blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

6月29日(土)「農園でやってみよう」開催しました♪

2019-06-30 | 農作業

報告】6/29(土)「農園でやってみよう」開催しました♪
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今年もスタートしました全4行われる“農園でやってみよう”!
初回は『農園ハーブを使ったソーセージ作り』です。

 
年も好評だったので今年も開催することにしました。
去年は猛暑、今年は小雨、と天候には恵まれない回ですが、
雨の中だからこそ楽しいかったという声も上がり、よかったです。

事前に案内を投げていたこともあり、みなさんカッパや長靴など装備はばっちり。

途中、小雨が降りだしましたが問題なし!

 

 
 
はじめはハーブの収穫から。
1つずつ香りを確認しながら、なんというハーブかチェック!
「知ってるにおい!」「これはちょっと苦手」「やっぱりバジルが1番」などと話しながら、
自分たちのソーセージに入れるハーブの割合を決めていきます。
 

採ったハーブは洗って、小さくちぎって挽肉に混ぜていきます。
粘り気が出るまで練るのがポイント。
作業は、パルシステム埼玉から提供していただいた、キンキンに冷えた蓄冷材の上で行います。
生のお肉を恐る恐る触る姿もありました。
混ぜ終わったお肉はソーセージ用の絞り袋へ入れて、羊の腸に詰めていきます。
か力と連携が必要な作業!「押す人」、「抑える人」、
「腸を引っ張る人」の3人掛かりで協力しながらやっていかないとうまくできていのです。

1時間かけて作ったソーセージは茹でて焼いて、いただきます。
今日の献立は手作りソーセージ以外に、農園野菜の“ナムル”や“サラダ”と釜炊きごはん!
色とりどりで夏
の色です。みんな腹ペコで、早く早くとリクエストが出ていました(笑
引き続き雨でしたが、テントの中で「いただきます!
おいしくいただいた後は、農園恒例の灰つけによる皿洗いと水洗い。
これまで複数回参加してくれている人も多く、もうお手のもの。スムーズに完了しました。
 

こうして回数を重ねることで理解が深まることもありながら、天候は毎年毎回違います。
もそれもまた農園の良さだなぁと思います。
面倒があることで助け合いが生まれたり、過去を振り返った時に、
“あの雨の会”というのが意外と記憶に残ったりするものですから。
小雨の中、楽しんで参加してくれた
みなさん、ありがとうございました!
そして、明治学院大学・東京農業大学の学生ボランティア、社会人ボランティア、
パルシステム埼玉さん、および風の学校スタッフの協力により、
今回も無事に終了できました。
いつもありがとうございます!
これからもよろしくお願いします。

次回は【9月8日(日)】夏野菜と流しそうめんです。お楽しみに!

※埼玉県の2019年度豊かな地域福祉づくり推進事業の補助金をいただいて開催しています。

◎イベントの様子はこちらから
https://ja-jp.facebook.com/nolandominuma/

20周年を祝う。アグリメンバー。

2019-06-25 | 共生社会のデザイン

農園開園20周年記念イベントでした。残念ながら雨('~`;)

それでもあぐりメンバーは午前中から 芋掘り、調理、伐採に活躍しましたよ。
昼食は 急遽 レジャーシートを 雨避けに簾の下に入れ込んで、
さらに屋根からの雨垂れをバケツに受けて、
雨を避けつつ竈炊きごはん、焼き肉、カレー、ポテトサラダを堪能しました。
ビール競っておかわりする人たちは 酒飲み発覚ですね。
 

6.22福祉農園開園20周年事業 雨にも負けず無事に終わる

2019-06-24 | 龍神伝心

 2019.06.22福祉農園開園20周年事業

雨の予報もあった中、120名以上の福祉協議会関係者の方達が参加頂きました。
福祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げて20年続きました。

