A Challenge To Fate

私の好きな一風変わった音楽を中心に徒然に綴ったページです。地下文化好きな方は見てやって下さいm(_ _)m  

【地下音楽への招待】吉祥寺マイナーYouTube音源集~阿部薫・豊住芳三郎/ガセネタ/SYZE/竹田賢一/光束夜/THE STALIN/タコ/角谷美知夫etc.

2020年05月23日 02時50分47秒 | 素晴らしき変態音楽


最近SNSで、70~80年代の日本のパンクやニューウィヴのチラシやレコード、ソノシート、ライヴ録音カセットの投稿を見ることが多い。ステイホームの徒然に部屋の掃除や片づけ、断捨離をしていて押入れの奥から出てきたり、実家の物置で発見されたりしたのだろう。COVID-19の数少ない恩恵と言ったら不謹慎かもしれないが、貴重な音源や映像が世に出ることは歓迎したい。できれば自分一人で楽しむのではなく、共有してくれれば嬉しい。権利関係など難しい面もあるかもしれないが、密かにシェアしていただけないだろうか。

そのお返しという訳ではないが、7,80年代東京の地下音楽の発祥の場であったライヴスペース「吉祥寺マイナー」で録音された音源をYouTubeから探しだしてまとめてみた。動画に付属するコメント・解説も転載させていただいた。意外な音源もあり、大変興味深い。今のうちに聴かないと、削除されてしまうものもあるかもしれないので、お早めにお楽しみください。時系列順に掲載した。

●1978年7月7日(土) 阿部薫・豊住芳三郎
Kaoru Abe/Sabu Toyozumi - Mannyoka


Song For Mithue Totozumi = 豊住 満江に捧げる
1 Part I 21:14
2 Part II 14:44
Song For Sakamoto Kikuyo = 坂本 喜久代に捧げる
3 Part I 4:43
4 Part II 14:18
5 Part III 18:28

First two tracks recorded live at Minor, Kichijôji, Tokyo, Saturday, 7th July, 1978
The rest of the tracks recorded live at Gaïa, Hatsudai, Tokyo, Friday, 13th January, 1978


●1978年9月14日(木) アナルキス
アナルキス 『 ラモーンズ 』


1978年9月14日 木曜日 @ 吉祥寺マイナー 対バン: Speed, 自殺, Pain
Anrkissアナルキス:
ボーカル 山崎春美
ギター 大里俊晴
ギター 園田佐登志
ベース 浜野純
ドラム 佐藤隆史


●1979年2月25日 地表に蠢く音楽ども
地表に蠢く音楽ども SIDE A


地表に蠢く音楽ども SIDE B


2.25.1979 吉祥寺マイナー (録音:鈴木健雄)

日時:1979年2月25日
場所:吉祥寺マイナー
イベント名:『地表に蠢く音楽ども』
参加:
竹田賢一(el-大正琴,fl,el-p,etc)
大木公一(el-g,etc)
河本きの(b,etc)、
河原淳一(cl,etc)、
白石民夫(エレクトロニクス技術)
風巻隆(perc)

チラシ:河原淳一


●1979年3月30日 ガセネタ
ガセネタ Last Live at 吉祥寺マイナー 1979.03.30「父ちゃんのポーが聞こえる」


「さらばガセネタ」(解説/JOJO広重)

人間とは裏腹な生き物だ。なければ欲しがるし、あれば欲しがらないくせに、またなくなると欲しがる。限定版のなんとか、とかはそういった類の心理をネタに商売をする卑怯なやり方だが、そもそも人間とはそういった姑息で卑怯な側面があるのだろう。

ガセネタ。
ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。メンバーは大里俊晴、山崎春美、浜野純、ドラムは数回変わったが最後は吉祥寺マイナーのオーナー・佐藤隆史。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。その後はPSFからのCD1枚、大里の執筆した単行本『ガセネタの荒野』あたりが情報源にして、しかしさらに不透明なままだったバンド。世間的にはそんな評価だったのではないか。なんだかわからないけどもの凄かったバンド・ガセネタ。

