ムシムシと暑かった今日、久しぶりの農園でした🎵
さつま芋の試し掘りと、
ジャガイモの跡地を耕して土壌改良をしたいというのが今回の目的。
雑草はさほど生えていなかったのですぐに耕運機をかけ、
その間にモロヘイヤ、ゴーヤ、茄子、そうめんかぼちゃ等を収穫。
モロヘイヤは花が咲いてしまいました💧
ゴーヤも大きくなったものもあったのですが、
黄色く熟れすぎてしまったものも😅
茄子は秋ナスが収穫できるように剪定したのが良かったのか大きくなっていました✨
さつま芋は植えたときにカラスの被害に遭うという残念なことがあったため、
植える時期が少し遅れてしまったことと雨続きだったせいなのか大きさはイマイチ。
来週か再来週まで待ってみようと思います。
今日は実習できていた学生さんもいたので耕運機をかけてもらって助かっちゃいました🎵
『農作業は初めてです』と言っていたのですが耕運機は上手にかけてくれました✨
さつま芋の横に1畝分くらいのスペースがあったので
そこには『カラフル大根』なるものの種を蒔いてみました。
来週、芽が出てるかな?ゴーヤとモロヘイヤの跡地には赤玉葱の種を蒔く予定です。
来週は定例会を午前中に行ったあとに農園ですよぉ
一輪車のタイヤがパンク、もう一台が寿命ギリギリになっている。
その他は色々な打ち合わせにきた人びととの昼飯。
PARC自由学校は10月1日に農園に来。代表の大江さんも来る。
明治学院大学は11月13日に10名くらいで参加予定。この日も馬糞運ぶ。
9/10秋の植え付け、大根、ニンジン、ブロッコリー、ほうれん草を植える
先日収穫した各種唐辛子でビネガー、塩、砂糖を加えペーストにする、
レシピを研究して加工食品化を目論む。
こんな暑い日も手作り班は農園に行ってきました❗
午前中はオエヴィスで定例会。
お昼ご飯を食べてから農園へGO❗
今日は生活ホーム職員のTさんとべしみ職員のFさん、
そしてべしみのM君と男手が3人‼
女性陣も8人の総勢11人での作業。
紫蘇畑になっていたのでとにかく抜く❗
雑草も抜く❗
枯れているトマトも抜く❗
いんげんも抜く❗
そして抜いたものはひたすら運ぶ❗
途中で水分補給をしつつみんなでよく働きました🎵
YちゃんはTさんとFさんがいたのでめちゃくちゃハイテンション⤴⤴
Sさんは黙々と雑草運び。
Y子さんも一生懸命紫蘇を抜きました。
そして、りっぱなゴーヤと小さなカボチャ、
そこそこのそうめんカボチャ、モロヘイヤ、ミニトマト、
今年最後の赤紫蘇を収穫
さつまいもは…葉っぱは元気に育っていましたよ。
問題はちゃんと実が出来ているかどうか…
来週も農園に行きますよ❗
きれいにした場所に耕運機をかけ土作りをします。
みなさん、暑い中お疲れ様でした❗
さいたまの「のらんど」あぐりの皆さんが、
べらもんとに援農の為に3日間滞在してくださいました!
いつも一人での農作業が、赤ちゃんから、72歳の方まで
大勢で楽しくイモ掘り作業、かぼちゃ磨き、などお手伝いして頂きたすかりました^ ^^ ^...
マイクロバスで、お帰りになる時にどしゃ降りに、お天気に恵まれ良かったです!
夜に星空も見え、近くの温泉も満喫出来良かったですね。
今年の「べらもんと」の農園祭、皆さんに助けられ助かりました。
【報告】北海道上富良野町「べらもんと」に研修に行ってきました♪
9月4日~6日、北海道上富良野町にある、カフェ&ペンションであり、
体験農園も請け負っている「べらもんと」に研修旅行に行ってきました。
「べらもんと」は、日野市の認定NPO法人やまぼうしの環境保全事業の一環として運営されています。
北海道の広大な大地と寒暖差のある気候の中で栽培された野菜を、
やまぼうしのカフェなどでいただくことができます。
これまでやまぼうしの理事長伊藤さんには何度かお話をお聞きし、また、アドバイスもいただいてきました。
そんな中で北海道の農業を見学し、
自分たちの農業を振り返るため「べらもんと」に「援農」しに行くという研修旅行を企画しました!
