まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

陸奥斗南の憧憬. 15. 11/23 あの頃

2020-08-27 15:17:16 | Weblog

 

陸奥湾を望む

八戸から青い森鉄道、途中、野辺地から大湊線に分かれて一路下北へ・・

 

この章を記したとき、女性自身 」の皇室担当記者松崎敏彌氏から「むつは秩父宮様のご縁で松平さんと行きました。市長さんも立派な方で此れからも期待できるところですね・・・・」と妙縁を教えて頂いた、その後、台湾同行した津軽の方々との再会と今夏のむつの再訪を期していた松崎さんは病の床から戻る事はなかった。そんな縁を抱いての津軽墓参の途に、ふとむつに想いを運んでみたくなった。

その日は偶然にも田名部神社の大祭だった。久々に見た郷の力つよくも雅な祭りだった。歴史ある郷の新たな期待、それは臨機応変、縦横無尽に繰り出す機略ある若い市長に委ねられていると聞く。

以下は昨年の備忘録だが・・・・・

 

               

      左 松崎さん   台湾亜東関係協会蔡秘書長    平田元空将

 

 

青森県津軽地方の行脚も当初の独行から多くの奇縁を生んだ。

ことさら、みちのくの一人旅や切羽詰まっての北帰行を洒落込んだものではない

それは多くの郷人との邂逅とともに、独りよがりかもしれないが彼の地への憧憬が膨らんだゆえに辿る途のようなものだった。

よく自分探しや、ときに訪れる自棄に近い逍遥なのか、それさえも確認するすべもないが、敢えて云えば己の感性と運がはこぶ、みずみずしい縁の愉しみだと思っている。

 津軽衆やその近在のオナゴに下北の陸奥のことを話すと「遠い」と一蹴される。

どこか「何も、よりによって・・」と云わんばかりの雰囲気がある。それともせっかく津軽に馴染んだ東京モンが下北半島のむつ市まで行くことないだろうとの節介だろうが、だからこそ「何かいいことが・・」と下心がはずむのも自然の欲目である。

            

                

 10月の中頃に風呂帰りの本屋で何気なく手に取った本が陸軍大将柴五郎に関する「ある明治人の記録」だった。あの「北京の五十五日」という名のハリウッドムービーで有名な清朝の義和団事件で目覚ましい活躍をした柴五郎だが、その沈着冷静さと勇猛果敢な士気は新政府を牛耳った薩長の無頼衆とは異なる、実直な武士(モノノフ)の貌があった。

偏屈なもの好きは人物に興味があった。どこで生まれ、どんな環境で、両親の教育は、どんな学修をしたのか、避けられない苦悩はどうだったのか、など興味がわいてくる。

 斗南藩、聞き慣れない名だが、無頼衆が仕切る新政府は、会津藩が涵養し矜持としていた武士の心根を、勤王の士であった藩主松平容保憎しで完膚なきまでの辱めをあたえ、領地に残るは農民もしくは商人として営みを変え、武士として生きるなら本州の北端陸奥に移封するという会津処分を行った。

藩主に随ったものは未だ見たこともない地を斗南と名付け、現在のむつ市に藩を立てた。新政府の条件は農業によって財政基盤を作れ、という厳命だったが、一万七千余名の会津武士にとっては、ことのほか過酷なものだった。

 

 

                 

 

                

だからと云って境遇や歴史の隘路を質しても始まらない。

武士の浸透学にある「言を要さない」涵養は、さし迫った状況に向かっても超克する気概が、特筆される会津武士の姿だった。

会津の市街地戦闘では屍を倒れた場に晒し、白虎隊の童子さえ埋葬して弔うことさえ許されず、小動物にさえむしばまれた。非戦闘員だった武士家族の高齢者や女子は自決し、操と矜持の穢れることを良とせず誇りを護った。それから比べれば、゛何のこれしき゛との意気はあふれていた。

時を違えて世俗に惑いや小欲を制することもままならない旅人にとって、たとえ会津、陸奥と別世界に繰りひろげられた人々のストーリーを、彼の地に伝わる微かなる残像に心耳を澄ますことは、知った、覚えた類の探索ではなく、添って動転するような臨場感に浸ることだった。それは現状のささいな憂慮や煩悶に光明を推考し、実直なる当時の日本人への回帰願望が芽生える端にもなることだった。