この間、数え切れない方達が福祉農園に関わってきたと思いますが、

20周年事業としては20年を振り返るのではなく、これからの20年を考えることだろう、と思い、

それは共に汗をかき、共に飯を食い、共に歌い

大雨により、やりたかったことや聞きたかった話が途中終了してしまったことは残念ですが、

ケガや大きな事故も無く終われて本当に良かったです。

準備期間ずっとサポートしてくれた実行委員の皆様、都合をつけて参加してくれた方々、

遠方から来て頂いた方々、

綱引きの綱や音響機器を貸して下さった朝鮮学校の方々、

飲み物ブースを提供してくれた浦和北ロータリクラブの方々、

参加できなかったけど福祉農園をこれまで支えてくれた方々、

全ての人に感謝いたします。
これをきっかけに協議会団体の距離が近くなれば幸いです。

                        実行員長 寺床純三

 

 


福祉農園が1999年5月に 共生の農業を掲げ20年を迎えました。

2019-06-21 | 龍神伝心

祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げ20年を迎えました.。

この間

農園に関わっている方々も当時からライフステージが変わり ながらも、

耕し続け現在まで続いています。

皆さんにとって関わり始めた頃の農園や今の農園はどんなものでしょうか。

そしてこれからの農園はどんなものになるでしょか。

 
 
 
 
 
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年。
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年
 
農具をやったこともない人々がここに集い一歩一歩歩み初めて20年
 

乱開発の語気が止まった1987年 Ⅱ

2019-06-19 | 龍神伝心
1987年
 
見沼田んぼの片柳に約一反の谷地田を借り、現在の福祉農園の代表が家族や友人と共に農園の実験を始めます
 野を焼き、篠竹の根を掘り起こし、枯葉を集め堆肥づくり、そこから農場作りは始まった。

 農家資格のない市民は農地法上、農地を買ったり、長期的に安定して借り受けることができない不法耕作者です。片柳の試みは圃場整備事業が入り、わずか4年で終わる。
ここでの体験が現在の見沼田んぼ福祉農園の農園作りに活かされています。
1991年。土地利用協議会が始まる。
1995年。

見沼3原則に代わる新たな「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が決定される。

見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」の方向として
①人間の営みと自然との調和
②緑豊かな空間 
③効率的、、安定的に農業が行える場 
④ライフステージに応じた自然とのふれあえる場 
⑤治水機能の保持に配慮しながら農地、公園、緑地などとして土地利用を図っていくことが掲げられた。

1998年。「基本方針」の柱に見沼田圃公有地化推進事業が位置づけられた。
見沼田圃公有地化推進事業とは
厳しい開発規制と引き換えに県が農地を買い取ったり、借り受けたりして活用する。
基本方針に沿って98年に始まり、約14ヘクタールが公有地化された。
公有地事業で福祉農園や市民農園、体験水田などが生まれた。
1999年春 
公有地化推進事業の一環として見沼田んぼ福祉農園が開園する。

 見沼田圃公有地化事業が始まり、見沼田んぼを愛する多くの市民が、自然な形で見沼田んぼの保全の活動に参加するチャンスが広がって来ていることを実感しています。
 実際に福祉農園づくりに携わってみて感じることは、公有地化推進事業は、農地の利点を活かし、農地を農地として活用しながら、見沼を農的な景観として保全しようとする試みなのだと言うことです。
農の論理=「いのちとくらし」の論理を基本として
 「理屈は脇に置いて、障害のある人もない人も、お年寄りも若者も、まず汗をかいてみる」。そこから農園づくりを始めた。
 福祉農園が近隣の農家の方々に受け入れられてのは、理屈ではなく、まず共に汗をかく事から始めたことにあると思う。
 農家の方は話に興が乗ると、子供の頃の澄んだ加田屋川や芝川。代用水での魚取りや川遊びの事や、重労働だった田の仕事の思い出を楽しげに話してくれる。
 農家の方々と話して感じることは、「先祖が残してくれた見沼を守りたい。」と言う強い気持ちと「守り抜いてきた。」と言う誇りです。
見沼を守ってきたのは、見沼の農家の営々とした農の営みによるものです。
 見沼の農家の「先祖がそして自分達が守ってきた見沼を守り抜いてきたい」と言う思いを共有すること無しに、見沼保全を語ることは許されないと思います。
 
