まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「安岡学」などというものは無い 10 4/28 再

2016-12-29 12:00:10 | Weblog

 

 

数多,古典を活用しつつ世間に説く中の一人の人物である。
総称すれば西田哲学などと呼ぶものと同様、その意味では安岡学であり、安岡流古典活学である。書物を基とするならば原典ではなく倣いの応用説である。

安岡氏の説かれる前提には、幼少の倣いとした明治の気風と簡潔表現、そして機に符合した建言は文部省の官学にはない新鮮さと切り口がある。そして知には識という道理を添えて「知識」にしている。しかしステータスやエピソード、あるいは安直学にある表層の「安岡学」に堕する危険性があるのではないか。筆者は安岡氏と昵懇の高齢の道縁に危惧を伝えたことがある。

人には表裏の経過と歓喜苦渋した履歴がある。
しかも、これ等のネガティブな面をほじくり、ときに全てを否定することもある。
安岡氏でいえば、あの細木女史のことが騒がれたら、今どき弟子と詐称しているものまで当時は、゛青菜に塩゛の状態であった。細木氏が分与された貴重な蔵書は韓国の大学に寄付されているという。アツモノなのか、高弟、愚弟を問わず、いずれもよそ見を決め込んでいた。こちらにあるのは著作権と称する利を生む代物である。

本来人物に興味を持ち,倣い知ろうとするものは生地の環境、家族関係、幼少の習慣性を培った師と学問形式などがあるが、学校歴やエピソードなどは本質に対する附属のようなものである。
その意味で、どのような書籍を読み、関連付け、自身の特徴を発見して伸ばしたのか、それを知るには蔵書の蓄積傾向が必要になってくる。

当時、財界、政界、にも弟子と称するファンも綺羅星のように存在していたが、誰一人として前章の意による倣い、つまり陽明にある伝習さえもない意志や意気、はたまた胆力など、もともと有しない者が多かった。

その点、誰も細木氏を責められまい。彼女とて安岡氏と知り合いたく師友会の事務所近くの安岡氏の立ち寄る店で待っていたという向学心ならね積極性があった。
謦咳に接したとか、直弟子の話を聴いた、名のある子息の話を聴いた、テープを何十万支払って買ったと吹聴するなどの浮遊学徒からすればのハナシだが・・・

夫々は臨機、臨度の考察の事例や身の処し方を伝えるが、文の華麗さとか口舌の巧みさは真の内容ではなく、伝え方の術である。

加えて、履歴エピソードにちりばめられた高名な人物との交流や歴史の記述に関わったことなどは一過性の流行学の帯表紙の類である。

『無名は有力だ』『政治家は人物二流でしかなれない』『音声は知性を表す』
書斎での茶飲みハナシだが筆者はよくこの言葉を聴いた

氏は多くの有名な政治家,軍人交流があり、甲高い声は教場に合うが肉体的衝撃に敢えて向かう重厚な胆力とは異なる。

また大久保利通の子息牧野内大臣に多くの献策提案を送っている。それは一抱えもあろうほどだ。




                







戦後『謀略というもの・・・』について記しているが、北進を南進に転換させた軍事委員会国際問題研究所

(蒋介石下の情報機関でゾルゲ機関と連携、内外構成員に尾崎、青山和夫、苗剣秋、野坂がおり資金は英国情報機関)のリーダー王梵生(戦後中華民国駐日参事官)を講演で「人物」と褒め上げている。

尾崎からの誤った情報は近衛をして敗戦間際までソ連の仲介に希望を託し、終戦間際の蛍の飛ぶ季節に新潟岩室の綿々亭で安岡氏と相談している。もちろん秘密協議だか陪席は新潟県知事である。

余談だが
道縁の士が新潟に行く機会があった。「知事を紹介願えるか」との依頼に『知事より傑物を紹介する』と、山本五十六大将と昵懇の反町氏を紹介されたことがあった。安岡氏にとっても新潟は縁の深いところでもある。岩室温泉は長岡の奥座敷で弥彦をはさんだ鎮まりのあるところである。

つい最近まで苗剣秋の大書を嵐山の郷学研修所の資料室に掲げ、終戦に導くための日本の実力者としてリストアップされた米資料のトップに安岡氏の名があると誇らしげに陳列してあった。

