なぜか?
あなたはそう尋ねるかもしれません。
どうしてそんな恐ろしい場所で、
それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?
恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。
いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、
ということです。
この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、
すべてはとどまることなく変移し続ける。
永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。
これは仏教から来ている世界観ですが、
この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、
日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、
古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、
いわばあきらめの世界観です。
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。
しかし日本人はそのようなあきらめの中に、
むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、
夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。
それも集団的に、習慣的に、
そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。
桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、
その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、
ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。
我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。
そしてそれらがただ美しいばかりでなく、
目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、
鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。
美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、
果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。
しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、
ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、
被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。
あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、
普段から地震に馴れている我々でさえ、
その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。
無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、
復興に向けて立ち上がっていくでしょう。
それについて、僕はあまり心配してはいません。
我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。
いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。
壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、
我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。
どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。
少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。
ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。
好むと好まざるとにかかわらず、
そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、
簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。
それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、
資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
僕が語っているのは、
具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、
福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、
少なくとも三基は、修復されないまま、
いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。
メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、
おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。
風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、
原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。
畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。
そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。
その被害は日本ばかりではなく、
まことに申し訳ないのですが、
近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、
その原因はほぼ明らかです。
原子力発電所を建設した人々が、
これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。
何人かの専門家は、
かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、
安全基準の見直しを求めていたのですが、
電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。
なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、
大金を投資するのは、
営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、
原子力政策を推し進めるために、
その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、
もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。
その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、
土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。
我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。