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乱開発の動きが止まった1987年春

2019-06-19 | 農作業

http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi3.htm

 乱開発の動きが止まった1987年春

開発か、保全か。
 バブルが膨らみ始め、ゴルフ場開発などを迫る開発派と、大規模緑地空間として遊水機能を保持しつつ全域を整備しようとする保全派との間で埼玉県庁内部で攻防が続いていました。
 1986年3月。県企画財政部地域政策課の見沼担当は、見沼保全に大きく踏み込んだ「見沼田圃土地利用基本計画策定調査報告書」をまとめますが、積極開発派だった当時の県地域政策監は「報告書」を県のロッカーにしまい込んでしまいました。
 「報告書」の存在を知った「見沼田んぼを愛る会」は、県に開示を迫ります。これが「開発」か、「保全」かをめぐって、マスコミと県民世論を巻き込んで行われた見沼をめぐる論争の始まりです。
 当時、知事(畑和)は「見沼を全部守るのは無理。ゴルフ場も緑だ。見沼の真ん中にゴルフ場を造って林で囲んだらいい」と口にしていた。畑知事の借地方式による運動公園=県民ゴルフ場を作るという案が浮上したときは、後にバブルと言われる時期だった。
 バブルの流れに乗り遅れまいと地権者の一部にはそうした話に飛びついた人もいた。
 「見沼田んぼを愛する会」は地権者の固定資産税の負担が増加する事を試算し、地権者に提示して回った。
 地権者は、固定資産税や相続税の負担が増加することに気づいて、運動公園=県民ゴルフ場を作るという話は急速にしぼんでいきました。
 そして、1987年2月。ゴルフ場開発をめぐる汚職容疑で地域政策監は警視庁に逮捕されます。
見沼の開発に積極的に動いた地域政策監の逮捕で開発派は旗頭を失い、開発の動きは呆気ない終わりをむかえたのです。

野焼き
1987年春、見沼田んぼ片柳
福祉農園の模索が始まる
篠竹の根を掘り起こすことから
農園作りは始まった。
1987年
 
見沼田んぼの片柳に約一反の谷地田を借り、現在の福祉農園の代表が家族や友人と共に農園の実験を始めます
 野を焼き、篠竹の根を掘り起こし、枯葉を集め堆肥づくり、そこから農場作りは始まった。

 農家資格のない市民は農地法上、農地を買ったり、長期的に安定して借り受けることができない不法耕作者です。片柳の試みは圃場整備事業が入り、わずか4年で終わる。
ここでの体験が現在の見沼田んぼ福祉農園の農園作りに活かされています。
1991年。土地利用協議会が始まる。
1995年。

見沼3原則に代わる新たな「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」が決定される。

見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」の方向として
①人間の営みと自然との調和
②緑豊かな空間 
③効率的、、安定的に農業が行える場 
④ライフステージに応じた自然とのふれあえる場 
⑤治水機能の保持に配慮しながら農地、公園、緑地などとして土地利用を図っていくことが掲げられた。

1998年。「基本方針」の柱に見沼田圃公有地化推進事業が位置づけられた。
見沼田圃公有地化推進事業とは
厳しい開発規制と引き換えに県が農地を買い取ったり、借り受けたりして活用する。
基本方針に沿って98年に始まり、約14ヘクタールが公有地化された。
公有地事業で福祉農園や市民農園、体験水田などが生まれた

見沼田んぼ愛する会の戦い

2019-06-19 | 龍神伝心

 

 