だが2009年、大里の死を契機にその全貌をまとめようという作業が始まる。大里の追悼文集、著作集、『ガセネタの荒野』の復刊、そしてこのCD10枚組『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』のリリースである。特にこのCD-BOXはたった4曲しかレパートリーがなかったバンドの、現存するほとんどの音源を収録したもので、音楽を聞くためのCDというよりは記録して残すという資料集的な意味合いが強いアイテムだ。それにしてもこういったものが商品として制作発売され、それが完売したという事実は驚異に属するものだろう。
当時ガセネタのライブを見た人間の一人として、ガセネタのライブ音源をたまたま持っていた人物として、私はこのCD-BOXに関わることになった。CDディスク4の11曲目、「父ちゃんのポーが聞こえる」は私が持っていたカセットテープからのトラックだからだ。

私は1978年から京都のロック喫茶「どらっぐすとぅぁ」のスタッフとなり、プログレ、パンク、現代音楽、フリージャズ、即興演奏などの世界にどっぷり浸ることになり、その流れでウルトラビデというバンドを結成することになった。このあたりの経緯は私の別のバンド・非常階段の単行本やあちこちの雑誌への原稿で触れているが、ガセネタの活動拠点となった吉祥寺マイナーと京都どらっぐすとぅあの共通点は多い。同じような時代に場として存在し、それぞれの地方で同じような役割を担ったということも興味深い。端的に言えば一般世間ではまるで相手にされていなかった音楽を愛好し、演奏し、追求しようとしていた若者が集った場所が東京は吉祥寺マイナーであり、関西では京都どらっぐすとぅあだったということだ。この2軒の店を橋渡ししたのがウルトラビデのエレクトロニクス奏者・渡邊浩一郎であり、NOISEの工藤冬里だった。渡邊浩一郎は東京から京都に転居してきた予備校生だったが、彼が個人的に東京方面でのライブを録音したカセットテープを大量にどらっぐすとぅあに持ち込んだのである。そこには当時のアンダーグラウンドなバンドの音源の他、灰野、大里、浜野などのセッション音源もたくさんあった。渡邊浩一郎は「この灰野と浜野のギターがすごいんだ」と言って、我々に解説付きで音源を聞かせてくれたものだった。思えば初期ガセネタや即興セッションによる演奏のテープだったはずで、当時関西に住んでいた人間にはまず聞くことの出来なかったような音をたくさん聞かせてもらったように思う。

やがて工藤がマイナーのライブのチラシやポスターをどらっぐすとぅあに持ち込むようになり、ガセネタというバンドの存在がわかった。そこに大里、浜野、山崎の名前があることも、我々は予備知識があった上で認識していたことになる。ほう、山崎春美は大阪の雑誌・ロックマガジンに寄稿していたヤツじゃなかったっけ、今は東京にいるのか、などと思ったことを覚えている。

ガセネタのライブを初めて見たのは1979年2月だった。同年3月に関西のバンド、ウルトラビデ/INU/SS/アーント・サリーで関東方面のツアーをすることが決定しており、事前に関東のライブハウスを見ておこうということで上京したのだ。マイナーはその前年に工藤のライブを見に行っていたので場所の認識はあったのだが、ガセネタが当日の出演予定にあったので足を運んだのだったと思う。

初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった。

その約1ヶ月後、3月24日に私はウルトラビデで吉祥寺マイナーに出演することになった。確か昼の12時頃からスタートしたロングランのライブイベントで、我々の他にはファーストノイズ、黒涯槍、ガセネタ、不失者、オッド・ジョン、INUが出演した。ガセネタと対バンということで、私には“このバンドには負けたくない“といったようなヘンなライバル心があったのを覚えている。同じ4人編成、ある程度の楽曲ベースはあるが基本即興演奏、訳の分からない音を目指しているといった、どこか曖昧ではあるが同じような音を目指しているという認識はあったのだろう。そして出来うることなら自分たちの音の方が新しくありたいと思っていたのである。
会場のマイナーに到着して、すぐに一番驚いたのは浜野の人相だった。2月に見た時のような狂気の様相はもうまるでなく、どこか普通の兄ちゃんのような形相になっている。これがあの浜野なのか? 同一人物なのか? と、非常に驚いた。そのことと、椎間板ヘルニアを煩っていた大里がとんでもないガニマタで、誰かに支えられながら歩きにくそうに階段を上ってきた光景を妙に覚えている。

