まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

陛下から眺望する時節の権力

2017-11-25 17:57:10 | Weblog

屋上屋には敗戦の頸木なのか、我が国の権力上位とも思われる米国軍との「日米地位協定」なるものがある。

有事の指揮権すら移譲する悲哀に満ちた国家ではあるが、遠望の果てには何があるのだろうか。

                   

 

本文

いくら討幕諸藩の無頼の徒が錦旗を押し立てて狼煙を上げ、曲りなりらも新政府を作り、これまた王政の復古を唱えても、もともと無頼の衆の狭い企図は切り張りしたパッチワークのような新政府の構成でしかなかった。

よく計略の長州、愚直の薩摩、実学の鍋島と聴くが、指導権争いは運動会の棒倒しの児戯の有様だった。しかもそれぞれが大義や国益を唱え、多くの血が流され、一方は国賊として,勝者は名利衣冠を欲しいままに新興財閥と同衾するように蓄財するものもいた。

また、教育は今のように無情理、無教養ではなかったが数値順位がその後の官位に幅を利かせた。だが、人物登用については人物の識見、胆力を基とした見るべき眼があった。
つまり、貪らない、土壇場で逃げない、下座観、忠恕心などがその観人則になり、その収斂された目的の背景に陛下の大御心があった。併合した韓国の地域自立への扶助、台湾の開発など莫大な国家予算を投じて国内よりも優れた施設を建設して自立を援けている。
それには人物の登用が成否を決めた。児玉源太郎の後藤新平への無条件の信頼と応える政策など、慣習化され弛緩したように見える官域では考えられない突破力と視点を持っていた。










後藤が赴任して先ず行ったことは、現地の弛緩、堕落した官吏を内地に召喚して、無名だが新進気鋭の官吏を登用している。民衆の感ずる為政者の意志と、寄せる信頼が変化した。八田与一の灌漑工事をはじめ多くの業績も短期間で成しえたように、自発的な民衆の協力は民族を超えた官民の一体感を構成した。いまは禁忌のような逸話だが、先の大戦でも当初は台湾の徴兵は行わなかったが、多くの現地青年は志願兵として率先応募している。

また、後藤の呼びかけで児玉の好んだ景勝の地である神奈川県江の島に児玉神社を建立する際、日本側の献金は乏しかった。それに応じて台湾の人々は建築資金の七割を拠出している。狛犬、鳥居、などには台湾名が刻まれ、神殿、神楽殿は台湾ヒノキだ。
いくら植民地だ、統治下だといっても、日露戦争の軍神と謳われた児玉将軍を祀る神社にこれ程の賛助を行なったことは、しかも台湾名で石刻することは特筆される歴史の遺産でもあろう。また、現地台北の芝山厳には教育殉難者六名を祈念する墓苑が整備されている。いっとき朽ちていたところ、台北市長だった陳水篇氏(後の総統)によって立派な墓苑として整えられている。






教育殉難 六士先生



台湾の例だが、これこそ大御心を呈した人物の事業であり、民族普遍な精神的集積事業であろう。物質的生産性が謳われる現在、精神的生産の蓄積は先の東日本被災に台湾の人々から侠助された物質的援助と精神的同情の心は、馬英九総統の政治的救援意志を大きく凌駕し、これほど日本と台湾の精神的同情が底流に蓄積されていたとは量れなかったと、その後の台中政策すら慎重にならざるを得ない状況まで作り出している。
三食を二食にしても、子供の貯金を、事業の蓄財を、と多くの台湾民衆の人情は一瞬にして爆発した。そして彼らは台湾に祖を持つことに誇りを持ち連帯を確かめ、くわえて政治を超えて情理、人情が優先することを示した。これこそ台湾の意志であり、日本人が敬して忘れざる先人への愛顧だった。









余談だか、戦後蒋介石総統が「怨みに報いるに徳を以て行う」と命令を発し、官民の帰還者を多くの船舶をもって無事、内地に帰還させた。
その後、国会議員が表敬の折に謝意を呈したとき蒋介石はこう応えた。
私に礼は要らない。礼はあなた方の先輩に云うべきだ。もう少し歴史を学ぶべきだ」
蒋介石の意はこうだ。