素堀の頃の見沼代用水

http://minumafarm.la.coocan.jp/index.htm

子どもたに残そう見沼田んぼ

見沼田んぼ近隣の農家の暮らしは農的諸条件を活かし、自然との共存の中で営まれていました。
田んぼと周辺の里山(=斜面林)、代用水や沼、ため池、小川などからなる見沼田んぼの景観は、
見沼田んぼに生きる人々が歴史を重ねて生み出してきたものです。
それは、「田んぼ」と言う言葉に表されるように、
稲作農業の「自然と協調しながら利益を獲得する」というあり方が自然との共存を可能にしたのです。
戦後のいわゆる近代化の波は、見沼田んぼにも例外なく訪れ、農村社会の伝統的構造に変化をもたらしました。
見沼田んぼの田んぼと、その周りの里山に生息する生物との共存関係が失われ始めたのは、
周辺の急激な都市化と、それに伴う農村社会の崩壊が始まりです。
急増する都市住民の飲料水等を確保するために、
農業用水として掘られた見沼代用水を都市用水に転用するため、
見沼代用水はコンクリートの三面護岸化がなされ、
この代用水の三面護岸化が見沼田んぼの水辺と里山の自然を急激に衰退に導きました。
また、都市化により見沼田んぼ周辺の新興住宅地などから、生活排水が見沼田んぼを流れる河川に流入し、
加えて生活ゴミや産業廃棄物や建築廃材の不法投棄、
農薬の散布等が見沼田んぼの環境を変容させました。
1979年春。利根大堰で始まった見沼代用水の三面コンクリート舗装工事は、その後南下して、
見沼田圃の西縁・東縁へと迫っていた。
田園景観と食卓が絆で結ばれる日を夢見て見沼田んぼを愛する会結成
首都圏25キロ圏内で、埼玉県東部や千葉県南西部にも、
まとまった水田はありますが、里山=を伴ったものはありません。
見沼田んぼは里山=斜面林・代用水・田んぼが存在する珍しいところです。
1984年、
旧浦和市は最も見沼らしい所でもある現在のトラスト一号地に、市営墓地を計画しました。
これに反対した市民が結成したのが「見沼田んぼを愛する会」です。
 「見沼田んぼを愛する会」が見沼田んぼの保全運動の始まりです。
 見沼田んぼを愛する会は、墓地計画を中止に追い込みました。
市営墓地予定地だった里山=斜面林は県のトラスト1号地に指定され公有地となり、
今では見沼田んぼの中で、最も人が訪れる所となっています。
985年12月13日。
見沼田んぼを愛する会、40、408人の署名を添え埼玉県知事に要請を行う。

1.農地、斜面林、用水、河川等
見沼田んぼを特色づけている環境・景観の有機的一体性を損なわないこと
2.都市の中のみどりの空間としての自然度を現況より低めないこと
3.見沼代用水の未改修部分、
さぎ山付近、国昌寺付近、差間付近、氷川女体神社付近
を原形保存すること


1986年。開発の動き
乱開発案というべき企画(見沼田圃土地利用基本計画)が動きだしていた。 

見沼田んぼを愛する会は1986年11月に乱開発案を阻止すべく、
再度、埼玉県に緊急の申入れを行っている。
見沼田んぼを愛する会「申し入れ」―抜粋
見沼田圃の土地利用計画策定にあっては、優良農地と自然環境の保全及び地元農家の一方的負担の軽減を図ることを基本とし、
田園景観を生かしたビジョンに基づく計画とすべきこと。
見沼田圃全体の将来像、ビジョンと一体でない土地利用計画の策定は、
乱開発の引き金となるので、まず将来構想を確定すること。

見沼田圃への自然系ないしは農的活用以外の公共、公益施設の建設は、
公共機関自らが農地及び自然の破壊を招いていることを考慮し、現状凍結する必要があること

9月県議会において県より見沼田圃にゴルフ場建設の可能性がある旨の発言をしているが
ゴルフ場は見沼の土地利用としてふさわしくなく、
現実的可能性も少ないと考えるのでその点を明確にすべきこと。