この24日のウルトラビデの演奏もろくでもなかったが、ガセネタの演奏は2月に見た時のような緊張感、疾走感はなかったように記憶している。バンドとしてのピークは終わったのかも。そういう印象だった。なにより浜野のギターに迫力がなくなっていた。

3月中に数本、吉祥寺マイナーでガセネタのライブがあったようだが、私は見に行けなかった。ウルトラビデのツアー日程があり、吉祥寺には行けなかったからだ。知人経由で後日、3月30日のガセネタのライブを収録したカセットをもらった。その演奏は24日の演奏とは比較にならないくらいテンションの高いものだった。3月30日のライブがガセネタとしての最後の演奏だったと聞いて、会場に行けなかったことを悔やんだ記憶がある。

1979年8月、私は学生ならではの夏休みを利用して、後年非常階段のメンバーとなるZUKEと関東方面に旅行に来ていた。その流れで彼の友人宅がある茨城県に遊びに行ったところ、明日地元バンドのロックコンサートが公民館の講堂のような場所で開催される、東京のライブハウスにウルトラビデで活躍している私にはぜひ出演してもらい、地元の若者にハッパをかけてほしいと懇願された。一宿一飯の恩義がある私は断れず、当日演奏する高校生バンドにガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットを聞かせ、当日のリハでベースとドラムにこの曲のリフを延々と繰り返すよう指示した。ライブ本番、私はその音をバックに浜野のコピーのように借り物のギターを無茶苦茶に掻きむしり、山崎のコピーのようにステージで絶叫して転げ回った。もちろん会場の観客はドン引きだった。

後日、そのZUKEの友人が語ったことには、あのライブの楽奏には観客は大変驚いたが感銘を受けた若者もおり、あの音楽はなんなのだと何度も聞かれた。あれはパンクだと答えたところ、地元のレコード屋にパンクのレコードはないかと買いに行った面々が何人もいた、というエピソードを聞かせてくれた。

ガセネタが私の非常階段での演奏に影響を与えたかどうかは、わからない。私にとっては同時期に演奏していたウルトラビデの頃のほうがガセネタを意識していたかもしれない。しかし非常階段でテレキャスターのギターを弾いていた時、渡邊浩一郎に「浜野が(テレキャスターを)弾いていたからだろう」と揶揄されたのを覚えている。彼も浜野のギターが大好きだったのだ。私も3月30日のガセネタ「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットテープは若い頃はずっと愛聴していた。この音よりももっとグシャグシャでもっと疾走感のある演奏を自分はするのだ、しなくてはいけないのだ、そう意識していたように思う。

ガセネタの伝説は終わった。このCD-BOXがすべてだ。売り切れたのならそれでいい。買わなかった人間には結局は必要のないものだったのだ。ないなら欲しいか。ならばいつか手に入るだろう。でもガセネタはガセネタだ。本物であり、偽物なのだ。それでも聞きたければ聞けばよい。私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ。

これは誉め言葉である。

(雑誌『nobody』36号から転載)


●1979年6月20日 マイナー・セッション
マイナー・セッション(Live at 吉祥寺マイナー 1979.06.20)


「敏子さんがドラムを叩いているのはそれまでも何度か目にしたことがあった。ご一緒できて、しかも記録まで残っていることが今となっては、はかない夢のように思われる。ぐるぐると愚直なまでにストロークを回し、超然たるマイペースで叩き続けるそのドラムの力強さは特筆すべきものだ」園田佐登志

佐藤隆史(b)…元ガセネタ
渡辺敏子(ds)…佐藤夫人(故人)
工藤冬里(syn)…Maher Shalal Hash Baz
園田佐登志(g, tape, monky toy)