折しも北海道に台風が直撃した直後。川が増水、畑もずいぶん水につかって、作物が傷んでしまったところも。
1日目:飛行機に乗って旭川空港、そこから車で上富良野へ。
お花のきれいなファーム富田見学。フラノマルシェ(地元の食がテーマの市場)。温泉。
2日目:援農(じゃがいも掘り、カボチャ磨き、豆の殻むき)。観覧車、温泉。
じゃがいも:じゃがいもを掘ってみたところ、水で傷んだものも多くありました。
カボチャ:手でカボチャを持って機械にあて丁寧に磨きました。
豆の殻むき:ピンクと黒の花豆、白の花豆、えんじ色の金時豆、小豆、白地に薄茶色の模様のついた貝豆。
むくごとに、きれいな豆が籠に溜まっていきました。
3日目:美瑛選果(JAの産直のお店)。
飛行機に乗るのを怖がっていたメンバーも、無事乗ることができ全員無事に行って帰ってくることができました♪
全員が書いた感想や報告を、ブログにアップしていきますので、ぜひ、のぞいてみてください♪
◎研修の様子はこちら
http://ameblo.jp/nolando/day-20160904.html
http://ameblo.jp/nolando/day-20160905.html
毎日新聞・奥山はるな記者の連載「障害のないあなたへ
知事応接室を占拠した人々」全5回が、今日で完結。
この連載の底流には、津久井やまゆり園の事件がある。
記者は「差別や偏見の問題、『障害者が生きづらさを感じない社会の在り方』が改めて問われている。」と書いている。
第1回は、
その前日に行われた埼玉障害者市民ネットワー...ク主催・総合県交渉のシーンから始まる。
その現在から、初めての県交渉が行われた28年前に遡り、
知的障害のある生徒の高校入学を求めて県知事応接室占拠が行われた事実を掘り起こしてゆく。
第2回は、
養護学校義務化の説明付きで、義務化以前に就学を拒否され家の奥で大人になった障害者達と、
義務化によって特別な場に囲い込まれることを拒否してきた親子、それぞれの生活が合流し、
「占拠」に凝縮していったことが語られる。
第3回は、
「そもそも『障害者が街に出て生きる』とは、
どういうことなのか。」という問いから始まる。
就学を拒否され家の奥で育ち、時々パニックになり暴れていた橋本克己さん。
共倒れになるよりはと家族は施設入所を申請しその決定が来たが、
街に出始め変わりつつあった関係に希望を託し拒否した。
あれから38年。迷惑をかけどつかれたりしながら、
無名の有名人となり暮らしのノウハウを編み出しているようすを密着取材した
0000
第4回は、
「総合県交渉によって実現したこともある」として、県庁内福祉の店・アンテナショップかっぽ。
世間の風にさらされ、赤字を抱えながら、障害者団体が日替わりで派遣する障害者達が庁舎内を闊歩する姿。
「時にはぐっすり昼寝してしまうような姿が県庁の風景の一部となり」という専従の言葉も。
第5回は、
あの知事応接室占拠の現場に、高校入学を求める知的障害の兄、
両親とともに居合わせた小学3年生・猪瀬浩平さんのその後。
大学3年の頃、あの体験をとらえ返し「従来と違う問題意識」を探るべく研究者の道へ。
また、父が兄と共働く場として開いた見沼田んぼ福祉農園にも関わり、家族の歴史と向き合う。
その彼が准教授を務める大学の学生が農園で語る。
「『面白い人がいる場所』だから農園に来ている」。
最後に、「施設入所や特別支援教育という分けるシステムはなくならない。
それでも『障害のある人もない人も共に』という理想は、
今も静かに裾野を広げている。」という文章で連載は終わる。
津久井やまゆり園の事件については、さまざまな論評がなされてきたが、容疑者の特性や施設の在り方、
ヘイトクライム、あるいは障害者も同じ人間だといった一面にとどまるものが多い中、
この「障害のないあなたへ」というタイトルと「占拠」に示される、普通の人々の生活と闘いの掘り起こしは重要だ。