農地の保全については、農業基盤整備事業を行った優良農地を中心に、
収益性を高めた農業への支援を行うとともに、
都市住民と農業との触れ合いの場づくりについて積極的にとりくむこと。

自然環境。湿地、用水、斜面林等の保全については、自然環境を重視した事業の導入し、
県市による土地の買い取り等により保全を推進すべきこと。

見沼代用水東縁1,1㎞の流域については、市民団体等の意見を充分聞いたうえで、自然的歴史的文化的価値を踏まえた保全策をこうじること



『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』 

2019-06-13 | 龍神伝心

『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』  

http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi1.htm

市川瑞雄作品集 見沼風物詩
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
滅びゆき武蔵野の田園風景と人々の生活より

入江から湖沼地帯、そして広大な泥炭地に
見沼田んぼは、古くは東京湾の海水が入り込む、水鳥が遊び、魚が泳ぐ広大な入江だったようです。
今から6000年を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂の堆積で次第に高くなったため、今の東京湾と分離して見沼は湖沼地帯になっていた。湖沼地帯では、枯れて溜まった水草や枯れ葉が長い年月の間に堆積しだんだん浅くなっていきます。たまった植物の残骸が腐ることなく長い間に炭化して泥炭の層を形作ります、これが泥炭地です。見沼も、沼や湖に葦等の水草が生い茂り、そうした葦などの水草が堆積して湿潤で広大な泥炭湿地になっていった。
泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より

泥炭湿地のことを詳しく知りたい人は
日本泥炭湿地保全協会HPへ 
 
見沼田んぼは『田んぼ』と言い表すように『湿田』です。泥炭湿地に客土を行い田畑用の耕土にしてきたのです。見沼田んぼを『ウエットランド』との主張があります。
「湿田」と『ウエットランド』の違いは何なのでしょうか。

1971年,イランのラムサールで締結した、水鳥の生息地として重要な湿地を守るためのラムサール条約では、淡水、海水、汽水、水田、または人工的なところも含めて水のあるところは全て湿地として定義し、重要視しています。
日本生態学会は二次的自然(里山や水田)にこそ絶滅危惧種が多いという調査から保護・保全対象が大きく変わりました。また、1999年5月、コスタリカで開かれたラムサール会議では泥炭湿地の持つ・生物多様性・自然の浄化機能・炭素資源の「賢明な利用が注目され保全行動計画を締約国に提言しました。
泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より
それは、湿地がほとんどが水田耕作に利用されていることです。
「泥炭湿地の水田利用を湿地の保護・保全とどう整合性をとるのか」
という論議があります。
日本泥炭湿地保全協議会では、
泥炭湿地の水田利用もその耕作方法が大型機械に頼らない限り、
小規模な生態系の攪乱ととらえています。
「適度な農業という攪乱」によって育まれた水田雑草も絶滅危惧種が多いのです。
人と自然との農業を通しての深いかかわりこそが、
持続可能な社会に繋がると考えています。
私たちが考える賢明な利用とは--
農地を開発することと、
湿原を保全する事を対極的に考えるのではなく湿原の持つ地域環境への機能を利用することの可能性を考えるということです。 

見沼溜井の時代

見沼は、上流の配水池であると同時に下流の用水源であった。

徳川家康が江戸に幕府を開いて以降見沼は一変する。江戸へ食糧を供給するために見沼の辺りも農業が盛んになった。
そのため農業用水が不足し、水争いが頻発するようになった。
江戸幕府は関東郡代に見沼を灌漑用水池とするように命じ、

関東郡代伊奈忠治(いなただはる)は1629年見沼の両岸がもっとも狭くなっている浦和大間木と川口木曽呂の間に堤(=ダム)を築堤し見沼全体を大きな溜井(=ダム湖)として下流の農業用水の水源を確保し、生産の安定をはかり水争いを治めたという。