蒋介石は国民党の創設者で大陸と台湾双方から国父として讃えられている孫文が行った中国近代化の魁、辛亥革命に共に戦った日本人同志のことを忘れなかった。
孫文が真の日本人と讃えた当時台湾民政長官後藤新平、犬養毅、宮崎滔天、萱野長知、頭山満、そして戦闘で亡くなった山田良政、孫文の側近山田純三郎など、当時蒋介石は孫文に会うのには山田純三郎を通じなければならなかった。また孫文に問われた後継者に蒋介石を推したのも山田だった。






山田 孫文



孫文は「万里の長城以北は我関せず」(ロシア革命の領袖ゲルショニとの会談)と、日本の手で満州にパラダイスを築いてロシアの南下を押さえて欲しい、との桂太郎との約束を守るために蒋介石を日本名石岡、山田,丁仁傑の三人を満州工作に派遣している。
失敗して戻った時、蒋介石は顔を真っ赤にして「騙されました」と詫びた。それを見た秋山真之や山田は「蒋君が何かあったら援けよう」と話し合った。

そんな蒋介石と明治の日本人の関係だ。しかし、その後の軍の増長は「大身心を呈していない、それを皇軍、聖戦とは・・・」と現地軍若杉参謀(高松宮)の危惧した状況は泥沼の日中戦となり、第三国の謀略にも易々と乗ずる失態をして、しかも隠蔽糊塗する軍官吏エリートの責任回避の官癖を露呈した。



I







陛下は、現憲法を外国の智慧を活かした内容でもある、との考えをお示しした。そして即位の宣言では「日本国憲法を守り・・」と仰せられた。
世上に借り物、押しつけ、弱体化、と論はあるが、それなら改憲ではなく新憲法が筋だ。
前提は、以下に書く「本(もと)」するならそれも可能だろう。

陛下は海外の激戦地慰霊を巡行し、天変地異の被災には彼の地を訪れ、僻地や離島にも足を運ばれ、海外で現地の人たちのために精励する方たちを常に心慮し激励する。
また、いくら国威伸張や国家の生命線といって最後は塗炭の苦しみを国民に与えた歴史について,押し止められなかった慚愧の念は皇祖の大御心を鑑として無念の情さえ推察する。

現状追認に易々と乗じる政治とその状況、その根底には名利衣冠を企図する人生の成功価値、それをコントロールできない選良と模倣する衆愚の人々。
歴史の内省は他国の嘲りもあるが、自責はそれを超えて連綿とした自国の歴史の至るところに存在する。また易き方向に乗ずる悪しき習慣性も一部には沈滞している。
他国を批判することは容易いことだが、慎みのない権力は民主公選の一方の弊害を為政者の方向性を歪め、自責心の薄い官吏を安易に従順せしめている。
いわんや、大御心など心とする余裕もなくなっている。
国家は領土・伝統・人民、とはいうが、地球の棲み分けられた地域には精霊が存在する。また、多くの人々や動植物の死類が土地には堆積し、霊という名において生存するものへの精神的、物質的恩恵を与えている







神は己の玄宮(奥深い処)に在り



神は「示す」と「申す」と古人は言う。行動語りは他にはない。己自身に存在する。
それは大御心が神との言葉繋ぎだとしても、模倣すれば自身でも容易にできることだ。
分別でいえば、大多数の生業が商いのようになった。経済、政治、教育、すべて数値に換算され富の多寡までその仕組みに組み込まれた。

国家のパワーバロメーターも軍事力、経済力も比較競争にさらされている。
歴史を俯瞰すれば、辿ってきた道への内省と歴史の切り口が現状追認に陥っているようにもみえる。

どうだろうか、大御心の由縁と添う心は失くしたのだろうか。
それとも、難しくも、古臭いと忌避しているのだろうか。
しかし、真の国力である深層の情理を維持する無声の民は眺めている。
いくら歴史の循環だとしても、慎みを失くした権力の行く末は見えている


「外の賊を破ること易し 内なる賊を破ること難し」

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