奥山さん、ありがとう。by山下浩志
知事応接室の「占拠」から丸20年がたった2008年、
日本ボランティア学会の学会誌に「マツリのようなたたかい」と題した論文が掲載された。
執筆者は、当時9歳の少年として「占拠」に立ち会った猪瀬浩平さん(37)=さいたま市=だ。
猪瀬さんの兄は知的障害者で、地元の小中学校に通い、県立高校への入学を希望した当事者。
小学4年だった猪瀬さんも両親に連れられて県庁に行った。
猪瀬さんの兄は知的障害者で、地元の小中学校に通い、県立高校への入学を希望した当事者。
小学4年だった猪瀬さんも両親に連れられて県庁に行った。
「占拠」3日目の夜、父良一さん(67)=同=が、知事応接室に現れた教育長らをただす様子が、
関係者らのニュースレターに記録されている。
<(県立校への入学を希望し「占拠」に加わった)3人の子供たちは氷山の一角。
他にも高校浪人を強いられている子、やむを得ず養護学校に行っている子は多い。
同世代の子供たちが、どう地域で育っていったら良いと思うか>
父ら当事者の両親の険しい表情や、ずらりと並んだ車いす、
聞き慣れない言語障害の人たちの声が、浩平さんの記憶に焼き付いた。
「占拠」について振り返るようになったのは、大学3年の頃。
「障害者を、従来と違う問題意識で捉えたい」と考え、大学院に進んで研究することにした。
兄らの働く場を作るため、父が1999年に開いた「見沼田んぼ福祉農園」を手伝うようになり、
家族の歴史と向き合い始めた。
浩平さんは「占拠」の意義として、「あらゆる組織や個人をつないだこと」を挙げる。
身体障害者と知的障害者。「教育」を求める子どもの障害者と、「福祉」を求める大人の障害者。
県庁と市民。新住民と旧住民。
「占拠」から3年後の91年には、さまざまな団体が協力して「埼玉障害者市民ネットワーク」を設立し、
毎年「総合県交渉」を続けるようになった。
要望は「さべつ」「くらし」「はたらく」「まなぶ」など多岐にわたり、暮らしの全てを包み込む。
現在、浩平さんは明治学院大の准教授(ボランティア学)を務める。
知り合いの障害者を授業のゲストに招いたり、父の開いた農園に学生を連れていったりしている。
同大4年の山口裕二さん(24)も農園に赴いた1人。
入学間もない頃から通い、泊まり込みのキャンプにも参加。
農園で知り合った自閉症の男性の介助も始め、日常的に障害者と接するようになった。
山口さんは「健常者とされる人にも意思疎通しづらい人はいるし、健常者と障害者の間に、
あまり隔たりは感じない。
浩平先生も含め『面白い人が居る場所』だから農園に来ている」と話す。
相模原市で先月起きた「津久井やまゆり園」事件で、
容疑者が「役に立つ人間」と「役に立たない人間」を分けるような供述をしていると知り、
改めて嫌悪感を覚えた。
「『役に立つ』『役に立たない』で分ける人たちは、実は多いと思う。
こんな事件が起こるような世の中であってほしくない」
「占拠」というセンセーショナルな出来事を経ても、
施設入所や特別支援教育といった「分ける」システムはなくならない。
それでも「障害のある人もない人も共に」という理想は、
今も静かに裾野を広げている。【奥山はるな】=おわり 毎日新聞地方版2016年9月4日朝刊より
埼玉障害者市民ネットワーク主催・総合県交渉が、
8月30,31日の二日間にわたり、県庁講堂で開催された。
私たちは補助金アップや特別な支援の拡大を求めてはいない。
さまざまな障害者本人が地域の他の人々と直接出会いながら一緒に生きている、
その実態を共有してほしいと考えている。
とくに障害者向けではない一般の施策の枠組みを見直す中で、
障害者が共に生きられる施策として位置づけさせてゆきたい。
そして、埼玉障害者市民ネットワークが他の「障害者関係団体」と異なるのは、
