まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

相撲も野球もプロという興行

2011-03-27 19:09:04 | Weblog

                       写真はデイリースポーツより

選手や力士に罪は無い


全国津々浦々の興行、イベントは未曾有の震災に配慮して中止や延期をしている。
街のスナックや居酒屋で予約されていた送別会や親睦会までキャンセルが多くなっている。
なかには、形式的な付き合い宴会に疑問を持っていた若者にとっては、ごく自然に受け入れられた。時宜を得た選択という名目があったとしても、歳時の倣いになった酒会は考え直す風潮にある。形式的といえば冠婚葬祭が代表的なところだが、結婚は経済事情もあり地味婚が流行り、葬儀は家族葬、密葬と称して経費のかからない葬儀が多く見られるようになった

あのとき、陛下のご平癒を祷り歌舞音曲も控えた。地震災害や火山の噴火もそうだった。だだ、これも納得性の問題なのか、青少年の育成を冠としたスポーツや催しについては計画通り行なわれることが例外的に行なわれた。いや様子見と按配なのだろう。

中止といえば、相撲の八百長問題でも法律的に問題があることではないが、自主的懲罰として中止している。ことは、合わせる顔がない、ということだ。それと内なる掟や習慣と成文された法律条文とのすり合わせに苦悩して明確な説明が出来ないことでもあるが、大多数の大向うのというべき人々との阿吽の繋がりがあっても、取り付く智慧が湧かないことが解決を遅らせているようだ。
最後は堂々とした言論と態度の問題に帰結するようだが、時宜の人物が得られない悩ましい問題でもある。
それでも、ことは商業興行である。食い扶持からみて敢えて矮小化すれば、スナックや居酒屋の人寄せイベントのようなものだ。

その商業興行といえばサッカーも野球もある。
本場米国で曰く、ベースボールではない、日本の野球である。
相撲は化粧まわしと土俵に髷である。野球は球技場に運動着にバットとミットにボール。団体競技と個人技の違いはあるが、客から木戸銭を貰い運動を見せるのは同じだ。
あえて横文字や職域言葉を使わずとも同類である。 試合の差配が行事か審判の違いはあるが、人寄せ興行は同じようだ。近くで見るのは砂被りとバックネット裏のボックスシートと言い方は変わるが、ともに高価で貴重になっている。

ローマのコロシアムもそうだった。飽きてくると支配地から猛獣を連れてきて奴隷と闘わせた。相撲も野球も外人がいなければ成り立たなくなった。つまり目慣れ、目垢がつくまえに目新しい大男か青い目をした異民族を用いるのも似ている。
次はどんな嗜好なのか見当もつかないが、ともに大金を並べれば済むことであり、精神性や内容は周辺言論や売文に煽らせて、大きな箱を一杯にすることが興業主の主眼である。

野球について言えば内務官僚の正力松太郎氏が音頭を取った興業野球だが、宣伝媒体である読売、日本テレビが巨人軍、一昔前はマスコミ資本の大毎オリオンズ、産経スワローズ、中日ドラゴンズが煽り立て、西武、西鉄、国鉄、阪急、阪神が球場まで人を乗せた。映画の大映や東映もそこに並び、近頃では金貸しと保険のオリックス、新興IT企業も参列している。

八百長とはいわないが、仕掛けはある。捨て試合もある。打率を競っていれば分母である打席には立たずサボタージュする。観客は知っているから騒がない。知らないのは健全育成スポーツとなった野球に打ち込む子供たちである。高校野球になると薄々大人社会がわかるようになり、くじ引き就職や金で交換売り買いすることも耳目を集めたイベントとして商業マスコミが騒ぐが、慣れてくると異論は偏論として忌諱される。








