西欧植民地主義者の侵入を誘引し、その清を成立させた満州人は漢族同化に押され言語まで消滅させられた。
いまでも、中国の疲弊は清の堕落が原因だと言わんばかりに抑圧状態が続いている。

 
 蒋介石は新生活運動と称して清風運動を繰り広げている。 
 所謂、国維にいう国家の中心に流れる精神の確認と連帯を大衆の道徳順化にあると考え、国維なくしては国家の成立がないという意識をもって内政の基礎的部分の構築に努めている。

「維」は、縛る 保持するとの意はあるが、「国維」は国家に必須のおおもとの道筋や掟であり、綱維で表す建国綱領でもあり、四維にある「礼、義、廉、恥」にいう人間の節度と法治に欠くことができない欲望の自制を、蒋介石は生活運動として督励している。

 全体の調和を司る礼、羞悪を是正する義、正直と公平の廉、人畜の異なりを制する恥、を敢えて国家権力の提唱として、かつ本省、内省と分離している民情軋轢の融和のために

 蒋介石みずから運動の先頭に立っている。 大陸とは異なる経国スローガンとして孫文の唱えた三民主義を綱領に掲げ、発足して間もない政体維持に努めている。

 いまの中華民国台湾にとっては歴史のかなたに置き去ろうとしている政治経過ではあるが、人称、政策呼称はともかく、現在でも必要な呼びかけであることは変りはない。
あえて孫文や蒋介石を懐古して固陋に拘るものではない。

 しかし、現在の政治状況にいまさら忘却された懐古趣味を投げかけるものと一顧だにしない群盲像を撫す類の寸評は、生真面目で実直な歴史の構成者として、とうてい任を得ない時節の浮浪として憂いの一端に存在するものだ。

 

 弘前城


《相の存在と先見性》

 日頃、説明も億劫なのか「感だよ」と、風変わりな論調や預言者みたいな仮説を述べているが、時が経つと事実が立証してくれることがある。
単なる憶測や狭隘な理屈を、さも科学的根拠という傾向と、錯覚した大方の大衆に口舌宜しく説いて回る政治家、売文家の類は、単なる「感」の難しさと、説明の煩わしさに意味を持たない論として捨て去っている。 直感などというものもその一種だろう。

とくに文部省の官製カリキュラムで理解できないことを、たかだか己の飯の種の世界に「馴染まない」と、さも広幡に値しないという。

感は、多面的、根本的、将来的な「観」であり、「相」に立脚した先見である。後追い記事の訳論とは異なるものである。 訳論は枝葉末節、一面的、現世価値であるため、「観」とは逆な結論を導き出したりもする。 
 
「相」は木へんに目だが、木の上に目を置き遠方を観察することである。 この場合の「相」は宰相あるいは輔弼の意味を持ち、歴史の辿ってきた足跡と、これから進むであろう路の分岐もしくは起点に立ち、成すべき策や謀ごとを練り、信頼と胆識をもって意見を発する立場である。 あるいはその意思や前提に立って異なることを怯まず行動を興す「分」でもある。この場合の「分」は全体の一部分としての責任と理解してもよい。

 日本占領 マッカーサー厚木到着

 

長々とした説明が必要な昨今であるが、強いて理解を得るための前提の有無を論ずるまでもないが筆者なりの意としたい。
イラク開戦前、ワシントンの中野有君から戦争回避について萬晩報の奮励を請うメールが幾度か来信した。 それほど切迫していた状況であった。
国際フリーターとして多くの職歴を経験した氏の真摯な言論は、アメリカのアジア政策一助として貴重な提言者であった。その根幹は近代アジアの先覚者の思想や、氏の察することができる茫洋としたアジアの宇宙観にも及び、その活学によって新しいアジアの連帯を構築しようとする意思でもあった。 

彼はワシントンのシンクタンクフ、ブルッキングのスタッフであり、政策提言可能な立場にいた。
 
筆者は沿うように応えた。

※戦端を開く前のやり取り。「 」内は補足説明と結果

2003.9.24 15:27 TO nakano brooking

ところで,ブッシュさんは、『直にして礼なくば、すなわち絞なり』になりつつあります。
※『 』いくら良いことだと思っても、他国の理解がなく進めると、いずれ米国の自由範囲を狭める
 
「当然勝つことを前提とした戦いは」

その後は弛緩するでしょう。「規律、士気がゆるむ」

そして『謀弛』といって,謀(はかりごと)が弛(ゆるむ)でしょう。 
 
密な政策が内部から露呈します。結果としては破壊兵器はなかった」
 
いわゆる米国の座標がおぼろげになり、軸の再構築の必要が迫られます。

いや,回転のスピードによって支えられた軸が揺れ出すと言ってもいい。
 
なにか仙人の戯言のようですが、アメリカは自らを絞めつつあるようです。世界の動きを俯瞰しながら鎮まりをもって考えれば打開します。
 
妙な謀は逆効果です。 かといってデーターや情報の理解だけでは動きません
 
こんな時こそ中野さんの直感を胆識をもって披瀝する機会です。
 
安岡師は『真に頭のよいという事は直観力であり、どう活かせるかだ』と。
                            

 

私章 ゴマメの歯軋りより





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