●1979年7月13日 SYZE / Friction
SYZE - TVイージー @吉祥寺マイナー 1979.7.13 fri


79年高校2年のときに『東京ロッカーズ』と『東京ニューウェイヴ』がリリースされ衝撃を受けた。フリクションやミラーズ、SEXが名前を変えたSYZEや自殺を観にライヴハウスへ通い始めた。最初に行った荻窪ロフトで観たSYZEがMCで「次のギグは吉祥寺マイナー」と言っていたので1週間後にマイナーへ観に行った。ビルの上ににある小さなスペースで、芝居小屋風のベンチが並ぶ店内はロフトに比べて質素な感じがした。開演間近になってもドリンクの注文を取りに来ないので、店員と思われるお姉さんにコカ・コーラを頼んだら、えっほんとにオーダーするの?と尋ねられた。今思えばその女性がオーナーの佐藤隆史氏の奥さんの渡辺敏子さんだったのかもしれない。その後数回マイナーに通った。この頃のSYZEは川田良の他にもうひとりギタリストがいる5人組だった。1979年7月13日のフリクションとSYZEの対バンのときは、最初に出たフリクションのレックのヴォーカルが殆ど聞こえず残念だった。しかしトリのSYZEの伊藤耕の歌は歌詞まではっきり聞き取れた。今思えば東京ロッカーズを快く思っていなかったスタッフがわざとレックのマイクのヴォリュームをオフにしたのではないだろうか。山崎春美の話では「マイナーは東京ロッカーズと喧嘩しているから出演しない」と電話してきた関西NO WAVEの女性アーティストがいたという。
その日マジソンスクエアガーデンのスポーツバッグに忍ばせたラジカセで録音したライヴ・カセットは、恐らく生涯で最も回数多く聴いた音源だと思う。その年の高校の文化祭でバンドで「TVイージー」をカヴァーした。SYZEは3回程観たっきりで、伊藤耕と川田良のその後のバンドを追うことはなかった。しかし自分のロック衝動の最初期にSYZEがあることは間違いない。(剛田武)


●1979年12月14日 光束夜
光束夜 - Untitled [1]


Artist - Kousokuya .. part of the Tokyo underground psych-noise scene through the 80's [ ファースト・ライブ1979 吉祥寺マイナー ] CD "first live" released 2006
Recorded live at Minor, Kichijoji, Tokyo on 14 December, 1979.


●1980年5月14日 Brain
Brain Live at "Kichijoji Minor" 14th May, 1980


No overdubbing, all sounds were performed with analog equipments at the timepoint of 1980


●1980年8月8日 THE STALIN
THE STALIN / YŌKO (SOUND ONLY)


1980.08.08 吉祥寺マイナー
スターリン結成当初の80年に行われたライブ。冒頭では“記憶”とコールされているようにも聞こえますが、聞き取れる歌詞の内容から巷で「YŌKO」と呼ばれている曲がコレでしょうか。


●1980年9月28日 タコ@愛欲人民十時劇場
タコ - 1980.9.28 吉祥寺マイナー「愛欲人民十時劇場」

TAKO - Disc 1 , Track 1 on Box Vol.1 甘ちゃん


【関連アルバムFULL】
●愛欲人民十時劇場


Recorded 1980 Tokyo, Japan
Produced by Takafumi Sato
Art Direction Toshiko Watanabe
Pinakotheca Record

side A
1. Untitled / 白石民夫
2. Untitled / 佐藤隆史+ヤタスミ+石渡明広+篠田昌巳
3. 21 Century Game / ハネムーンズ(佳村+天鼓)
4. Untitled / インテンション(横山宏+芝淳子)
5. Untitled / 板橋克郎+吉沢元治
6. Untitled / 山崎春美+大里俊晴+美沢真之助+山内正文+松本順正+高橋文子+ニシャコフスキー
side B
7. Untitled / 灰野敬二
8. Untitled / ヴェッダ ミュージック ワークショップ
9. リュウチシンゾウ / キノ
10. Untitled / 田中トシ+後飯塚遼+ニシャコフスキー
11. Untitled / マシンガン タンゴ(工藤冬里+菅波ゆり子+小沢靖+白石民夫+ヤタスミ+佐藤隆史)
Recorded 1980 Tokyo, Japan
Produced by Takafumi Sato
Art Direction Toshiko Watanabe
Released in 1980
Pinakotheca Record (PRL-1)


●角谷美知夫 - 腐っていくテレパシーズ(FULL)


80年代初頭、東京のアンダーグラウンド・シーンで異彩を放っていた故・角谷美知夫の宅録音源。他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊。