筆者は即刻、館長に撤去を促した。

なぜなら、苗氏は西安事件の真の首謀者で国際問題研究所の日本駐在だからだ。ただ、苗氏は人物である。張学良と仲良く、張作林に見込まれ日本に留学、帝大、高等文官試験を経て東北軍の顧問となり、周恩来とも昵懇である。西安事件は周恩来と苗、そして苗氏の妻が吐露した『張さんはお坊ちゃんですょ』といわれた張学良によるものだ。苗氏は筆者に『男は世界史に載る様でなければ・・・』と「天下公のためその中に道あり」(和訳)の色紙を託した。

リストの一番上の記載は彼等にとっても、゛一番役立つ゛ことである。
また、王梵生氏と義兄弟だった宮元利直宅には安岡氏の書簡が多くあった。その関係を知るものは少ない。戦犯回避、当時誰もが望んでいたものだ。

中華民国と断交とき日本側特使が安岡氏の起した書簡を携えて蒋介石の寛恕を請うた。
安岡氏はそのときこう言った『これで理解されるだろう』と。
秘められた関係事情は、近づいてきた外国特務の意図を読み解けなかった人物の利用意図でもある。蒋介石はその書簡の作成者を知っていて、敢えて大人の風を整えた。






                  








あるとき虎ノ門の研修会の折、控え室に客員として来場していた佐藤慎一郎氏が訪ねた。
佐藤氏は中国滞在二十年、無名を貫くが現地の古典、俗諺のありようを人々と共に実感した人物であり、孫文の側近で末期の水をとった国民党最高顧問、山田純三郎の甥である。
しかも孫文に問われて後継総統に蒋介石を推薦したのも山田であるという関係である。





                    





また、中国問題の総理報告を行い、部数は手書きにして6部、内閣調査室が毎月聴取していた。あるとき後進に委ねたいと申し入れたら、「高名な研究家は沢山いるが、何処で何を決断し、何を目的に行なうかを中国人の側に立って考え方を測れるのは佐藤先生しかいない」と、なかなか辞めることはできなかった。
池田、佐藤、福田、こと中国問題においては佐藤氏を頼りにしていた。
安岡氏と懇談していたところに福田総理が入ってきて慇懃に労いの礼を述べている。

杉並の団地の一室には多くの中国高官も訪ねている。
まさに無名で有力な傑物であるが、大らかで腰の低い姿は、自らスコップで墓穴まで掘ったという獄舎にあっても,中国官吏に畏敬さえ覚えさせる剛毅、高潔な気風を漂わせる人物である。つまり譲るという柔軟さと「公」に殉ずる覚悟が肉体に浸透した人間の趣があった。

その佐藤氏が、めったに現存人物を誉めない安岡氏が特務の最高責任者王梵生氏を「人物」と褒め上げたことについて、人払いをして「彼は北進論を南進に転換させ米英と衝突させた張本人ですよ」と告げたところ、見る間に真っ青になって押し黙ってしまった。

その後、頻繁に『謀略というものは・・・』との記述が多くなった。

また、安岡氏は総理の指南役といわれた戦後は政治を語るが政局は語ることは無かった。
軍部ではなく宮中に連なる内大臣、そして陸軍に抗する海軍の一種当世外務省の如く貴族的軍官吏との関係を深くして大東亜省顧問となり、かつ牧野の縁戚である吉田総理の縁から時世各界につないできた。

そこには明治以降の一部陸軍の暴走に手を拱くようになった宮中派と称する人たちの諫言行動ではなく、悲観的傍観という肉体的衝撃をものともせず抗することの馴染まない人たちの一方の群れだった。
それは、゛江戸の仇は長崎で゛と考える狡猾な官吏に抗しきれずに順化する自民党、民主党をはじめとする現状追認の陥った政治家の姿と同じようだ。
あの時も、事変拡大を現状として追認し、尊い犠牲、統帥権が、昨今は国民生活の為、政策の連続性といわれ何ら論することのではない議員のようで変わっていない。
軍や官吏の不正や利得の言い訳をする与党の姿も同様だ。

以前、赤尾敏氏とキャッチボールの如く試されたことを記したが,その時も「白足袋学者」といわれた。一時、同門にあった後の血盟団メンバーの四元氏等も「勇ましいことを言うが優柔不断で、付き合う連中は財閥、軍人が多い・・」と袂を別けている。






                