この堤(=ダム)は長さが八町あったことから八町堤と呼ばれている。

ぼと見沼代用水の誕生

 

八丁堤の築堤後100年経た享保期には耕地の開発は極限に達し、用水・排水をめぐる見沼溜井上・下流の利害対立の矛盾は貯留量の増加ではもはや抜本的に解決できなくなった。

1728(享保13)年8月。見沼を干拓し新田を拓き、用水路の建設により用水問題を一挙に解決する大構想が実施され、建設には将軍吉宗(よしむね)の命をうけた紀州流の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが)が当たった。
為永は、見沼溜井の縁辺に用水路、中央に排水路を設ける干拓方式をとった。干拓によって生まれたのが「見沼田んぼ」である。

また水源を利根川に求め、現在の行田市で利根川の水を引き入れ、用水路を一路南下させ、

上瓦葺掛樋(かみかわらぶきかけひ)を過ぎたところで二つに別れて見沼たんぼの東西縁を流れる総延長84kmに及ぶ長大な用水路を開削し、

不足する農業用水を供給し、農業用水の供給を安定させた。
また、同時に排水路を整備することにより、関東平野中部地域の既成の用排水系統を再編成し、

池・沼の干拓を行うという、大きなプロジェクトだった。

見沼代用水は干拓された溜井の代替(だいがえ)用水として「代用水」の名で呼ばれている。
このプロジェクトでは,利根川の元圦(もといり)、柴山の伏越(ふせごし)、綾瀬(あやせ)川の架樋(かひ)東西縁用水と芝川を結ぶ閘門(こうもん)式運河(通船堀(つうせんぼり))など独特の技術が発揮された。驚くべきことに着工後半年間でほぼ全形態を備えた。
 見沼代用水の完成により旧利根川と旧荒川の三角州地帯では関東流による葛西(かさい)用水系統に紀州流による見沼代用水系統が重なり、微高地に開削された見沼代用水の余排水が古利根川に流出し、葛西用水の水源としての機能を果たすという大規模かつ合理的な水利用の反復形態が確立された。
 現在、この2大用水は,周辺の用水とともに利根大堰(おおぜき)のもとに合口(ごうぐち)され、農業用水としてはもちろんのこと、東京都へ上水を送るなど新たな使命をも担いながら,流れ続けている。

見沼のような泥炭湿地は地下水が高く、表土が浅いので、農業をするには排水溝を掘り地下水位下げます。また客土を行って耕土を厚くします。泥炭層は土を載せると土の重さで薄くなり土地が沈下します。沈下したら更に客土をします。こうした積年の努力できあがったのが見沼田んぼの耕土です。
しかし、つい最近まで見沼田んぼでは腰までつかる湿田で、田下駄という忍者のような下駄を履いて田植えや稲刈りを行っていました。
そうした重労働から農家が解放されるようになったのは、農業の機械化と田んぼから畑への田畑転換のための農業構造改善事業によってでした。
後に「見沼田んぼは実りの稲穂、野田のさぎ山、通船堀を守り育てる里景色」と歌われ、武蔵野の原風景と言われる見沼田んぼは、当時の最先端の農業土木技術と勤勉な農民の積年の努力が生み出したのです。

今でも、見沼田んぼでは冬になると農家は客土を行って耕土を守っています。

利根導水路事業=合口一期事業
見沼田んぼの東縁と西縁を流れる見沼代用水。見沼代用水の流れは利根川の水であること。また、総延長が82キロもある事は余り知られていない。
江戸中期から始まるこの大きな流れ・見沼代用水に変化が始まったのは、

経済の高度成長が始まり「東京水飢饉」が頻発した東京五輪前頃である。
東京の水不足解消のため、当時のお金で総工費193億円をかけ合口一期事業が行われた。
この合口一期事業で利根大堰や秋ヶ瀬取水堰の建設、武蔵水路開削などが行われる。
合口一期事業の利根大堰の完成で、見沼代用水や葛西用水など八用水が合口(=一括取水)されるようになった。