 それは、同時期の冷害に同じく苦しんだ津軽弘前において、嘆く人々に向かって恩師の縁者である菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」という気概と同じ明治人の薫りを感ずるとともに、政府の補助金に「弘前に餓死者はない、他に困っているところがあれはそちらに渡してください」と断る、他への忠恕と責任感は、もともと寒気烈しいところに生地として営みを持った人間の守るべき矜持のようみえたのだ。

くわえ、その甥であるの山田純三郎に孫文が慚愧の気持ちで発した「真の日本人がいなくなった」との言葉が、妙に斗南武士となった会津士魂に、民族を超えた維持すべき普遍な意志のように共鳴するのだ。

 「そこを観よう」という観察眼と直感力の養いは、混迷の将来に宿命観を集積する世俗のには、偏屈な変わり者の夢想とおもえるだろうが、その浸透学こそ必ずや利他に必須な修学だと多くの先覚者や碩学の促しがあったればこそ、ゆえに哀悼と感謝の独行であった。だから敏感だった。

 

 

                  

 

北辺の地だが、当時は地域情報も乏しく、あの松陰でさえ山口県の萩から青森県弘前を経て竜飛まで足を延ばしているが、行程も順調ではなく、秋深くなれば降雪で歩行もままならなかった。その季節の萩は雪も見ることもなく、路銀(懐金)も計算通りではなく、至るところで松陰の借金証文が発見されている。それは予想外の異郷への旅だった。

 征夷大将軍の田村麻呂も秋田との県境を閉ざす白神以北は足を踏み入れることはなかったほどの、当時は化外の地だった。斗南藩の在ったむつ市は旧南部藩、いまでも八戸までの新幹線の頃は、大湊線の中継地である野辺地以北は訪れる観光客も少ない。

 周知されているのは原燃の六ケ所村、恐山、マグロの大間くらいで、斗南藩の史跡などは見向きもされないのが実情だ。グルメと観光はあっても、思索と懐古、加えて教訓を得るなどは浮俗の変わり者の所業のようだ。

だが、普段は心地よいと感じている浮俗に浸る都会の巷で、その深層に潜在する俗(現世)の人の在り様に滞留している鵺(ぬえ)のように取り付くモノの発見には、前記したように、かけがいのない風土であるとの確信が不思議とあった。

また、そのモノなるものを覚えたら掃き祓うことができるような拙い感のようなものがあった。それは人の縁なのか、史蹟に佇むことによって感受することなのか判然としなかったが、それはいつもながらの奇縁を運ぶ良機に乗るしかなかった。

 

東京からの時程では新青森を経由して弘前までの刻を要すが、単線の大湊線の最後部から望む陸奥湾の青さと丈のさほど高くない雑木林を後にする鉄路の景色は、窓枠をつかんで座席に膝立ちする童のような気分だった。

どこでもそうだが少ない乗客はスマホに夢中になって景色など興味がない。六ヶ所村の巨大な風車を超えると横浜町という駅に着く。これもユネスコ村のような駅舎だが、地元出身のオナゴは「沿線では一番大きな駅」と自慢する。

終点は大湊、海上自衛隊の北の要衝で、釜臥山に隠れるように基地がある。降りたところは一つ前の下北駅、ホテルは陸奥グランドホテル。電話をすると迎えに来た。

 

 

                

旅程は、昼に着いてグランドホテル内にある斗南藩の資料室を訪ね、近在の史跡を周り、ひと風呂浴びて夜には弘前に行く予定だった。いゃ、陸奥湾越に津軽半島の夕日を眺める経路が望みだった。

知人に陸奥の先導師がいる。生地ゆえだが醇な愛郷心は聴く者を旅に誘う雰囲気がある。普通は、金も、時間もと、聴く満足だが、津軽に旅慣れると機会を窺うようになるのも不思議なものだ。

到着後、報告のため連絡を入れた。前もって親切な郷人の連絡先を預けて戴いたが突然で、旅程もあり、報告のつもりが、オウム返しで郷人から連絡が入った。

 待ち合わせはホテルロビー。もともと先導師の伝言なのだろう、史蹟後、墓地、郷の陶芸家太郎仁窯を周遊した。時間を見計らったつもりだったが、太郎仁氏の話と清涼な自然環境に時を忘れてしまった。すると面白いもので、案内の郷人に「繁華街は近いですか・・・?」と尋ねた。すると「何時に迎えに行ったらいいですか・・・・?」と。

自然に「うむ・・、七時」と応えた。もう弘前行はなくなった。

ホテルのオーナーは余程の粋な気分を持った郷の長なのだろう、まるで使命感を持って収集したかのような資料と、その縁を郷に生かそうとする気概がみえる資料室を設えてあった。