安岡氏が国家についてこう述べている。
「多岐複雑な要因によって構成されている国家・・・」

だとすれば人間も、表裏、内外、臨機、臨度に複雑な考察によって口舌なり行動が成されているとしたら、夫々を組み合わせれば無限の考察ができるはずだ。
ただ、そこには個々夫々の特徴ある座標がなければならない。つまり社会を構成する人々の調和と連帯のありようと、「私」からパブリックへの広がりだ。

前記に綴った章は人物の裏のネガティブな部分の抽出ではない。
人物の口舌、文章に現れるものの辿り着く経過である。
たとえば、神棚も普段は埃だらけでも必要なときには手を合わせ願うのが人の倣いだ。聖書を懐に大量殺人をして許しを請う。

コンプライアンス、組織、マニュアル、不景気、亡羊な自身、不確実な将来、道理が無い知のみの好学の心、これらは全て人間の問題である。安岡氏も途方にくれ、多くの徒労と錯誤を経て古典(生活経過と、人の昔話)に辿り着いた。
「西洋の学はノイローゼになることがある。そんな時東洋の古典は何ともいわれぬ潤いがある」ある講義での言葉だ。

明治以降の文部省官製学制のカリキュラムには人間学はない。後藤、児玉も秋山も龍馬も松陰のような先覚者は見当たらない。

いまは、ただ傍観し憧れているだけだ。知ってはいるが行なわない


歴史の先達であり倣うべき人格者である安岡正篤先生を評することは忸怩たるものがあり、かつ当世学徒の誠に惜しむべき傾向に異を唱える辛さもある。しかし、各々学徒が自身の潜在する能力を発見して伸ばす為の活学として、また自身の座標構築の糧として歴史の碩学を用いていただければ、さぞかし氏も欣快な境地かとおもう。

何よりもも説く事より説き方に覚悟を観ることだ。
あの時の、あの場に自身を置けば自ずと理解できることだ。




            




以下は、ある時の筆者の観方ですが、重複することもありますが必要とならば参照のほど


安岡氏の説くものはマニュアル学ではない。とくに明治以降の官制学(文部省)の六、三、三制カリキュラムに忌諱された独立した人間学的要素と古典を加味した説である。

原典は安岡氏ではなく、あくまで歴史の森羅万象に刻まれた逸話や隣国の古典の応用活学である。

また明治人の実直さと緊張、おおらかな洒脱、エリートに有りがちなニヒリズム、全てを複雑にも抱合して臨機や臨度に符合させた柔軟性である。

政財界との係わりを云々され、それが恰も大物然として持て囃され、安心材として数多の金屏風として重用されたことは氏としても鬱積したものがあった。

とくに政財界の腐敗,官吏の堕落、大衆の流行迎合性などは筆者もその呻吟を幾度か聴き問答した。


だがこれは決して学問の堕落や完成度ではなく、人そのものの欲望に起因する、もしくは良質な異物でも摺りあうことによって生ずるであろう嫉妬、競争心のコントロールであり、他に配慮忖度する心の在るを知らない家庭や社会の修得錬度 の衰えとして考えたものである。

その衰えに対する問題意識は過去の歴史に刻まれた栄枯盛衰に観ることが必要なことだとも考えた。






                







安岡氏の数々の格言、経国論は以上の解決の為に必須な前提として提供したものである。あくまで自身が問題意識を立て、運命論に怠惰にならず、立命(やりたいこと、でなく、やるべきことの行動発起)を促したのである。

惜しいことに現代人は理解度は書籍に宿ることが多い。格言に頷くしか手が無い。氏の意思は一時の清涼剤ではなく、立って興すための前提である。

知って教えず、学んで行なわずして何が人生だろうか。

安岡氏は殊の外、脇が甘かった。 人は寛容とも云う。
政財界から官僚や任侠、大陸浪人や外国の諜報員など数多である。ときには騙されることもあった。そして酒席にも出向き艶のあることもあった。

ただ巷の評論家と異なり政局を語ることはなかった。政敵同士の相談にも応えた。難しくも、切なくも、憂いて余りある己の立場を考慮した。

きっと壷中天有りの境地であり、六然とは己に制した銘でも有ったと思う。
筆者がその雰囲気と風が感じられたのは、白山の書斎でピースを気持ちよくたしなむ時だった.

 

 

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