さまざまな障害者自身がみずからの言葉で周りの人々と一緒に生きている日常の生活や思いを語り、
県職員に一緒に考えてほしいと発信すること。今回も、たくさんの障害者が語りかけた。
ただ、これでもう30年近く総合県交渉を重ねてきて、障害者たちのことばが職員に及ぼすインパクトが、
しだいに弱まってきたなと感じる。
たぶん、それは私たちが「地域の施設化」と称している分け隔てられた地域の日常と関連しているだろう。
かって、大部分の障害者には支援施策がなく、
少数の重度障害者に対する保護・隔離の施策だけがあった時代の総合県交渉とは、様相が一変している。
今年の総合県交渉の特徴は、
「さべつ」、「くらし」、「街づくり」、「はたらく」、「まなぶ」の5分野にわたる計62の項目のうち、
数を超す33項目を、初日の教育局と障害者支援課だけで回答してしまったこと。
そして、ここで3分の2の時間を費やしてしまったことだ。
そして、教育局の応答の多くを、特別支援教育課が代表してしまっていた。
30年近く前に総合県交渉を始めたとき、
「障害者は特殊教育と福祉によって生きるにあらず」と訴えたことが想い起される。
その中で、「基本は通常学級で共に学ぶこと」との義務教育指導課の言葉や、
「特別支援学校を管轄する特別支援教育課とは別に、
インクルーシブ教育課を」との提案を前向きに受け止めた高校教育指導課、
さらに障害者支援課の全身性障害者介護人派遣事業や入院時の介助に関する積極的姿勢は、
小さな仄灯りといえる。
教育局と障害者支援課にほとんどの回答が委ねられてしまった結果、労働、人事、住宅都市。
防災をはじめとする重要な部課からの回答が、ごく一部となり、質疑応答の時間も限られてしまった。
県職員採用や県庁内実習、県営住宅他の、総合県交渉で積み重ねてきたテーマがさらっと終わってしまった。
ただ、私たちにとっては積み重ねだが、数年で異動する県職員たちにとってはそうではない。
県が自らの支援計画に掲げてきた施策すら内容がわからなくなっていることにも驚いた。
そんな状況の中でも障害者をはじめみんながあきらめることなく、次々と語りかけたことは、
希望のかけらだ。そのいくつかを紹介。
「居酒屋で、皆がとりあえずビールというように、とりあえず通常学級と言えないのか。」
「前に並んでいる一人一人の県職員の言葉を聞きたい。」
「私も告訴をがまんして胸に秘めていることがある。」
「就労B型に一生いろと言われたが退所して、新聞広告を見て面接を受け採用してもらった。」
「専従的に働いてもらっている介助者が精神科病院に入院し、親は高齢なので自分が面会に行ったが、
家族でないからと面会させてくれなかった。」
「地域の暮らしの場は県の回答のようにグループホームだけじゃない。公営住宅を活用すべき」
知事応接室の「占拠」が起きた1988年から続く「総合県交渉」によって、実現したこともある。
その一つが1997年、県庁第2庁舎の1階に障害者団体のアンテナショップ「かっぽ」がオープンしたことだ。
「スタッフの障害者は気後れすることなく、庁内を堂々と歩けばよい」。
そんな意味を込めて名付けられた。
スタッフは、複数の障害者団体が日替わりで派遣する障害者が務める。
お茶などの飲料や弁当、県内各地の名産品を取り扱い、庁内の各課に配達もしている。
店舗は、県庁の玄関口という恵まれた位置にあるが、その運営は「世間の風」と無縁ではない。
オープンから11年後には1階下のフロアにコンビニエンスストアが開店したことで、売り上げが激減。
当初は障害者らが台車に商品を乗せ、「いかがですかー」と庁舎内を巡り歩いていたが、
職員から「会議中なのにうるさい」と苦情を寄せられ、廊下などでの定点販売に切り替えた。
ここ数年は赤字が続き、存続に向けて寄付を募ろうと検討している。]
今年は開店から20年目。
店には当初、主に障害者が施設や作業所でつくったパンやクッキーなどの「授産品」を置いていたが、