1.テレパシーなんかウンザリだ
2.俺のそばに
3.青い再会
4.エスケイプ・アウェイ
5.Live at JAM '82年2月5日
6.Live at ぎゃてい '82年4月28日
7.LIVE at Goodman '82年1月7日
8.死ぬほど普通のふりをしなければ
9.
10.同時の2人
11.現実
12.無題

腐っていくテレパシーズは1970年代後半から1980年代前半にかけて活動していた天然サイケデリック・ロックバンド。中心人物は吉祥寺マイナー周辺のライブハウスで活動していたアンダーグラウンドなミュージシャンの角谷美知夫。1959年生まれの山口県出身のアーティストである。裕福な家庭に育つが1974年に中学を退学後、住所不定のヒッピーとなる。1977年に東京に移り住み、1978年から工藤冬里や木村礼子と共に音楽活動を開始。1979年にオット・ジョンを結成し吉祥寺マイナーを中心に活動する、その後、オット・ジョンは自然消滅し、以降は「腐っていくテレパシーズ」として活動するが、この頃から重度の躁鬱と幻覚幻聴に悩まされるようになる。精神分裂病がもたらす幻覚作用や霊的感覚を表現した、どうしようもなく崩れ落ちていく陰鬱なロック音楽は「他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊」と評された。その後、ジヒドロコデインリン酸塩というドラッグにはまり、1990年8月5日に31歳の若さでオーバードーズによるとみられる膵臓炎で夭折した。翌1991年6月、PSFレコードから生前の自宅録音とライブテープを再編集した追悼盤『腐っていくテレパシーズ』が発売される。なお中島らものドラッグ・エッセイ『アマニタ・パンセリナ』や自伝的小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』には「分裂病のガド君」として角谷が度々登場している。

「彼が死んでしまった結果として、人は彼を、そんな自分の生き方を貫いた人として見るかもしれない。でも、人間は誰も、なにかを貫くことなどできはしない。どこにも至れない思いを常に抱えながら、生きてゆくしかない。そのことは、彼自身よく知っていた。だから、終わりたいというような言い方を万一したとしても、死にたいという直接的なことばを使ったことは最後までなかった……」(ライナーノーツに寄せられた東玲子の文章の一節)

角谷インタビュー(1979年『Jam』特別ゲリラ号)
http://kougasetumei.hatenablog.com/en...

角谷について、「日本のパンクの典型的な魂」という言葉を聞いた。この言葉には問題があるが、彼がこの現代の日本でいわゆるパンクをやるといういささか奇妙なこころみの真面目な負の曲率の極致だということは確かだろう。彼の下宿を訪ねて行くと、そこは表から見ると何気ないアパートだったが、中に入ると、30近くはあると思われる部屋がいびつな空間を形作り、廊下と階段は奇妙な方向を向いていた。そこは江戸川乱歩の小説の舞台を思わせる一方、何故か未来的な感じをおこさせた。ふと目についたある部屋のドアには次のような張り紙があった。

●新聞勧誘、セールスマンお断り。第一、新聞など読むことが出来ません。

(この腐ってくテレパシーズ・インタビューは、角谷がお目当のテープをかけようとするのだが、どうしてもワーグナーがかかってしまうところからはじまる)

角谷(K):あれ、おかしいな、このテープちょっとおかしいぞ。やっぱりおこりはじめたかなあ。物質の反乱。こういうのって共振みたいにして、緊張してて会話なんかを上手くやろうとするとおきるみたい。

X・BOY(X):物との間に。

K:そう、物と対応するわけ。本なんかの場合もあって、偶然開けた本の中に、あまりにも自分が問題にしていることが書いてあったりするわけ。

X:それはC・ウイルソンも、「オカルト」を書いている間に何度もそういう、「暗号」があったって書いているね。それが単なる妄想だったらわりと簡単なことなんだけど……。ボクも、ものすごく緊張して女の娘と公園を歩いていたら、むこうから来た子供連れの家庭の主婦が突然、「証拠を見つけたぞ」って喋ったのが聞こえてきたことがあるよ。それは女の娘も聞いているの。

K:(角谷の“僕ら糞ったれキリスト”のテープを聞きながら)そんなふうにして、ボクの波動の影響を他人が受けるわけ。だから、もうしかたがないから、どんどんかけていくわけ。

X:ははは、それはスゴイ。

K:それは正常な考えでやるわけだけど、ただ同時に、それが荒廃してきたら自分で制御できないわけ。エロティシズムの領域になってくるから。

X:はは、でもそれは他人も感じるわけ。たとえばさ、自分だけが……

K:みんな知ってる。

X:ああ、他人も知ってるわけか。それは気付いてなくてもいいわけ。

K:気付いていない人は一発で気付く。それはやっぱり困るわけよ。おかしい。腐っている。

X:物との関係ではそういうのないの。

K:ヴィアンの「心臓抜き」読んだ?