未だ木鶏に至らず  双葉山関


これが相撲界であったら一大抗争となる。かれらは欧米のアカデミックなスポーツ論や経営論は馴染まない。金銭トレードや星勘定で休んだり、捨て相撲などしたら八百長どころではないはずだ。裏では大男が気色ばんで争いになる、つまり死闘になる。
そこには金ではすまない意地と人情がある。昔は食減らしや異形ゆえ就職がままならなかった若者を我が子のように育て、部屋を継がせようと思ったら金に転んだのでは、世間様にも示しがつかない。

高校野球のように監督が食料費や運動費を貰って生徒を好みの球団に入れることがあったが、また、相撲取りのほうが純情さは残っている。
悪い風潮なのかスター選手が幾ら貰ったか、何処とどこを天秤に掛けているか、あるいは三百代言の腕はどうか、などマスコミが煽ると、すべての少年野球が、゛売り物になるまで゛と女郎屋の水揚げみたいになってしまっている。
彼等の世界には世間様がどんな意識を持つかとか、その風潮が至極当然のように慣れさせるためにスターを作りエキサイティングに騒ぎ立てることがまともな思考を忘却させることへの危惧を考えない。

たしかに3Sといって、スポーツ、セックス、サイレントを操縦できれば人々はまともな事を考えなくなり奴隷化するというが、そのためには普遍的ではない掟や習慣によって整えられていた世界を無意味なものとして、聞くだけで満足する説明責任を強要して継続習慣を破壊してしまうようだ。
なにも相撲を擁護するものではない。厳存していたものの見方の問題だ。

ともに人の平常時にはない競いや戦いを商業興行とする周辺は、゛まとも゛ではないキワモノの世界のようだ。

以前、西鉄ライオンズの黒い切り事件で疑いがあり永久追放された池永投手がいる。当時は国会でも民間組織の問題が取り上げられた。法人格だからではあろうが、あの頃から国家や国民、外交矜持などはマスコミ耳目を集めない硬モノの風潮があったのか、高位高官や政治家まで大人たちが生真面目風に八百長問題を論議した。反応したのは球団経営者である。即刻、疑わしいものは追放となった。

あるとき福岡の中洲にドーベルという店を経営していた池永氏を訪ねたことがある。
北九州の道縁の老師から追放解除という地元の声があるといわれたことが切っかけだったが、同じ道縁にコミッショナーだった川島広守の存在を思い出し、件の要望を伝えたとき感触があった。そこで池永氏を訪ねた。何分初対面なので老師の縁者だった稲尾和久氏にゴルフ場まで電話して往訪を連絡してもらった。
店のトイレには多くのファンが書き込んだ紙が壁一面に貼ってある。ときおり客に応じてボールにサインをしていた。

カウンター越しの会話だったが・・・
『何の用ですか・・』
連絡が届いていなかったようで、ことのほかぶっきら棒だった。
いきさつを話して・・・
「下関球場で若者に野球を教えていることを聴きましたが、野球はプロの興業野球だけではないですね」
一瞬、乗り出したようだった。
『楽しいですよ』
「あの件は興業野球の都合です。追放は狭い範囲の世界ですよ。野球が楽しくてしょうがない子供たちには関係ないことです」
聞き耳を立ててくれた。
『そうゆう話はあまり聴いたことが無いが、自分も子供の頃は野球しか見てなかった』
「子供が喜んで夢が見れるなら、追放はあの世界のことですよ」
当日か前日かは不明だが、ボックスに東尾氏と大橋巨泉氏が来たと記憶している。

一杯しか呑まない客だったが、エレベーターまで送ってもらって最後は互いに慇懃な挨拶をした。
子供の夢・・・・
その夢に蠢く大人たち・・・

選手会長の阪神新井選手は被災を我がことのように哀しみ,爽やかな涙をみせ「後は俺達が・・・」と、国民に語った。
その清新さは池永氏がみた下関球場の子供たちと同じだった。
゛男の子がいた゛そして倣うべき人物となって成長した野球少年がいた。

また、学ばせていただいた。
コメント
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