各団体が地元で販路を開拓したため、現在はお茶などの飲料が売り上げの中心となっている。
それでも、福祉団体の職員をしながら7年前から専従の店番を務める板倉真紀さん(36)=越谷市=は、
「かっぽ」が存続する意義を感じている。
さまざまな障害がありながらも、仕事を通じて変わってゆくスタッフの姿を見てきたからだという。
例えば、ある発達障害の男性の場合、知り合った10年ほど前は、あいさつしても反応してもらえなかった。
店舗に一緒にいると、不意に髪の毛を引っ張られることもあった。
だが、板倉さんが休みを取っていた日の日誌には、自分に見せたことのない姿が記されていることがあった。
「ぶんちゃかぶんちゃか言いながら、ジュースを飲んでいた」「ソファで昼寝して一日が終わった」。
普通なら「不真面目」で片付けられてしまうことだが、板倉さんは「人間味あふれる人柄」に興味をそそられた。
周囲との関わりによって、男性も徐々に率先して準備や片付けをするようになった。
そして、帰りには「さようなら」とあいさつするようになった。
スタッフの魅力にひかれるのは、板倉さんだけではない。
店を訪れる県職員もしばしば「久しぶり」「今日は張り切ってるね」などと話しかけてくれる。
板倉さんは「自由気ままに、時にはぐっすり昼寝してしまうような姿が県庁の風景の一部となり、
いつしか周りの人を和ませていた」と話す。
「すぐに仕事を覚えて『かっぽ』から巣立ち、社会に出て行く人もいるけれど、長年かけて変わっていく人もいる。
それは生産性や効率性が重視される組織の中では、そもそも認められていないこと。
でも、そこに大切なことがあるような気がする」。板倉さんは、「かっぽ」の存続を切に願っている。
【奥山はるな】=つづく
そもそも「障害者が街に出て生きる」とは、どういうことなのか。
その困難さと可能性を体現してきたのが、弱視や難聴、下半身まひの障害を持ちながら自宅で暮らし、
「県交渉」などの活動にも参加し続ける橋本克己(かつみ)さん(58)=越谷市。
「渋滞」と「絵日記」でその存在を街に知らしめた人だ。
橋本さんは、重度の障害で小学校を「就学免除」にされ、長屋の一室に閉じこもって暮らしていた。
葉でのコミュニケーションができず、毎日、自室に並べたミニカーを指や虫眼鏡で点検し、
わずかな傷を見つけてはパニックになって暴れ出す。
窓を割り、家具をひっくり返すほどの暴力に疲れ果てた家族は、施設入所を決断しようとしていた。
ちょうどその頃、1978年に障害者や支援者で設立したばかりの「わらじの会」のメンバーが訪れ、
橋本さんは初めて街に出た。
19歳だった。電車やバスに乗り、道行く人とすれ違うだけで、自室では感じ得なかった刺激を受けた。
この「衝撃」を周りの人に伝えようと、駅やバス停の看板から字を覚え、
手話を習い始め、イラストを描くようになった。
パニックも次第に治まった。
世界を広げた橋本さんは1人でも街に出るようになる。
しかし当時、車いすで通ることができるのは車道しかなかった。
しかも雨水を排水するため、道の中央を高くして両端は斜めに傾けてある。
端が危険なため、結果的に車いすで真ん中を走ることになった。
かくして、橋本さんの自宅近くにある国道4号バイパスでは「克己渋滞」が発生した。
クラクションが鳴り響いても、難聴の克己さんには届かない。
タクシーの無線で「車いすのあんちゃん出現、迂回(うかい)せよ」という連絡が回った。
車にはねられるなど何度となく交通事故に遭い、いら立ったドライバーに殴られる日もあったが、
過酷な経験をもイラストにして「武勇伝」に変えた。
橋本さんは37歳を迎えた95年、イラスト集「克己絵日記」を出版する。
その帯に、わらじの会メンバーとして橋本さんを見守ってきた山下浩志さん(73)=春日部市=は、
こう寄せた。