X:いや、読んでない。

K:閉鎖しているから、何もおきないから物の配列だけで変えていこうとするんだろうけど、それがなけりゃアナーキズムのような政治形態や宗教形態になるわけ。

X:閉鎖しているから並びかえるっていうのは、全てがこちらを向いているから並びかえて外部におけるっていうか…..閉鎖している状態っていうのは、あまりに並び方が秩序正しいから。自分の配列でもないし、他人の配列でもないし……。

K:でも、秩序正しいのもいいと思う。気持いいしさ。ところが、中年のだささとかにくたらしさとか糞ったれが浮き上ってくるとファシズムになるわけ。だけど、宗教の模型性(?)ていうのがあまりにきつすぎて、俺は宗教には行けなかったわけ。だから、「糞ったれキリスト」。自分自身にそのような妄想があるから。

X:だから、キャンディーズのように、「もう普通になりたい」

K:そう、そういう俗っぽいような、地獄のようなところもあるのね。問題はもう分っているんだけど、動けないんだ。全てを止めて外国に行くか、山にこもるか、「夜のはての旅」のようになしくずしになっていくか。

(中略。食事の後、新宿に出て、喫茶店に入る。注文をするとすぐ、隣のテーブルにコンパ帰りらしき大学生の一団がなだれ込んで来る)

────てめえうるさいよこの野郎。

K:喧嘩だ。喧嘩だ。糞ったれ。気どりやがって、糞。

X:どんなコンサートをやりたい。

K:この間は、緊張して前に出れなくて、かえってそういうところがうけちゃったけど。

X:角谷はどちらかというと、毅然とやりたい方じゃないの。

K:毅然というか、めちゃくちゃ踊り狂ってやりたいけどね。それから、マースみたいに割れたサングラスに黄色い光をつけるとかさ。原始時代の混棒があるじゃない。

X:えっ?

K:石の棒で先が太くなっていてギザギザがいっぱいついたやつ。あんなので頭蓋骨をボクッとかガキッとか殴っていくわけ。ちょっと前に考えていたのは、握りがゴムの赤いハンマーとかね。

X:山手線の電車の中で、懐から突然力ナズチを取りだして、隣に坐ってた奴の頭をぶんなぐって殺した奴がいたけどね。

K:だから、よっぽど腹がたってたんだよ。

────人間は人間なんだよ、お前な

X:原始人みたい。

K:だけど、原始人はあんなに喋らないよ。東京の奴ってさ、結局、恥を内側に持ってて、いきがって喋っている。

バンドでやりたいのは痙レン。それに、粒子的な音のいらいらしたロックンロール。

X:粒子的って?

K:原子のドアを開いてね……うーん、開くっていうのはあまり好きじゃなくて、むしろ閉鎖した内側での電子の放電。

────人間なんていうのはな、学年じゃないんだ。人間性なんだよ。

K:気狂い。臭い。

(喫茶店を出た後、ピカデリーで「さらば青春の光」を見、再び下宿に帰ってくる)

K:ここはいろんな音が入るんだ。TVとか自衛隊の無線とかね。すごい時には、自衛隊のヘリからのやつが五分おきに入ってくるの。信じられないくらい、すごく飛んでいるよ。

X:西武池袋線の江古田駅の踏み切りのわきにビデオ・テレビがあってね。そこの二階にカラオケ・スナックがあって、客が歌っているところをビデオで表に映しだしているわけなんだけど、夕方時のまだ何もやっていないんだけどスイッチだけは入っている時の画面がとてもきれいなんだ。様々な色の粒子が飛びかっていて、それが電車がわきを通るたびに変化をおこすんだ。

