律令の頃より統治機構は幾たびか変りそこに棲む人々の呼称もその都度変化している。民草、民百姓、国民、近頃では連帯の解き放たれた市民ともいうが、大御宝(おおみたから)と呼ばれていることを人々は知らないだろう。
原住民であろうが、渡来人であろうが、私たち日本人は大御宝と呼ばれている。
それは一時の気分で詐欺師、泥棒、になったものや、此の地で家系を繋ぐ渡来人、はたまた腐敗官吏や汚職政治家など、罪穢れを背負い贖罪に生きるものでも「大御宝」(オオミダカラ)には変らない。
西洋学的には亡羊で掴みどころの無い意味だが、これほど無形の連帯を含んだものは無い。他国に侵入し奪略の後に「赦し」を乞う、いやそれを以てオー・マイ・ゴッドと連呼する騒ぎとは異質の感覚である。
その「大御宝」と呼ぶお方は「様々な問題に直面したとき、その存在を思い出してくれればいい・・」と多くを語らずにいる。
そのお方は夏の暑い頃から常人では苦痛になった正座(静座)の鍛錬を怠らず、深夜寒中に執り行われるその家系の一番大切な儀式のために準備している。
お茶の稽古や武道の鍛錬である文武の芸や技ではなく、その儀式は前章にあげたこそ泥のような官吏や政治家をも抱合した大御宝のために自らの御身を祷りの中に献じている。
その祈りは国民の生命と財産の守りではない。人間の尊厳の護持である。
かといって初詣のような、゛お願い゛では無い。
大自然の恵みをうける人間界からの感謝であり、調和の前提となる「礼」、つまり「辞譲」という、゛ゆずる゛姿である。
一昔前は軍服を着せて御輿に乗せたものがいたが、その錯覚した有り様は終に人々に塗炭の戦禍を招いてしまった。ただその一過性の群行の及ぼしたものは近代化の負として劫火のなかに消滅したが、その始末には余人をもっても代えられない其の方の巳を挺した行動が穢れを排している。
そのありようは「所有」という私欲の及ぼす姿はなく、迎合と卑屈が入り混じった一部の人たちの性癖にある嫉妬、覗き見的観察に晒されても微動もすることの無い徳威を護持している。
かといって、浪費税金を払え、票をくれ、感謝しろ、とは発しない。
もちろん、家内(いえうち)の事など語らず無私を貫いている。
そんな人から「大御宝」と呼ばれている人々は、時折その絆のあるを忘れる。
でも『その絆さえ見えなくてよいものだ・・』
いつも、そう応えが返ってくる。
確かに「一人を以て国は興る」というが、大御宝にとっては倣うべきお方だ。
とくに高位高官にあるものは大御宝と呼ばれて恥ずかしいことは出来ないはずだが・・・