<彼は決して「障害を克服」した美談の主ではない。
交通渋滞の元凶であり、あたりかまわず手を借りて街を行く迷惑物体そのものであるかもしれない。
しかし、そんな彼だからこそ、いないと困る。
彼がいるから「みんながありのままに生きる」という社会がイメージできる>
近年、橋本さんは弱視が進み、イラストもおぼろげに輪郭をとったものになった。
それでも週2、3回、ヘルパーの車に乗って、コンビニエンスストアに買い物に行く。
棚の位置は頭に入っているので手探りで商品を選び、レジに財布のコインを全部出し、
店員さんに必要な金額を取ってもらう。
時間をかけ、店側と一緒に築いてきたスタイルだ。
今、楽しみにしているのは来年の越谷花火大会。
今年は床ずれで入院して見られなかった。
手話で「7・2・9」と来年の開催日を予想し、指折り数えて待っている。
目に見えるのはぼんやりとした影かもしれないが、空気を揺るがす振動や火薬のにおいが、
大輪の花のイメージを結ぶ。【奥山はるな】=つづく
毎日新聞 8月31日埼玉県版朝刊
「県庁に4日間、教育長に直接主張
台風10号の接近で朝から 雨が降りしきった30日、さいたま市浦和区の県庁に、
車いすに乗った人たちが続々と集まってきた。
障害者やその家族、支援者が行政への要望を伝えるため、
28年前から続けている「総合県交渉」に出席するためだ。
会場となった県庁内の講堂には100人近くが詰めかけ、約20台の車いすが並んだ。
冒頭、今回の要望書をとりまとめた
埼玉障害者市民ネットワーク代表の
野島久美子さん(58)=春日部市=がマイクを握ってあいさつし、
続けて山下浩志さん(73)=同=がスクリーンにスライド画面を映し出した。
示したのは、棒グラフ。1979年の養護学校義務化の時点から、
養護学校や特別支援学校などで「分ける教育」を受けて福祉施設に入所した人が、
倍以上に膨れあがった状況を表していた。「(障害者を受け入れる)福祉施設がこれだけ増えると、お金がかかる。
そうすると『(障害者は)金食い虫だ』という発想になり、
津久井やまゆり園のような状況が、社会の中に生まれる」。
山下さんは、社会に大きな衝撃を与えた「やまゆり園事件」を引き合いに訴えた。
◇ ◇
知的障害のある少年の高校入学を求め、
初めての「県交渉」が行われたのは1988年2月。
この時、山下さんはすでに未来を予見し、県教育委員会の担当者に次のような手紙を送っていた。
<障害が重ければ重いほど、
大人になってからその人のケアをやろうとすれば莫大(ばくだい)な費用がかかります。
そういうムダをするよりは、義務教育で、
そして高校で、さらには自治体行政の中で、共に学んだり、
働いたりする関係を広げていく努力のほうがずっとたやすいはずです>
この時、結局、少年らの入学はかなわず、3カ月後には少年らやその家族、
支援者が知事や教育長との面会を求めて知事応接室に居座り、
4日間にわたって「占拠」する事態に発展した。この中に野島さんと山下さんがいた。
3日目の夜、ようやく姿を現した教育長を前に、脳性まひの野島さんが、
車いすを使用しながらアパートで一人で暮らしてきた経験を説明し、
障害者が「普通に」暮らす意義を主張した。
「こんな小さなことの話を、あんた方が、大きく大きくしちゃってるんですよ」 この「占拠事件」から28年。
野島さんは「(障害者のための)制度が整って、
サービスも充実したけれど『分ける』システムはなくならず、
障害者は今も見えないベールに包まれている」とため息をついた。
◇ ◇
先月26日、相模原市で障害者19人が刺殺される事件が起き、差別や偏見の問題、
「障害者が生きづらさを感じない社会の在り方」が改めて問われている。
県内には重い障害を持ちながら、施設入所や特別支援教育といった「分ける」システムを拒み、
健常者と同様に街の中で暮らす人たちがいる。彼らが目指すものは何か。
