まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

知的直観力の養い方

2007-10-07 20:01:26 | Weblog
 
            児玉源太郎氏
 

「真に頭のよいということは直観力の如何にある」安岡正篤


以下、アジアの意志シンポジュームにおける筆者の応答

 『知的直観という言葉は自然に沿った観察力とも考えますが、観察するという意味の「観る」です。目で見るだけでは透徹した見方はできません。

 大学でアジアの留学生にお話をするのですが、「無財の力」とは、財が無いことの力ということです。それは人間のごくありふれた心を価値とすることではなく、車がない、お金がない、彼女がいない、だから何も出来ないという外的要因だけではなく、お金が無くても、いや無くなって生ずるものがあります。それは無条件に人に優しくしたり、あるいは勉強でも「無」つまり定義や能力に当てはまらない無限大の考察を行う感性は、ゼロリセットする心が大切です。

 私たちは根本に戻ること、自然から学ぶこと、そんなことが鈍ってきているということを自覚しなければならないと思います。明治以降の学問の中でそういうものが欠けてしまっている部分が相当あります。僕は官制学校歴と呼んでいるのです。児玉源太郎も秋山真之も今様な学歴点数学ではありません。学校制度が出来る前に塾や藩校で学んだような学問の影響があります。

 明治維新や日露戦争など、あれだけのシンクとアクションとの間に足を一歩踏み出す力、突破力は無理に頭で考えて出来るものではありません。どこかで先見なり透徹した瞬間考察がなければできません。だからといってデーターや根拠云々を説明していたのでは戦時には間に合うはずもなく、覚悟が遠のいてしまいます。

 これを文字で表せというと、また難しい。やはり人から学ぶ、事象を観察するうえで大切なことは、感動感激を通じて学ぶ、同じ血の通った人間から先ずは習うことかと思います。

 また、学ぶための前提に、何があって、僕らは何がないか。勤勉、正直、礼儀、は当時の普遍だった。信じられる人、優しい人、怠け者ではない、これは世界中普遍の力です。

 感性を高めて自然を疎かにしないで学ぶ。人間の持つ能力を同じ生きものとして自然から得る。これを直感というか、危機なら危機反応をするように、これを本能的反応とも考えますが、意識反応に高める習慣学習、これが知的直観力の養い方だと思います。

 これは政治、経済でも重要な先見性です。事象から読み解くこともありますが、人が見向きもしない小さな事柄でも、将来の大きな事象を構成する種になることがあります。これを感ずるか、目が向けられるか、それも感性、センスの問題であり、素直に、正面から観察する習慣性の問題です。
 体全体から亡くなってきているが、もっとシンプルに受容する心は、我々の考え方の中にある。

 われわれが失ったもの。いわゆる自らを省みることで発見できることがたくさんあります。
 平成の元号ではないが、「地平らかに天成る」、「内平らかに、外成る」、これは中国の古典からのものですが、天地と人間、内向きの心と外向きの姿、内政、外交のことですが、政治でも最近はそのようなことが起きている。

 地上の人間が欲望のコントロールができない。すると天は怒り天災がおきる。あるいは内政がおぼつかなくなったため、外で気勢を上げたり、危機を作ったりして政権の安定を図ることがあるが、そのようなことが起きると、その国は衰亡しますよ、ということです

 まず、他を観察する前に、自身を内観することが大切です。そして多面的、根本的、集積された歴史から観ることです。一面的、枝葉末節、現実価値のみとでは、同じことでも結論が逆になってしまいます。

 浮世離れしたような内容の話ばかりですが、そんなことが直観力を養うことであり、その意味を自分なりに学び、習慣化することではないか、と考えます。


コメント
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