市川瑞雄作品集 見沼風物詩
沼三原則の時代
1958年の狩野川台風は県南と東京の下町に大きな被害をもたらしました。狩野川台風の被災により、見沼田んぼの治水能力が省みられるようになり、見沼田んぼの農地の転用を厳しく規制する見沼三原則(注)が定められます。


(注)見沼三原則(見沼田圃農地転用方針)とは
1、八丁堤以北県道浦和岩槻線、締切までの間は将来の開発計画に備えた、現在のまま原則として緑地として維持するものとする。
2、県道浦和岩槻線以北は、適正な計画と認められるものについては、開発を認めるものとする。
3、以上の方針によるも、芝川改修計画に支障があると認める場合は農地の転用を認めないものとする
経済の高度成長と見沼田んぼ
 見沼田んぼの下流域や周辺は都市化が急速に進んだ。そして見沼田んぼはしだいに忘れられ取り残されていった
合口二期事業 
 1979年春。総工費507億3700万円かけ、素堀だった見沼代用水を全面的に三面コンクリート舗装に変える「合口二期事業」開始。
農業用水の都市用へ転用する事業がスタートする。
 合口二期事業は、水資源開発促進法に基づいて水資源開発公団が農業用水の都市用水への転用を踏み切った最初の事業だった。
収穫の秋が終われば用水は締められるが、用水全体を三面コンクリートで舗装し、冬でも用水西縁・県立西高下から連絡用パイプラインで荒川へ用水を送水し、大久保浄水場で取水し県南の都市用水として使うための事業だ。
この事業は、県南住民への水の供給のみに止まらず、さらに秋ヶ瀬取水堰を経て東京でも上水としても利用する事業だった。
日本経済の高度成長による人口の都市部への集中と、農業の外部化と衰退という流れの中で、農業用水の需要が減った分を都市用水として利用する、余った農業用水を都市用水に回す施策だった。
 当時は、用水の三面コンクリート舗装は水の浸透が全くないので漏水によるロスが無くなるため水資源の効率的な活用につながると考えられていた。見沼代用水(=農業用水)は、都市住民が使う水を確保するために三面コンクリートで隔離されていった。

「隔離される川」連載始まる。
 1981年に埼玉新聞は「隔離される川」の連載を開始。「見沼代用水の水路改修(三面舗装)工事は生態系を破壊するものだ」という連載記事の主張を契機に、見沼田んぼと見沼代用水に対する社会的な関心が広がっていった。
市川瑞雄作品集 見沼風物詩

『分解者たち』の書評が今朝の朝日新聞に載っていると連絡あり。

2019-06-08 | 風の備忘録 

 