K:俺の場合は、そんな音の粒子をキャッチして、それをどんどんミックスダウンしていくわけ。

X:J・ケージのパーフォーマンスにそんなのがあるけど、あれは他人のやっているのを聞くより、自分でやった方がずっと面白いね。

K:低周波っぽい音になっていくみたい。

X:低周波といえば、あの装置をはじめて作ったやつが、どんな効果があるのか実験したら、内臓破裂かなんかで、あっという間に実験だいになったやつは死んじゃったらしいね。

K:ひでえ話だ。(文責・隅田川乱一)


【関連書籍】
●剛田武『地下音楽への招待』
Underground Music Go Underground


剛田武『地下音楽への招待』http://bit.ly/2cEpL9I

A-Musik - 釜山港へ帰れ


from the album which was packaged together with the book 《地下音楽への招待》(Japanese Underground Music In The Late 70s And 80s) by 剛田武 (Takeshi Goda), published by Loft Books.

Anode/Cathode - Interview; Next Question Please


Compilation "地下音楽への招待" Extract of Side B off「Anode/Cathode - Punkanachrock」(Pinakotheca 1981.7)


【参考サイト】
椅子物語【吉祥寺マイナー セレクション 1978 - 1980】
特殊音楽の世界24「特別編の4;ロックマガジンと吉祥寺マイナー」by F.M.N.石橋
孤立無援が吹き溜まった“箱”~最暗黒のライヴ・スペース、吉祥寺マイナーについての極私的回想録by 松山晋也
LOFT BOOKS 地下音楽への招待
synchronize


地下音楽
音だけ聴いても
話し半分

▼吉祥寺マイナーと同時期に地下音楽のメッカだった吉祥寺羅宇屋でのライブ音源。
●1978年8月6日 GAP@吉祥寺羅宇屋
GAP - 阿頼耶の世界から 1978.8.6 /Record.


GAP - 阿頼耶の世界から 1978.8.6 / Part 2 Live 吉祥寺 羅宇屋にて
40分23秒。(全体70分25秒)

♩ 佐野清彦(vo,pf,syn)、曽我傑(syn,per)、多田正美(pf,per)、+ 三浦崇史(sax,per)
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【華麗なるラブ・サウンドへ... | トップ | 【5月25日誕生日のふたりのア... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Born to Be Noise (haragaki)
2020-06-07 20:40:45
『バンド・オブ・ザ・ナイト』で忘れられないのは、中島らもがギターを弾いてるのを横で見ていた角谷美知夫が、「ラム君(小説での中島らもの名前)、コード弾けるんだ」と呟き、それを聞いたらもさんが、「ガド君は弾けないの?」と返したら、「ずっとノイズでやってきたからねえ」と角谷さんが答える場面なのですが、この<ノイズ>というのは単に音楽だけのことではなく、精神性や生き様を含めた角谷さんを構成する全ての要素であるはずで、そう考えると、なるほどジム・モリソンもジミヘンも阿部薫も渡邊浩一郎も角谷美知夫も、ようするに「ずっとノイズでやってきた」連中は皆、30年くらいしか生きられない宿命の刻印をあらかじめ押されて生きてたんだろうなあ、と改めて思った次第。

誰のSNSもまったく見ない状態でこの数箇月過ごしてまいりましたが、思うところあって久方ぶりに戻ってまいりました。
剛田さんが元気で何よりです。
返信する
追記 (haragaki)
2020-06-13 21:19:45
らもさんはゴリゴリのロック至上主義者で、テクノを最も唾棄すべき音楽としてやり玉に挙げていました。そして、彼の理想とする<ロックの定義>とは、「ベースとドラムさえしっかりしていれば、ヴォーカルとギターは下手で構わない。いや、むしろ下手なほうが良い」というものでした。
あのバンドやあのバンド、そしてあのバンドが即座に想い浮かびますが、<あのバンド>に代入する名前が多ければ多いほど、その人のロック体験は豊穣なものだということは言うまでもありません。

ちなみに私はテクノが大好きで、ロックについてはあまりよく知らないし、特に興味もありません。
返信する

コメントを投稿

素晴らしき変態音楽」カテゴリの最新記事