『見沼の歴史と見沼田んぼ保全運動の歩み』
http://minumafarm.la.coocan.jp/rekisi1.htm
市川瑞雄作品集 見沼風物詩
滅びゆき武蔵野の田園風景と人々の生活より
入江から湖沼地帯、そして広大な泥炭地に 見沼田んぼは、古くは東京湾の海水が入り込む、水鳥が遊び、魚が泳ぐ広大な入江だったようです。 今から6000年を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂の堆積で次第に高くなったため、今の東京湾と分離して見沼は湖沼地帯になっていた。湖沼地帯では、枯れて溜まった水草や枯れ葉が長い年月の間に堆積しだんだん浅くなっていきます。たまった植物の残骸が腐ることなく長い間に炭化して泥炭の層を形作ります、これが泥炭地です。見沼も、沼や湖に葦等の水草が生い茂り、そうした葦などの水草が堆積して湿潤で広大な泥炭湿地になっていった。 |
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泥炭湿地の成り立ち 農文協「地形が育む農業」より 泥炭湿地のことを詳しく知りたい人は 日本泥炭湿地保全協会HPへ |
見沼田んぼは『田んぼ』と言い表すように『湿田』です。泥炭湿地に客土を行い田畑用の耕土にしてきたのです。見沼田んぼを『ウエットランド』との主張があります。 「湿田」と『ウエットランド』の違いは何なのでしょうか。 |
1971年,イランのラムサールで締結した、水鳥の生息地として重要な湿地を守るためのラムサール条約では、淡水、海水、汽水、水田、または人工的なところも含めて水のあるところは全て湿地として定義し、重要視しています。
日本生態学会は二次的自然(里山や水田)にこそ絶滅危惧種が多いという調査から保護・保全対象が大きく変わりました。また、1999年5月、コスタリカで開かれたラムサール会議では泥炭湿地の持つ・生物多様性・自然の浄化機能・炭素資源の「賢明な利用」が注目され保全行動計画を締約国に提言しました。
日本泥炭湿地保全協議会では、
人と自然との農業を通しての深いかかわりこそが、
私たちが考える賢明な利用とは--
農地を開発することと、
見沼溜井の時代 見沼は、上流の配水池であると同時に下流の用水源であった。 徳川家康が江戸に幕府を開いて以降見沼は一変する。江戸へ食糧を供給するために見沼の辺りも農業が盛んになった。 関東郡代伊奈忠治(いなただはる)は1629年見沼の両岸がもっとも狭くなっている浦和大間木と川口木曽呂の間に堤(=ダム)を築堤し見沼全体を大きな溜井(=ダム湖)として下流の農業用水の水源を確保し、生産の安定をはかり水争いを治めたという。 この堤(=ダム)は長さが八町あったことから八町堤と呼ばれている。 |
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見沼田んぼと見沼代用水の誕生
八丁堤の築堤後100年を経た享保期には耕地の開発は極限に達し、用水・排水をめぐる見沼溜井上・下流の利害対立の矛盾は貯留量の増加ではもはや抜本的に解決できなくなった。 1728(享保13)年8月。見沼を干拓し新田を拓き、用水路の建設により用水問題を一挙に解決する大構想が実施され、建設には将軍吉宗(よしむね)の命をうけた紀州流の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが)が当たった。 また水源を利根川に求め、現在の行田市で利根川の水を引き入れ、用水路を一路南下させ、 上瓦葺掛樋(かみかわらぶきかけひ)を過ぎたところで二つに別れて見沼たんぼの東西縁を流れる総延長84kmに及ぶ長大な用水路を開削し、 不足する農業用水を供給し、農業用水の供給を安定させた。 池・沼の干拓を行うという、大きなプロジェクトだった。 見沼代用水は干拓された溜井の代替(だいがえ)用水として「代用水」の名で呼ばれている。 |
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利根導水路事業=合口一期事業 経済の高度成長が始まり「東京水飢饉」が頻発した東京五輪前頃である。 |
見沼三原則の時代 1958年の狩野川台風は県南と東京の下町に大きな被害をもたらしました。狩野川台風の被災により、見沼田んぼの治水能力が省みられるようになり、見沼田んぼの農地の転用を厳しく規制する見沼三原則(注)が定められます。 (注)見沼三原則(見沼田圃農地転用方針)とは 1、八丁堤以北県道浦和岩槻線、締切までの間は将来の開発計画に備えた、現在のまま原則として緑地として維持するものとする。 2、県道浦和岩槻線以北は、適正な計画と認められるものについては、開発を認めるものとする。 3、以上の方針によるも、芝川改修計画に支障があると認める場合は農地の転用を認めないものとする。 |
経済の高度成長と見沼田んぼ 見沼田んぼの下流域や周辺は都市化が急速に進んだ。そして見沼田んぼはしだいに忘れられ取り残されていった。 合口二期事業 1979年春。総工費507億3700万円かけ、素堀だった見沼代用水を全面的に三面コンクリート舗装に変える「合口二期事業」開始。 農業用水の都市用へ転用する事業がスタートする。 合口二期事業は、水資源開発促進法に基づいて水資源開発公団が農業用水の都市用水への転用を踏み切った最初の事業だった。 収穫の秋が終われば用水は締められるが、用水全体を三面コンクリートで舗装し、冬でも用水西縁・県立西高下から連絡用パイプラインで荒川へ用水を送水し、大久保浄水場で取水し県南の都市用水として使うための事業だ。 この事業は、県南住民への水の供給のみに止まらず、さらに秋ヶ瀬取水堰を経て東京でも上水としても利用する事業だった。 日本経済の高度成長による人口の都市部への集中と、農業の外部化と衰退という流れの中で、農業用水の需要が減った分を都市用水として利用する、余った農業用水を都市用水に回す施策だった。 当時は、用水の三面コンクリート舗装は水の浸透が全くないので漏水によるロスが無くなるため水資源の効率的な活用につながると考えられていた。見沼代用水(=農業用水)は、都市住民が使う水を確保するために三面コンクリートで隔離されていった。 「隔離される川」連載始まる。 1981年に埼玉新聞は「隔離される川」の連載を開始。「見沼代用水の水路改修(三面舗装)工事は生態系を破壊するものだ」という連載記事の主張を契機に、見沼田んぼと見沼代用水に対する社会的な関心が広がっていった。 |