まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

今どき、国家の在ることを知らず    07 12/26再 あのころ

2012-10-16 16:17:43 | Weblog


 前総理の掲げた美しい国や愛国心という文字に想像を膨らませた国民だったが、その後の官僚、官吏の不作為行為や横領にみる年金問題や、国防に携わる機関や族議員と称する輩の貰い扶持問題や官僚の堕落は、立法府である国会問答において、官吏の腐敗堕落の言い訳に終始するおかしな大臣職責に陥り、権力を構成する与党がつねに守勢に立つ姿を国民大衆に晒している。

 それはいくらかマシだと思われた青年宰相の掲げた国家の連帯と大義ではあったが、 謂わずものながら、はかなくも国家の、いや日本人の実態である。

 国家を運営する政府と官吏、そして選良といわれる議員諸氏に問う、そもそも君たちは何者なのか

゛政治家は国民を騙して雄弁家と謂う゛いまさら聞き飽きた文句だが、それに続く権力保持者の実態として官吏、教育者、宗教家、金融実務家など、歴史の教訓に示されている姿が、斯くも鮮明に人間の所作として具現された時代は果たして在っただろうか。

 世情は年末に入って毎日のように首都圏近郊鉄道では投身事故が発生している。人間同士の殺し合いは家庭や学校にも浸透し、国民同士が騙しあい、隣人すら信じられなくなったが、それらは何れも解決の途は無い。

 唐突だが、いくらか関連性のある歴史にリンクしてみよう。
孫文は謂う。『共産主義は我国の大同思想と同様におもえる』と、それは伸張した日本の対支政策に切迫した革命の状況に追い詰められた選択でもあったが、今となっては二十世紀の共産と解放を掲げた実験国家は為政者の恐怖と管理による人為的人口減政策によって専制独裁を構築した。スターリンの粛清、毛沢東の7000万人といわれる人民の死、ポルポドによる知識人富裕層の殺戮は、飛躍すれば中世のヨーロッパにおいて宗教的にも賎民の生業といわれていた金貸し、転じて国際金融の独占管理を企てる勢力の最終的支配意図に踊らされているようにも見える。
唐突にも飛躍というのは、プロパガンダに侵食された民衆にとっては理解の淵に届くには多くの時間と実証論拠のための膨大な口舌を用意しなければならないからだ。
「亡国の後、はじめてその亡国を知る」とは至言であろう。













 しかも、その実験の結果一番効果的なのは、恣意的な大義である自由と民主という文字が、そもそも国家民族の国たるを成さしめる連体を解体し、情緒を融解させるには最も効果的なスローガンだということが二十世紀の戦火と思想闘争によって分かってきた。

 そして消費資本の市場拡大において繁栄に付随する自由と民主の幸福感として反対を許さないロジックとなり、却って情緒の自由展開を狭め人々の行動までも閉鎖的にしている。
 しかも、あまりに美麗な「自由」と「民主」の字句に添う継続的平和の欲求は「個性」あるいは包括的に使われる「個性的」の字句とあいまって、よりその問題の実態をおぼろげにしてしまうようだ。
 とくに人間の問題を抜きにして、組織、システムにそのその効劣を論ずる姿勢は選良といわれる議員諸氏の脳髄に染み付き、いとも高邁な抗論こそ、゛国民の為゛とばかり鎮まりのない争論を繰り広げている。

 それは、゛日本がいつの間にかおかしくなった゛゛日本人が変わった゛と察知した日本人だが、鎮まりを持った思考や観照を融解させてしまったために、あるいは明治以降の官制学校歴マニュアルには到底解けない難問に立ち止まり、富と権力の走狗に入る売文の輩や言論貴族といった似非知識人の高邁な駄論の餌食になっている嘆かわしい状態と同様なものがある。

 人は生まれながら学まずとも、教えられずとも「反応」をもっている。もちろん好転反応もあれば別な反応もあるが、長じて言い換えれば直観力ともいえるものだが、官制学校歴マニュアルはこの直観力をあまりにも亡羊で実証が不可能であると否定し、これなくして「本」も「始まり」もない学問を根本的に錯覚している状態である。

 安岡正篤氏は、「真に頭の良いということは直観力がいかに研ぎ澄まされているかということだ」と言い、僭越にも付け加えるとしたら、その直観力を引き出す触媒としての優良なる刺激がなくてはならない。その刺激とは培われた情緒であろう。
 また氏は国家になぞらえて、「地球は幾十億年掛かって生命を創り、人間を生み、心霊を高め、民族を育て国家を拓いて人類文明を発展させてきた・・」また、「そこには常に試練と犠牲がなくして行われない・・・」と説く。
 たしかに「学校歴」を学歴と偽称する錯覚もそうだが、四角四面に文字に映る美辞麗句を吾身の安逸の保証と考えている人々にとっては歴史を俯瞰した直観力など理解の淵には届かないだろう。前章にある膨大な論証と口舌を用いなければならないとはこのことである。

 それはワンフレーズに踊った小泉純一郎議員の演説にみる理解よりイメージフレーズに観照と思考の欠落を見たように、いや今となっては昂揚して踊った状況に群行した聴衆の姿に見ることができる。
 
 あるいは流行りモノの書に「国家の品格」「ばかの壁」という出版物がある。
前書は高邁なイメージ、あとはハテナ?への飛び付きであるが、商業出版の類にあるハヤリ表題でもある。また作法は語り文のためか、読みやすく分かりやすい今時の構成ではあるが、それが品格を形づくる品性の、いや特徴ある各々の人格を問うものなのだろうか。まして部数を競い金になる突飛な表題は隣国の古語にみる「智は大偽を生ず」「小人の学、利にすすむ」に映すような売文の徒や言論貴族といった、昔なら、゛人品骨柄卑しく・・・゛と切り捨てられた類であろう。

以下 隔週に続く
コメント
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