 小腹がすいたので食堂に入ったら、どぶろく、とメニュー札が目に入った。

蕎麦を肴にコップ酒ならぬ、ドブロクを呑みこんだ。しばらく宙を眺めた。それほど美味しかった。以前、弘前駅が再開発される前の居酒屋の亭主と馴染になった折、事前連絡を入れると、山に分け入って山菜を採ったり、マタギに話をつけてドブロクを手に入れてくれたが、そのドブロクはどんぶりに粥のようなもので、水分も少なくスプーンで呑むより、口の中で噛むような感触があった。そしてジワリと酔いが滲みる。

食堂のドブロクもそれに近いものがあった。「これは・・・」とおばさんに尋ねると、ここで少し提供する試飲みたいなもので、外には出していません。と優しく応えた。

こうなると、呑ん平は狡知が働く。金持ちを見つけた税吏や隠れて違反を執る警吏の狡知も嗤えぬほど、詐知が生まれる。「部屋で呑みたいのですが、二合瓶に二本ほどいいですか・・」とへりくだる。「いいですよ」応えは優しかった。

よく考えたら、弘前行も忘れ、案内の郷人には夜を尋ねたが、肝心のホテルチェックインもしていなかった。二合瓶二本を抱えてチェックイン、部屋の冷蔵庫に貴重品のごとく安置して、風呂場に向かう。人も物も縁はまず添って、乗ってみることだとの実感だ。

きっと藩主容保ほか会津藩士も、弘前師団や斗南に縁があった秩父宮殿下も、きっとこのドブロクの味を知っていただろうと、妙な己の詐知の贖罪を想いつつ、落葉の浮かぶ湯に身をひたすこそばゆさがあった。

 この辺りは、あの津軽金木の資本家の息子のような放蕩噺もなければ、石高をごまかして瀟洒な城苑を構築された形跡もない。物語は少ないが、だからこそ人間がリアルな形で遺されている直感があった。もちろん類に漏れず閉鎖した巨大なショッピングセンターもあったが、いまはその建物をそのまま使って役所になっている妙智がある。弘前の歓楽地鍛冶町に類する夜の姿もあるが、いまでも、町村合併でむつ市では400件程、居酒屋は陸奥湾と津軽海峡の幸が豊富で、しかも都会ずれしていないところが柔らかい。

 

                 釜臥山 連山は恐山

 

 

翌朝、吉報?があった。

案内の郷人が件の食堂に掛け合って、ドブロクをもう二本用立ててくれた。

伺うと、以前このホテルに勤めたことがあり、みな仲間内のようなものだということだった。くわえて駅まで送ってくれるという。

定刻までの間、駅舎の外で紫煙を愉しんだ。中年の女性も紛れ込んだ。

改札を抜け、ホームに並ぶと後ろのフェンス越しに郷人はいた。電車に乗り発車するまで、いや発車してしばらく遠ざかり、見えなくなるまでその場にいてくれた。

一番後ろに乗って車窓をみると、電車の下から二本の鉄路がトコロテンのように押し出されるよう見えた。そのトコロテンの押し出し口のような窓から惜しむより、また必ず来ますと、ペコペコ頭を下げる童のような男が自分だった。

久しぶりにみた、我が身を刻み遺したい斗南の憧憬だった。

 

                      松平容保公

 

きっと、東京に上る容保公も残る藩士も、悲哀より下北への憧憬があったのだろう。

その呼応がなければ、あの賢将の柴五郎の説明もつかない。

なにより、図らずも朝敵となり、会津を惨禍に貶めた討幕軍が、御旗として推戴した宮家の系である秩父宮殿下に入籍した世津子(節子)妃殿下は、いくら計略といっても会津の姫君であったことは、宮家の真の意志と忠恕ある寛容な心であることは疑いもない事実だ。

 

                      秩父宮御夫妻

 

しかも会津の残影としてあるだけでなく、斗南の地に兢々として心香を献じた殿下の残照として今でも史蹟は丁重に護持されていることでもわかる。

それは、過酷な地へ移封した新政府との融和ではなく、もともと矜持として会津士魂を支えた勤王の大御心への忠誠であり、それら応えた黙契の表れが斗南に顕在する証しだ

分るものが判ればいい、そんな深層の情緒に黙礼せざるを得ない良機の旅だった。

 

イメージは関係サイト・陸奥グランドホテル資料室より

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