(書評)寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト

『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』 

猪瀬浩平〈著〉 森田友希〈写真〉

■多様な人々の共生に地域耕す力

 障がいのある兄を持つ1978年生まれの著者は、

埼玉の見沼田んぼの福祉農園に一家で関わる中で育った。

彼は自らの土地感覚を踏まえつつ、首都圏開発の周縁に位置し、下水処理施設やごみ焼却場、

朝鮮学校といったものが集められてきた見沼田んぼと周辺地域の歴史を掘り起こし、

その意ログイン前の続き味を咀嚼(そしゃく)していく。

タイトルにもある「分解者たち」というキーワードが表すように、居場所のない、

見向きもされないものたちが、ダンゴムシやミミズが土を豊かにするように、

少しずつ地域を生きやすい場所に変えてきたその軌跡は、静かに力強い。

 76年越谷市役所の職員から起こった、障がい者との共生を目指す運動は、

「わらじの会」となり現在まで継続しているが、

その初期の過程ではそれまで家の一室に閉じ込められてきた障がい者たちの「過去」が見いだされた。

「寒いとき綿くりやってたんだ」という当事者の語りは、農業が機械化していく70年代までは、

障がい者が農閑期の手間仕事の重要な労働力であったことを明らかにする。

 相模ダムと津久井やまゆり園の歴史に触れる章もある。

ダム建設の日本人・朝鮮人・中国人犠牲者の追悼会では2017年、

津久井やまゆり園事件の犠牲者も同時に追悼された。

共にその場に参加した際、障がいのある兄が叫んだことについて著者は不安と不満を読み取り、思い巡らす。

私達(たち)は自ら叫ぶことを忘れて言葉のみを空しく並べ、それ以外の表現を排除してはいないか。

かつてその土地に響いた叫び、本当は今も人知れず響いている叫びに耳を澄ますことを忘れてはいないか。

健常者と障がい者、日本人と朝鮮人、定住者と野宿者。

いくつもの差異を無化していく営みの可能性を、著者は多様な者がうごめく見沼田んぼに見いだす。

論文の硬さとエッセイの軟らかさをあわせ持つ本書は、

読み終えた本の重さがそのまま筆者の未来への祈りのように感じられた。

 評・寺尾紗穂(音楽家・エッセイスト)


6月22日、農園20周年を記念する集い

2019-06-03 | 農園作り
福祉農園が1999年5月に開園し、
共生の農業を掲げて、20年を迎えました。
 この間
農園に関わっている方々も当時からライフステージが変わり ながらも、
耕し続け現在まで続いています。
 皆さんにとって関わり始めた頃の農園や今の農園はどんなものでしょうか。
そしてこれからの農園はどんなものになるでしょう。 
 
写真は、
開園10年を祝って挨拶に来てくれた隣の畑の清水卯吉さん、
開園以来いろいろお世話になったていました。
福祉農園が1999年5月に開園し、共生の農業を掲げて、20年を迎えました。
 20周年を記念し、6月22日に協議会全体で合同作業&交流会を行うことになり、
その実行委員長を務めることになりました寺床純三です。
 
 福祉農園(協議会)が主催
各団体の垣根を越えて、一緒に作業し、飯を食い、交流し、
それぞれがこれからの農園 を考えるきっかけにするものにしたいと考えています。
 写真は開園10周年をt記念した集いのようす。
 参加費は飲む人2000円、飲まない人1000円、中学生未満は無料です
 残れる人は一緒に焚き火を囲みましょう。
 (テントで宿泊可) 
 
 
 

幼馴染と共に農園作業

2019-06-03 | 農作業

  

 \\\\\\\小学校の同級生2人とその子供達と共に農園へ。

玉ねぎを収穫して、安納芋を植え、お昼を食べて桑の実採り。

 途中で大学生が30人くらい来て、子供達はハイテンションに(笑)

 初めましての出会いも、お久しぶりですの再会もあった。

いつも来ている場所でも作業する人が違うと雰囲気が変わるから面白い!

  隣の農家の清水さんと遭遇

 

  私が大切にしている場所に大事な仲間が来てくれた事、

そしてこの場を気に入ってくれた事が嬉しい(^^)

一緒に植えた安納芋の成長が楽しみだな♫ by eiei

 

 


共生社会への模索のために

2019-06-02 | 共生社会のデザイン

共生社会を実践的に模索する福祉農園の」事態が明らかになっている。

以下のyoutubeは、『分解者たち』を紹介した読売新聞本社編集委員の尾崎真理子さんの講演会。3,11以後、新聞の購読をやめている自分にとって、編集委員によって「分解者たち」の書評が書かれたことに驚きをおぼえた。

尾崎真理子 読売新聞東京本社編集委員 著者と語る『ひみつの王国 評伝 石井桃子』 2015.5.21 https://www.youtube.com/watch?v=lwFeChjmJyQ&t=2292s

https://www.youtube.com/watch?v=lwFeChjmJyQ&fbclid=IwAR1GXVJWNCmNVsN6pNOY_5S91aUUfZ2W-oNgAMbH74uszB303T0TfQU0fKo