約四半世紀前に起きた「知事応接室占拠事件」を出発点に考える。
【奥山はるな】=つづく
農業機械化で仕事も奪われ 1988年5月11日、毎日新聞
車いすを先頭にした一団が、知事や教育長との面会を求め、県庁本庁舎2階の知事応接室にこもった。
集まったのは中学校を卒業し、県立高校への進学を希望した知的障害のある少年3人と、
その夢を後押しする家族や支援者。
「知事も教育長も出てこないから待つことにした。
占拠するつもりはなかった」。
行動を主導した1人、山下浩志さん(73)=春日部市=は、ひょうひょうと振り返る。
山下さんは60年代中ごろから、医学連(全日本医学生連合)委員長として学生運動に関わった後、
東京都内から春日部市に移住し、77年ごろから隣の越谷市に養護学校をつくる運動に加わった。
しかし養護学校が整備されたことで普通学級に通う障害者への圧力は強まり、
79年に養護学校が義務化された。
こうした流れの中で山下さんは疑問を持ち始め、
78年に「障害のある人もない人も共に街に出て生きよう」を合言葉に、
障害者や支援者でつくる「わらじの会」を設立した。
養護学校が義務制になっても通常の小中学校に通い続けた障害のある子どもたちが、
高校に入学するはずの年を迎えたのが88年。前年の秋から入学に向けた交渉を続けていたが、
入学できないままに新年度が始まってしまった。
「占拠」は最後の手段だった。
当時の知事は革新県政を掲げた社会党出身の畑和(やわら)氏。
「簡単には排除されないだろう」との目算もあった。
4日間の占拠の意義について、山下さんは「障害者が生身の人間として、
その場に存在したこと」だと考えている。知事応接室のソファは障害者やその家族、支援者で埋め尽くされ、子どもたちが跳びはねて遊んだ。
一同は「総点検行動」と称して各課を回った。駅へのエレベーター設置や、
車いすでは入れないほど狭い県庁内のトイレの改善を求めた。
県庁正面玄関の真上にあるバルコニーで車いすの人たちがひなたぼっこをしていると、
職員が「警告書」を手に入ってきたが、結局は退散した。
知事が現れないまま迎えた3日目の夜、教育長がようやく知事応接室に来て、
「(小中と同様に通常の高校への)自主通学を続けられる方策を検討したい」と回答した。
こうした運動を下支えし「占拠」にも参加したのが、
障害ゆえに義務教育を受けられず、
30代まで越谷市の農家の離れにこもっていた新坂光子さん・幸子さん姉妹だ。
「占拠」から2年後(90年3月)の「県交渉」。
ストレッチャーに横たわる姉・光子さんの語りを支援者が書き取り、県庁の壁に張り出した。
<おれらは ねんきんきり(年金しか) はいらねえ だから おやたちに みてもらってきた>
姉妹はかつて、豆の殻むきや裁縫を任せられていた。
しかし農業の機械化が進むと仕事を奪われ「ごくつぶし」の存在とされた。
わらじの会は、そんな姉妹が街に出て、自活できるよう寄り添った。
<いま みんなで まちにでたり はたけ やったりして がんばってる>
<おれらも まちで みんなとくらしたい ちじさん かんがえてくんろ>
半年後の90年9月に光子さんは急逝。その語りは遺言のように、支援者の間で語り継がれている。=つづく
■ことば 養護学校の義務化
かつて義務教育の対象とされていなかった重度・重複障害のある子どもに対応するため、
国は1973年の政令で、79年4月から養護学校への就学を保護者に義務づけた。
これにより全国に養護学校が整備されたが、
慣れ親しんだ地域の小中学校への通学を望む子どもや保護者からは反発が起こった。
学校教育法の改正で2007年4月、養護学校は盲学校やろう学校と合わせて「特別支援学校」に移行。
県によると、義務化された79年度の県内の養護・盲・ろう学校の生徒数は2727人。
昨年度の特別支援学校の生徒数は7179人に達し、大きく増加している。